史記 / 樊酈滕灌列伝
孝景前三年,吳、楚、齊、趙反,上以寄為將軍,圍趙城,十月不能下。得俞侯欒布自平齊來,乃下趙城,滅趙,王自殺,除國。孝景中二年,寄欲取平原君為夫人,景帝怒,下寄吏,有罪,奪侯。景帝乃以商他子堅封為繆侯,續酈氏後。繆靖侯卒,子康侯遂成立。遂成卒,子懷侯世宗立。世宗卒,子侯終根立,為太常,坐法,國除。汝陰侯夏侯嬰,沛人也。為沛廄司御。每送使客還,過沛泗上亭,與高祖語,未嘗不移日也。嬰已而試補縣吏,與高祖相愛。高祖戲而傷嬰,人有告高祖。高祖時為亭長,重坐傷人,告故不傷嬰,嬰證之。後獄覆,嬰坐高祖系歲餘,掠笞數百,終以是脫高祖。高祖之初與徒屬欲攻沛也,嬰時以縣令史為高祖使。上降沛一日,高祖為沛公,賜嬰爵七大夫,以為太僕。從攻胡陵,嬰與蕭何降泗水監平,平以胡陵降,賜嬰爵五大夫。從擊秦軍碭東,攻濟陽,下戶牖,破李由軍雍丘下,以兵車趣攻戰疾,賜爵執帛。常以太僕奉車從擊章邯軍東阿、濮陽下,以兵車趣攻戰疾,破之,賜爵執珪。復常奉車從擊趙賁軍開封,楊熊軍曲遇。嬰從捕虜六十八人,降卒八百五十人,得印一匱。因復常奉車從擊秦軍雒陽東,以兵車趣攻戰疾,賜爵封轉為滕公。因復奉車從攻南陽,戰於藍田、芷陽,以兵車趣攻戰疾,至霸上。項羽至,滅秦,立沛公為漢王。漢王賜嬰爵列侯,號昭平侯,復為太僕,從入蜀、漢。
新字:孝景前三年,呉、楚、斉、趙反,上以寄為将軍,囲趙城,十月不能下。得兪侯欒布自平斉来,乃下趙城,滅趙,王自殺,除国。孝景中二年,寄欲取平原君為夫人,景帝怒,下寄吏,有罪,奪侯。景帝乃以商他子堅封為繆侯,続酈氏後。繆靖侯卒,子康侯遂成立。遂成卒,子懐侯世宗立。世宗卒,子侯終根立,為太常,坐法,国除。汝陰侯夏侯嬰,沛人也。為沛廄司御。毎送使客還,過沛泗上亭,与高祖語,未嘗不移日也。嬰已而試補県吏,与高祖相愛。高祖戯而傷嬰,人有告高祖。高祖時為亭長,重坐傷人,告故不傷嬰,嬰証之。後獄覆,嬰坐高祖系歳余,掠笞数百,終以是脱高祖。高祖之初与徒属欲攻沛也,嬰時以県令史為高祖使。上降沛一日,高祖為沛公,賜嬰爵七大夫,以為太僕。従攻胡陵,嬰与蕭何降泗水監平,平以胡陵降,賜嬰爵五大夫。従撃秦軍碭東,攻済陽,下戸牖,破李由軍雍丘下,以兵車趣攻戦疾,賜爵執帛。常以太僕奉車従撃章邯軍東阿、濮陽下,以兵車趣攻戦疾,破之,賜爵執珪。復常奉車従撃趙賁軍開封,楊熊軍曲遇。嬰従捕虜六十八人,降卒八百五十人,得印一匱。因復常奉車従撃秦軍雒陽東,以兵車趣攻戦疾,賜爵封転為滕公。因復奉車従攻南陽,戦於藍田、芷陽,以兵車趣攻戦疾,至覇上。項羽至,滅秦,立沛公為漢王。漢王賜嬰爵列侯,号昭平侯,復為太僕,従入蜀、漢。
書き下し
孝景前三年、呉・楚・斉・趙反し、上寄を以て将軍と為し、趙城を囲ましむるも、十月下す能はず。俞侯欒布の斉を平らげて来るを得て、乃ち趙城を下し、趙を滅ぼし、王自殺し、国を除く。孝景中二年、寄平原君を取りて夫人と為さんと欲し、景帝怒り、寄を吏に下し、罪有りて、侯を奪ふ。景帝乃ち商の他の子堅を以て封じて繆侯と為し、酈氏の後を続がしむ。繆靖侯卒し、子康侯遂成立つ。遂成卒し、子懐侯世宗立つ。世宗卒し、子侯終根立ち、太常と為り、法に坐して、国除かる。汝陰侯夏侯嬰は、沛の人なり。沛の廄の司御と為る。使客を送りて還る毎に、沛の泗上亭を過ぎり、高祖と語り、未だ嘗て日を移さずんばあらず。嬰已にして試みられて県吏に補せられ、高祖と相愛す。高祖戯れて嬰を傷つけ、人高祖を告ぐる有り。高祖時に亭長たり、人を傷つくるに重く坐せらるるも、告げて故に嬰を傷つけずとし、嬰之を証す。後に獄覆され、嬰高祖に坐して繋がるること歳余、掠笞せらるること数百、終に是を以て高祖を脱す。高祖の初め徒属と沛を攻めんと欲するや、嬰時に県の令史を以て高祖の使と為る。上沛を降すこと一日、高祖沛公と為り、嬰に爵七大夫を賜ひ、以て太僕と為す。従ひて胡陵を攻め、嬰蕭何と泗水の監平を降し、平胡陵を以て降り、嬰に爵五大夫を賜ふ。