史記 / 樊酈滕灌列伝
破雍將軍焉氏,周類軍栒邑,蘇駔軍於泥陽。賜食邑武成六千戶。以隴西都尉從擊項籍軍五月,出鉅野,與鐘離眛戰,疾鬬,受梁相國印,益食邑四千戶。以梁相國將從擊項羽二歲三月,攻胡陵。項羽既已死,漢王為帝。其秋,燕王臧荼反,商以將軍從擊荼,戰龍脫,先登陷陣,破荼軍易下,卻敵,遷為右丞相,賜爵列侯,與諸侯剖符,世世勿絕,食邑涿五千戶,號曰涿侯。以右丞相別定上谷,因攻代,受趙相國印。以右丞相趙相國別與絳侯等定代、鴈門,得代丞相程縱、守相郭同、將軍已下至六百石十九人。還,以將軍為太上皇衛一歲七月。以右丞相擊陳豨,殘東垣。又以右丞相從高帝擊黥布,攻其前拒,陷兩陳,得以破布軍,更食曲周五千一百戶,除前所食,凡別破軍三,降定郡六,縣七十三,得丞相、守相、大將各一人,小將二人,二千石已下至六百石十九人。商事孝惠、高后時,商病,不治。其子寄,字況,與呂祿善。及高后崩,大臣欲誅諸呂,呂祿為將軍,軍於北軍,太尉勃不得入北軍,於是乃使人劫酈商,令其子況紿呂祿,呂祿信之,故與出游,而太尉勃乃得入據北軍,遂誅諸呂。是歲商卒,謚為景侯。子寄代侯。天下稱酈況賣交也。
新字:破雍将軍焉氏,周類軍栒邑,蘇駔軍於泥陽。賜食邑武成六千戸。以隴西都尉従撃項籍軍五月,出鉅野,与鐘離眛戦,疾闘,受梁相国印,益食邑四千戸。以梁相国将従撃項羽二歳三月,攻胡陵。項羽既已死,漢王為帝。其秋,燕王臧荼反,商以将軍従撃荼,戦竜脱,先登陥陣,破荼軍易下,却敵,遷為右丞相,賜爵列侯,与諸侯剖符,世世勿絶,食邑涿五千戸,号曰涿侯。以右丞相別定上谷,因攻代,受趙相国印。以右丞相趙相国別与絳侯等定代、鴈門,得代丞相程縦、守相郭同、将軍已下至六百石十九人。還,以将軍為太上皇衛一歳七月。以右丞相撃陳豨,残東垣。又以右丞相従高帝撃黥布,攻其前拒,陥両陳,得以破布軍,更食曲周五千一百戸,除前所食,凡別破軍三,降定郡六,県七十三,得丞相、守相、大将各一人,小将二人,二千石已下至六百石十九人。商事孝恵、高后時,商病,不治。其子寄,字況,与呂禄善。及高后崩,大臣欲誅諸呂,呂禄為将軍,軍於北軍,太尉勃不得入北軍,於是乃使人劫酈商,令其子況紿呂禄,呂禄信之,故与出游,而太尉勃乃得入拠北軍,遂誅諸呂。是歳商卒,謚為景侯。子寄代侯。天下称酈況売交也。
書き下し
雍の将軍焉氏を破り、周類の軍を栒邑に、蘇駔の軍を泥陽に破る。食邑武成六千戸を賜はる。隴西都尉を以て従ひて項籍の軍を撃つこと五月、鉅野に出で、鍾離眛と戦ひ、疾く闘ひ、梁の相国の印を受け、食邑四千戸を益す。梁の相国を以て将として従ひて項羽を撃つこと二歳三月、胡陵を攻む。項羽既已に死し、漢王帝と為る。其の秋、燕王臧荼反し、商将軍を以て従ひて荼を撃ち、龍脱に戦ひ、先登して陳を陥れ、荼の軍を易の下に破り、敵を卻け、遷りて右丞相と為り、爵列侯を賜はり、諸侯と符を剖き、世世絶ゆること勿からしめ、涿の五千戸に食み、号して涿侯と曰ふ。右丞相を以て別れて上谷を定め、因りて代を攻め、趙の相国の印を受く。右丞相・趙の相国を以て別れて絳侯等と代・鴈門を定め、代の丞相程縦・守相郭同・将軍已下六百石に至るまで十九人を得。還りて、将軍を以て太上皇の衛と為ること一歳七月。右丞相を以て陳豨を撃ち、東垣を残す。又右丞相を以て高帝に従ひて黥布を撃ち、其の前拒を攻め、両陳を陥れ、以て布の軍を破るを得、更めて曲周の五千一百戸に食み、前に食む所を除く。凡そ別れて軍を破ること三、郡六・県七十三を降し定め、丞相・守相・大将各一人、小将二人、二千石已下六百石に至るまで十九人を得。商孝恵・高后に事ふる時、商病みて、治めず。其の子寄、字は況、呂禄と善し。高后崩ずるに及び、大臣諸呂を誅せんと欲す、呂禄将軍と為りて、北軍に軍す、太尉勃北軍に入るを得ず、是に於て乃ち人をして酈商を劫さしめ、其の子況をして呂禄を紿かしむ、呂禄之を信じ、故に与に出游し、而して太尉勃乃ち入りて北軍に拠るを得、遂に諸呂を誅す。是の歳商卒し、諡して景侯と為す。子寄代りて侯たり。天下酈況の交はりを売るを称す。
