史記 / 樊酈滕灌列伝
還定三秦,從擊項籍。至彭城,項羽大破漢軍。漢王敗,不利,馳去。見孝惠、魯元,載之。漢王急,馬罷,虜在後,常蹶兩兒欲棄之,嬰常收,竟載之,徐行面雍樹乃馳。漢王怒,行欲斬嬰者十餘,卒得脫,而致孝惠、魯元於豐。漢王既至滎陽,收散兵,復振,賜嬰食祈陽。復常奉車從擊項籍,追至陳,卒定楚,至魯,益食茲氏。漢王立為帝。其秋,燕王臧荼反,嬰以太僕從擊荼。明年,從至陳,取楚王信。更食汝陰,剖符世世勿絕。以太僕從擊代,至武泉、雲中,益食千戶。因從擊韓信軍胡騎晉陽旁,大破之。追北至平城,為胡所圍,七日不得通。高帝使使厚遺閼氏,冒頓開圍一角。高帝出欲馳,嬰固徐行,弩皆持滿外向,卒得脫。益食嬰細陽千戶。復以太僕從擊胡騎句注北,大破之。以太僕擊胡騎平城南,三陷陳,功為多,賜所奪邑五百戶。以太僕擊陳豨、黥布軍,陷陳卻敵,益食千戶,定食汝陰六千九百戶,除前所食。嬰自上初起沛,常為太僕,
新字:還定三秦,従撃項籍。至彭城,項羽大破漢軍。漢王敗,不利,馳去。見孝恵、魯元,載之。漢王急,馬罷,虜在後,常蹶両児欲棄之,嬰常収,竟載之,徐行面雍樹乃馳。漢王怒,行欲斬嬰者十余,卒得脱,而致孝恵、魯元於豊。漢王既至滎陽,収散兵,復振,賜嬰食祈陽。復常奉車従撃項籍,追至陳,卒定楚,至魯,益食茲氏。漢王立為帝。其秋,燕王臧荼反,嬰以太僕従撃荼。明年,従至陳,取楚王信。更食汝陰,剖符世世勿絶。以太僕従撃代,至武泉、雲中,益食千戸。因従撃韓信軍胡騎晋陽旁,大破之。追北至平城,為胡所囲,七日不得通。高帝使使厚遺閼氏,冒頓開囲一角。高帝出欲馳,嬰固徐行,弩皆持満外向,卒得脱。益食嬰細陽千戸。復以太僕従撃胡騎句注北,大破之。以太僕撃胡騎平城南,三陥陳,功為多,賜所奪邑五百戸。以太僕撃陳豨、黥布軍,陥陳却敵,益食千戸,定食汝陰六千九百戸,除前所食。嬰自上初起沛,常為太僕,
書き下し
還りて三秦を定め、従ひて項籍を撃つ。彭城に至り、項羽大いに漢軍を破る。漢王敗れ、利あらず、馳せ去る。孝恵・魯元を見て、之を載す。漢王急にして、馬罷れ、虜後に在り、常に両児を蹶りて之を棄てんと欲す、嬰常に収め、竟に之を載せ、徐ろに行きて雍樹に面して乃ち馳す。漢王怒り、行くゆく嬰を斬らんと欲する者十余、卒に脱するを得て、孝恵・魯元を豊に致す。漢王既に滎陽に至り、散兵を収め、復た振ひ、嬰に祈陽を食ましむ。復た常に車を奉じて従ひて項籍を撃ち、追ひて陳に至り、卒に楚を定め、魯に至り、茲氏を益食す。漢王立ちて帝と為る。其の秋、燕王臧荼反し、嬰太僕を以て従ひて荼を撃つ。明年、従ひて陳に至り、楚王信を取る。更めて汝陰に食み、符を剖きて世世絶ゆること勿からしむ。太僕を以て従ひて代を撃ち、武泉・雲中に至り、千戸を益食す。因りて従ひて韓信の軍の胡騎を晋陽の旁に撃ち、大いに之を破る。北ぐるを追ひて平城に至り、胡の囲む所と為り、七日通ずるを得ず。高帝使をして厚く閼氏に遺らしめ、冒頓囲みの一角を開く。高帝出でて馳せんと欲するも、嬰固く徐行し、弩皆満を持して外に向け、卒に脱するを得たり。嬰に細陽の千戸を益食す。復た太僕を以て従ひて胡騎を句注の北に撃ち、大いに之を破る。太僕を以て胡騎を平城の南に撃ち、三たび陳を陥れ、功多しと為し、奪ふ所の邑五百戸を賜ふ。太僕を以て陳豨・黥布の軍を撃ち、陳を陥れ敵を卻け、千戸を益食し、定めて汝陰の六千九百戸に食み、前に食む所を除く。嬰上の初め沛に起ちしより、常に太僕と為り、
現代語訳
(夏侯嬰は)引き返して三秦を平定し、漢王に従って項籍を撃った。彭城に至ったところで、項羽が漢軍を大いに破った。漢王は敗れて形勢が悪く、馬車を走らせて逃げた。途中で孝恵(後の恵帝)と魯元公主(漢王の子供たち)を見つけ、車に乗せた。漢王は追い詰められ、馬は疲れ、敵はすぐ後ろに迫っていたので、何度も二人の子を蹴落として捨てようとした。嬰はそのたびに子供たちを拾い上げ、とうとう最後まで乗せ続け、子供たちが落ちないよう、ゆっくり進んで彼らを自分の首に抱きつかせてから馬を駆けさせた。漢王は怒り、逃げる途中で嬰を斬ろうとしたことが十数回に及んだが、ついに逃げ延び、孝恵と魯元を豊に送り届けた。漢王は滎陽に着くと、散り散りの兵を集めて勢いを取り戻し、嬰に祈陽を食邑として与えた。また常に車を御して項籍の攻撃に従い、追って陳に至り、ついに楚を平定し、魯に至って茲氏を加増された。漢王は即位して皇帝となった。その秋、燕王臧荼が謀反すると、嬰は太僕として従って荼を撃った。翌年、従って陳に至り、楚王韓信を捕らえた。改めて汝陰を食邑とし、割符を分けて代々絶えることのない約束を受けた。太僕として代の攻撃に従い、武泉・雲中に至って千戸を加増された。続いて韓王信の軍の胡人の騎兵を晋陽の近くで撃つのに従い、大いにこれを破った。敗走する敵を追って平城に至ったところで、匈奴に包囲され、七日間外と連絡できなかった。高帝は使者をやって閼氏(あつし、単于の后)に厚く贈り物をさせたので、冒頓(ぼくとつ)単于は包囲の一角を開いた。高帝は脱出して一気に馬を走らせようとしたが、嬰はあくまでゆっくり進み、弩兵にはみな矢をつがえて弓を引き絞ったまま外側に向けさせ、ついに脱出することができた。嬰に細陽の千戸を加増した。また太僕として従い、胡人の騎兵を句注山の北で撃って大いに破った。太僕として胡人の騎兵を平城の南で撃ち、三度敵陣を陥れ、功が多かったので、奪い取った邑五百戸を与えられた。太僕として陳豨・黥布の軍を撃ち、敵陣を陥れて敵を退け、千戸を加増され、汝陰の六千九百戸を食邑として確定し、それまでの食邑は取りやめとなった。嬰は高祖が沛で挙兵したときから、常に太僕を務め、
解説

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