従ひて秦軍を碭の東に撃ち、済陽を攻め、戸牖を下し、李由の軍を雍丘の下に破り、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、爵執帛を賜はる。常に太僕を以て車を奉じて従ひて章邯の軍を東阿・濮陽の下に撃ち、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、之を破り、爵執珪を賜はる。復た常に車を奉じて従ひて趙賁の軍を開封に、楊熊の軍を曲遇に撃つ。嬰従ひて虜を捕ふること六十八人、卒を降すこと八百五十人、印一匱を得。因りて復た常に車を奉じて従ひて秦軍を雒陽の東に撃ち、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、爵を賜ひ封じて転じて滕公と為す。因りて復た車を奉じて従ひて南陽を攻め、藍田・芷陽に戦ひ、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、霸上に至る。項羽至り、秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王と為す。漢王嬰に爵列侯を賜ひ、昭平侯と号し、復た太僕と為し、従ひて蜀・漢に入る。
現代語訳
孝景帝の前元三年、呉・楚・斉・趙が反乱を起こすと(呉楚七国の乱)、帝は寄を将軍とし、趙の城を包囲させたが、十か月たっても落とせなかった。俞侯欒布(らんふ)が斉を平定してやって来たので、ようやく趙の城を落として趙を滅ぼし、趙王は自殺して、国は廃された。孝景帝の中元二年、寄は平原君(景帝の皇后の母)を妻に迎えようとしたので、景帝は怒り、寄を役人に引き渡して取り調べさせ、罪があるとして侯の地位を奪った。景帝はそこで商の別の子の堅を繆侯(ぼくこう)に封じ、酈氏の家を継がせた。繆靖侯が死ぬと、子の康侯遂成が立った。遂成が死ぬと、子の懐侯世宗が立った。世宗が死ぬと、子の終根が侯に立ち、太常となったが、法に触れて国は廃された。汝陰侯夏侯嬰(かこうえい)は沛の人である。沛の厩舎で馬車の御者を務めていた。使者や客を送って帰るたびに、沛の泗上亭に立ち寄って高祖と語り合い、そのたびに日が傾くまで話し込んだ。嬰はやがて試験を受けて県の役人に採用され、高祖と親しく付き合った。高祖がふざけて嬰を傷つけてしまい、それを訴え出た者がいた。高祖は当時亭長であったから、人を傷つけた罪は重く問われるところであったが、自分は嬰を傷つけていないと申し立て、嬰もそれを証言した。後に裁判がやり直されると、嬰は高祖をかばった罪で一年余り獄につながれ、数百回も鞭打たれたが、最後まで口を割らず、それによって高祖は罪を免れた。高祖がはじめ仲間とともに沛を攻めようとしたとき、嬰は県の令史として高祖の使者となった。高祖が沛を降伏させたその日、高祖は沛公となり、嬰に七大夫の爵位を与えて太僕(車馬を司る官)とした。胡陵の攻撃に従い、嬰は蕭何とともに泗水郡の監の平を降伏させ、平は胡陵ごと降ったので、嬰は五大夫の爵位を与えられた。秦軍を碭の東で撃ち、済陽を攻め、戸牖を落とし、李由の軍を雍丘の城下で破るのに従い、戦車を駆って素早く攻め戦ったので、執帛の爵位を与えられた。常に太僕として沛公の車を御して従い、章邯の軍を東阿・濮陽の城下で撃ち、戦車を駆って素早く攻め戦ってこれを破り、執珪の爵位を与えられた。また常に車を御して従い、趙賁の軍を開封で、楊熊の軍を曲遇で撃った。嬰はこれに従って捕虜六十八人を得、敵兵八百五十人を降伏させ、官印一箱を手に入れた。さらに常に車を御して従い、秦軍を雒陽の東で撃ち、戦車を駆って素早く攻め戦ったので、爵位を与えられ、封号を改めて滕公(とうこう)となった。さらに車を御して南陽攻めに従い、藍田・芷陽で戦い、戦車を駆って素早く攻め戦い、霸上に至った。項羽が来て秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王とした。漢王は嬰に列侯の爵位を与えて昭平侯と号させ、再び太僕とし、嬰は漢王に従って蜀・漢中に入った。