現代語訳
雍の将軍焉氏(えんし)を破り、周類の軍を栒邑(じゅんゆう)で、蘇駔(そそう)の軍を泥陽で破った。武成の六千戸を食邑として与えられた。隴西都尉として漢王に従い項籍の軍を撃つこと五か月、鉅野(きょや)に出て鍾離眛(しょうりばつ)と戦い、激しく戦って、梁の相国の印を授けられ、食邑を四千戸加増された。梁の相国として兵を率い、項羽を撃つこと二年三か月、胡陵を攻めた。項羽が死ぬと、漢王は皇帝となった。その秋、燕王臧荼が謀反すると、商は将軍として従って荼を撃ち、龍脱で戦い、一番乗りして敵陣を陥れ、荼の軍を易水のほとりで破って敵を退け、右丞相に昇り、列侯の爵位を与えられ、諸侯と割符を分けて代々絶えぬ約束を受け、涿(たく)の五千戸を食邑として涿侯と号した。右丞相として別動隊で上谷を平定し、そのまま代を攻め、趙の相国の印を授けられた。右丞相・趙の相国として、別動隊で絳侯らとともに代・鴈門(がんもん)を平定し、代の丞相程縦、守相郭同、将軍以下六百石までの官吏十九人を捕らえた。帰還すると、将軍として太上皇(高祖の父)の護衛を一年七か月務めた。右丞相として陳豨を撃ち、東垣を打ち壊した。また右丞相として高帝に従って黥布を撃ち、その前衛の陣を攻めて二つの陣を陥れ、それによって黥布の軍を破ることができた。改めて曲周の五千百戸を食邑とし、それまでの食邑は取りやめとなった。別動隊として破った敵軍は合わせて三、降伏・平定させた郡は六、県は七十三、捕らえた者は丞相・守相・大将各一人、小将二人、二千石以下六百石までの官吏十九人であった。商は孝恵帝・高后に仕えたが、病にかかり、政務を執らなかった。その子の寄は字(あざな)を況といい、呂禄と親しかった。高后が崩御すると、大臣たちは呂氏一族を誅滅しようとしたが、呂禄が将軍として北軍(都の守備軍)を握っていたため、太尉周勃は北軍に入ることができなかった。そこで人をやって酈商を人質に取って脅し、その子の況に呂禄をだまさせた。呂禄は況を信じて一緒に遊びに出かけ、その間に太尉周勃は北軍に入ってこれを掌握し、ついに呂氏一族を誅滅した。この年、商は死に、景侯と諡された。子の寄が跡を継いで侯となった。世間では酈況は友を売ったと言いはやした。
解説
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史記 樊酈滕灌列伝其の後盧綰反し、高帝噲をして相国を以て燕を撃たしむ。是の時高帝病甚だし、人噲の呂氏に党するを悪む有り、即し上一日宮車晏駕せば、則ち噲兵を以て尽く戚氏・趙王如意の属を誅滅せんと欲すと。高帝之を聞きて大いに怒り、乃ち陳平をして絳侯を載せて代りて将たらしめ、而して即ち軍中にて噲を斬らしむ。陳平呂后を畏れ、噲を執へて長安に詣る。至れば則ち高祖已に崩じ、呂后噲を釈し、復た爵邑せしむ。孝恵六年、樊噲卒し、諡して武侯と為す。子伉代りて侯たり。而して伉の母呂須も亦た臨光侯と為り、高后の時事を用ひ権を専らにし、大臣尽く之を畏る。伉侯に代ること九歳にして、高后崩ず。大臣諸呂・呂須の婘属を誅し、因りて伉を誅す。舞陽侯中ごろ絶ゆること数月。孝文帝既に立ち、乃ち復た噲の他の庶子市人を封じて舞陽侯と為し、故の爵邑に復す。市人立つこと二十九歳にして卒し、諡して荒侯と為す。子他広代りて侯たり。六歳、侯家の舎人他広に罪を得て、之を怨み、乃ち上書して曰く「荒侯市人病みて人と為る能はず、其の夫人をして其の弟と乱して他広を生ましむ、他広は実は荒侯の子に非ず、当に後に代るべからず」と。