解説
関連する章句
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史記 樊酈滕灌列伝高祖の崩ずるを竟ふ。太僕を以て孝恵に事ふ。孝恵帝及び高后嬰の孝恵・魯元を下邑の間に脱せしを徳とし、乃ち嬰に県の北の第の第一を賜ひ、「我に近し」と曰ひ、以て之を尊異す。孝恵帝崩じ、太僕を以て高后に事ふ。高后崩じ、代王の来るや、嬰太僕を以て東牟侯と入りて宮を清め、少帝を廃し、天子の法駕を以て代王を代邸に迎へ、大臣と共に立てて孝文皇帝と為し、復た太僕と為る。八歳にして卒し、諡して文侯と為す。子夷侯竈立ち、七年にして卒す。子共侯賜立ち、三十一年にして卒す。子侯頗平陽公主を尚る。立つこと十九歳、元鼎二年、父の御婢と姦するの罪に坐し、自殺し、国除かる。潁陰侯灌嬰は、睢陽の繒を販ぐ者なり。高祖の沛公為るや、地を略して雍丘の下に至り、章邯項梁を敗殺し、而して沛公還りて碭に軍し、嬰初め中涓を以て従ひて東郡の尉を成武に、及び秦軍を杠里に撃破し、疾く闘ひ、爵七大夫を賜はる。従ひて秦軍を亳の南・開封・曲遇に攻め、戦ふこと疾力、爵執帛を賜はり、宣陵君と号す。従ひて陽武以西雒陽に至るまでを攻め、秦軍を尸の北に破り、北して河津を絶ち、南して南陽の守齮を陽城の東に破り、遂に南陽郡を定む。西して武関に入り、藍田に戦ひ、疾力にして、霸上に至り、爵執珪を賜はり、昌文君と号す。沛公立ちて漢王と為り、嬰を拝して郎中と為し、従ひて漢中に入り、十月、拝して中謁者と為す。従ひて還りて三秦を定め、櫟陽を下し、塞王を降す。還りて章邯を廃丘に囲むも、未だ抜かず。従ひて東して臨晋関を出で、殷王を撃ち降し、其の地を定む。項羽の将龍且・魏の相項他の軍を定陶の南に撃ち、疾く戦ひ、之を破る。嬰に爵列侯を賜ひ、昌文侯と号し、杜の平郷に食む。復た中謁者を以て従ひて碭を降し下し、以て彭城に至る。項羽撃ちて、大いに漢王を破る。
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史記 樊酈滕灌列伝還りて三秦を定め、従ひて項籍を撃つ。彭城に至り、項羽大いに漢軍を破る。漢王敗れ、利あらず、馳せ去る。孝恵・魯元を見て、之を載す。漢王急にして、馬罷れ、虜後に在り、常に両児を蹶りて之を棄てんと欲す、嬰常に収め、竟に之を載せ、徐ろに行きて雍樹に面して乃ち馳す。漢王怒り、行くゆく嬰を斬らんと欲する者十余、卒に脱するを得て、孝恵・魯元を豊に致す。漢王既に滎陽に至り、散兵を収め、復た振ひ、嬰に祈陽を食ましむ。復た常に車を奉じて従ひて項籍を撃ち、追ひて陳に至り、卒に楚を定め、魯に至り、茲氏を益食す。漢王立ちて帝と為る。其の秋、燕王臧荼反し、嬰太僕を以て従ひて荼を撃つ。明年、従ひて陳に至り、楚王信を取る。更めて汝陰に食み、符を剖きて世世絶ゆること勿からしむ。太僕を以て従ひて代を撃ち、武泉・雲中に至り、千戸を益食す。因りて従ひて韓信の軍の胡騎を晋陽の旁に撃ち、大いに之を破る。北ぐるを追ひて平城に至り、胡の囲む所と為り、七日通ずるを得ず。高帝使をして厚く閼氏に遺らしめ、冒頓囲みの一角を開く。高帝出でて馳せんと欲するも、嬰固く徐行し、弩皆満を持して外に向け、卒に脱するを得たり。嬰に細陽の千戸を益食す。復た太僕を以て従ひて胡騎を句注の北に撃ち、大いに之を破る。太僕を以て胡騎を平城の南に撃ち、三たび陳を陥れ、功多しと為し、奪ふ所の邑五百戸を賜ふ。太僕を以て陳豨・黥布の軍を撃ち、陳を陥れ敵を卻け、千戸を益食し、定めて汝陰の六千九百戸に食み、前に食む所を除く。嬰上の初め沛に起ちしより、常に太僕と為り、
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史記 樊酈滕灌列伝東して韓信に従ひて龍且・留公旋を高密に攻め、卒に龍且を斬り、右司馬・連尹各一人、楼煩の将十人を生け得、身ら亜将周蘭を生け得。斉の地已に定まり、韓信自ら立ちて斉王と為り、嬰をして別将として楚の将公杲を魯の北に撃たしめ、之を破る。転じて南し、薛郡の長を破り、身ら騎将一人を虜にす。傅陽を攻め、前みて下相以東南の僮・取慮・徐に至る。淮を度り、尽く其の城邑を降し、広陵に至る。項羽項声・薛公・郯公をして復た淮北を定めしむ。嬰淮北を度り、項声・郯公を下邳に撃破し、薛公を斬り、下邳を下し、楚の騎を平陽に撃破し、遂に彭城を降し、柱国項佗を虜にし、留・薛・沛・酇・蕭・相を降す。苦・譙を攻め、復た亜将周蘭を得。漢王と頤郷に会す。従ひて項籍の軍を陳の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒楼煩の将二人を斬り、騎将八人を虜にす。食邑二千五百戸を賜益す。項籍垓下に敗れて去るや、嬰御史大夫を以て詔を受け車騎を将ゐて別れて項籍を追ひて東城に至り、之を破る。将ゐる所の卒五人共に項籍を斬り、皆爵列侯を賜はる。左右司馬各一人、卒万二千人を降し、尽く其の軍の将吏を得。東城・歴陽を下す。江を渡り、呉郡の長を呉の下に破り、呉の守を得、遂に呉・豫章・会稽郡を定む。還りて淮北を定むること、凡そ五十二県。漢王立ちて皇帝と為り、嬰の邑三千戸を賜益す。其の秋、車騎将軍を以て従ひて燕王臧荼を撃破す。明年、従ひて陳に至り、楚王信を取る。還りて、符を剖き、世世絶ゆること勿からしめ、潁陰の二千五百戸に食み、号して潁陰侯と曰ふ。車騎将軍を以て従ひて反せる韓王信を代に撃ち、馬邑に至り、詔を受けて別れて楼煩以北の六県を降し、代の左相を斬り、胡騎を武泉の北に破る。
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史記 高祖本紀下邑を攻め、之を抜く。軍を豊に還す。項梁の薛に在るを聞き、騎百余を従へて往きて之に見ゆ。項梁沛公に卒五千人、五大夫の将十人を益す。沛公還り、兵を引きて豊を攻む。項梁に従ふこと月余、項羽已に襄城を抜きて還る。項梁尽く別将を召して薛に居らしむ。陳王の定めて死せるを聞き、因りて楚の後懐王の孫心を立てて楚王と為し、盱台に治す。項梁武信君と号す。居ること数月、北のかた亢父を攻め、東阿を救ひ、秦の軍を破る。斉の軍帰り、楚独り北ぐるを追ひ、沛公・項羽をして別に城陽を攻めしめ、之を屠る。濮陽の東に軍し、秦の軍と戦ひ、之を破る。秦の軍復た振るひ、濮陽を守り、水を環らす。楚の軍去りて定陶を攻む、定陶未だ下らず。沛公項羽と西のかた地を略して雍丘の下に至り、秦の軍と戦ひ、大いに之を破り、李由を斬る。還りて外黄を攻む、外黄未だ下らず。項梁再び秦の軍を破り、驕る色有り。宋義諫むるも、聴かず。秦章邯の兵を益し、夜枚を銜みて項梁を撃ち、大いに之を定陶に破り、項梁死す。沛公項羽と方に陳留を攻む、項梁の死を聞き、兵を引きて呂将軍と倶に東す。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍す。章邯已に項梁の軍を破り、則ち以為へらく楚の地の兵は憂ふるに足らずと、乃ち河を渡り、北のかた趙を撃ち、大いに之を破る。是の時に当たりて、趙歇王為り、秦の将王離之を鉅鹿城に囲む、此れ所謂河北の軍なり。秦の二世三年、楚の懐王項梁の軍の破るるを見て、恐れ、盱台より徙りて彭城に都し、呂臣・項羽の軍を并せて自ら之に将たり。沛公を以て碭郡の長と為し、封じて武安侯と為し、碭郡の兵に将たらしむ。項羽を封じて長安侯と為し、号して魯公と為す。呂臣を司徒と為し、其の父呂青を令尹と為す。趙数(しばしば)救ひを請ふ、懐王乃ち宋義を以て上将軍と為し、項羽を次将と為し、范増を末将と為し、北のかた趙を救はしむ。
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