詔して吏に下す。孝景中六年、他広侯を奪はれて庶人と為り、国除かる。曲周侯酈商は、高陽の人なり。陳勝起こる時、商少年を聚めて東西に人を略し、数千を得。沛公地を略して陳留に至ること、六月余、商卒四千人を将ゐて沛公に岐に属す。従ひて長社を攻め、先登し、爵を賜ひて信成君と封ず。沛公に従ひて緱氏を攻め、河津を絶ち、秦軍を洛陽の東に破る。従ひて宛・穣を攻め下し、十七県を定む。別将として旬関を攻め、漢中を定む。項羽秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王と為す。漢王商に爵信成君を賜ひ、将軍を以て隴西都尉と為す。別将として北地・上郡を定む。
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史記 酈生陸賈列伝夫れ漢王は蜀漢を発して、三秦を定め、西河の外に渉りて、上党の兵を援け、井陘を下りて、成安君を誅し、北魏を破りて、三十二城を挙ぐ。此れ蚩尤の兵なり、人の力に非ざるなり、天の福なり。今已に敖倉の粟に拠り、成皋の険を塞ぎ、白馬の津を守り、大行の阪を杜ぎ、蜚狐の口を距ぐ。天下後れて服する者は先に亡びん。王疾く先に漢王に下らば、斉国の社稷得て保つべきなり。漢王に下らずんば、危亡立ちどころにして待つべきなり」と。田広以て然りと為し、乃ち酈生に聴き、歴下の兵の守戦の備へを罷め、酈生と日に酒を縦にす。淮陰侯、酈生の軾に伏して斉の七十余城を下すと聞き、乃ち夜兵を平原に度して斉を襲ふ。斉王田広、漢兵の至るを聞き、以て酈生己を売ると為し、乃ち曰く、「汝能く漢軍を止めば、我汝を活かさん。然らずんば、我将に汝を亨(に)んとす」と。酈生曰く、「大事を挙ぐる者は細謹せず、盛徳は辞譲せず。而公(だいこう)は若(なんぢ)の為に更に言はず」と。斉王遂に酈生を亨て、兵を引きて東に走る。漢の十二年、曲周侯酈商、丞相を以て兵を将ゐて黥布を撃ちて功有り。高祖列侯功臣を挙ぐるに、酈食其を思ふ。酈食其の子疥、数兵を将ゐるも、功未だ侯に当たらず。上其の父の故を以て、疥を封じて高梁侯と為す。後に更めて武遂に食み、嗣ぐこと三世。元狩元年中、武遂侯平、詔を詐りて衡山王の百斤の金を取るに坐し、棄市に当たるも、病死し、国除かるるなり。陸賈は楚人なり。客を以て高祖に従ひて天下を定め、名づけて口弁有る士と為し、左右に居りて、常に諸侯に使ひす。高祖の時に及び、中国初めて定まる。尉他(いた)南越を平らげ、因りて之に王たり。高祖陸賈をして尉他に印を賜ひて南越王と為さしむ。陸生至る、尉他魋結(ついけつ)箕倨して陸生を見る。陸生因りて進みて他に説きて曰く、「足下は中国の人、親戚昆弟の墳は真定に在り。
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史記 呂太后本紀列侯群臣自ら其の命を堅くする莫し。太尉絳侯勃軍中に入りて兵を主るを得ず。曲周侯酈商老い病み、其の子寄呂禄と善し。絳侯乃ち丞相陳平と謀り、人をして酈商を劫かさしむ。其の子寄をして往きて紿(あざむ)きて呂禄に説かしめて曰く、「高帝呂后と共に天下を定む、劉氏の立つる所の九王、呂氏の立つる所の三王、皆大臣の議なり、事已に諸侯に布告し、諸侯皆以て宜しと為す。今太后崩じ、帝少し、而して足下趙王の印を佩び、急ぎ国に之きて藩を守らず、乃ち上将と為り、兵を将ゐて此に留まる、大臣諸侯の疑ふ所と為る。足下何ぞ印を帰し、兵を以て太尉に属せざる。請ふ梁王をして相国の印を帰し、大臣と盟ひて国に之かしめば、斉の兵必ず罷め、大臣安んずるを得、足下枕を高くして千里に王たらん、此れ万世の利なり。」と。呂禄信に其の計を然りとし、将の印を帰し、兵を以て太尉に属せんと欲す。人をして呂産及び諸呂の老人に報ぜしむ、或いは以て便と為し、或いは便ならずと曰ひ、計猶予して未だ決する所有らず。呂禄酈寄を信じ、時に与に出でて游猟す。其の姑呂嬃を過ぐ、嬃大いに怒りて、曰く、「若将と為りて軍を棄つ、呂氏今に処無からん。」と。乃ち悉く珠玉宝器を出だして堂下に散じて、曰く、「他人の為に守る毋からん。」と。左丞相食其免ぜらる。八月庚申の旦、平陽侯窋御史大夫の事を行ひ、相国産に見えて事を計る。郎中令賈寿使ひして斉より来り、因りて産を数めて曰く、「王蚤く国に之かず、今行かんと欲すと雖も、尚ほ得べけんや。」と。具に灌嬰の斉楚と合従し、諸呂を誅せんと欲するを以て産に告げ、乃ち産を趣して急ぎ宮に入らしむ。平陽侯頗る其の語を聞き、乃ち馳せて丞相・太尉に告ぐ。太尉北軍に入らんと欲す、入るを得ず。襄平侯通符節を尚(つかさど)る。乃ち節を持して矯りて太尉を北軍に内(い)れしむ。
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史記 樊酈滕灌列伝孝景前三年、呉・楚・斉・趙反し、上寄を以て将軍と為し、趙城を囲ましむるも、十月下す能はず。俞侯欒布の斉を平らげて来るを得て、乃ち趙城を下し、趙を滅ぼし、王自殺し、国を除く。孝景中二年、寄平原君を取りて夫人と為さんと欲し、景帝怒り、寄を吏に下し、罪有りて、侯を奪ふ。景帝乃ち商の他の子堅を以て封じて繆侯と為し、酈氏の後を続がしむ。繆靖侯卒し、子康侯遂成立つ。遂成卒し、子懐侯世宗立つ。世宗卒し、子侯終根立ち、太常と為り、法に坐して、国除かる。汝陰侯夏侯嬰は、沛の人なり。沛の廄の司御と為る。使客を送りて還る毎に、沛の泗上亭を過ぎり、高祖と語り、未だ嘗て日を移さずんばあらず。嬰已にして試みられて県吏に補せられ、高祖と相愛す。高祖戯れて嬰を傷つけ、人高祖を告ぐる有り。高祖時に亭長たり、人を傷つくるに重く坐せらるるも、告げて故に嬰を傷つけずとし、嬰之を証す。後に獄覆され、嬰高祖に坐して繋がるること歳余、掠笞せらるること数百、終に是を以て高祖を脱す。高祖の初め徒属と沛を攻めんと欲するや、嬰時に県の令史を以て高祖の使と為る。上沛を降すこと一日、高祖沛公と為り、嬰に爵七大夫を賜ひ、以て太僕と為す。従ひて胡陵を攻め、嬰蕭何と泗水の監平を降し、平胡陵を以て降り、嬰に爵五大夫を賜ふ。従ひて秦軍を碭の東に撃ち、済陽を攻め、戸牖を下し、李由の軍を雍丘の下に破り、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、爵執帛を賜はる。常に太僕を以て車を奉じて従ひて章邯の軍を東阿・濮陽の下に撃ち、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、之を破り、爵執珪を賜はる。復た常に車を奉じて従ひて趙賁の軍を開封に、楊熊の軍を曲遇に撃つ。嬰従ひて虜を捕ふること六十八人、卒を降すこと八百五十人、印一匱を得。因りて復た常に車を奉じて従ひて秦軍を雒陽の東に撃ち、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、爵を賜ひ封じて転じて滕公と為す。因りて復た車を奉じて従ひて南陽を攻め、藍田・芷陽に戦ひ、兵車を以て趣きて攻戦すること疾く、霸上に至る。項羽至り、秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王と為す。漢王嬰に爵列侯を賜ひ、昭平侯と号し、復た太僕と為し、従ひて蜀・漢に入る。
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