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史記 / 樊酈滕灌列伝

其後盧綰反,高帝使噲以相國擊燕。是時高帝病甚,人有惡噲黨於呂氏,即上一日宮車晏駕,則噲欲以兵盡誅滅戚氏、趙王如意之屬。高帝聞之大怒,乃使陳平載絳侯代將,而即軍中斬噲。陳平畏呂后,執噲詣長安。至則高祖已崩,呂后釋噲,使復爵邑。孝惠六年,樊噲卒,謚為武侯。子伉代侯。而伉母呂須亦為臨光侯,高后時用事專權,大臣盡畏之。伉代侯九歲,高后崩。大臣誅諸呂、呂須婘屬,因誅伉。舞陽侯中絕數月。孝文帝既立,乃復封噲他庶子市人為舞陽侯,復故爵邑。市人立二十九歲卒,謚為荒侯。子他廣代侯。六歲,侯家舍人得罪他廣,怨之,乃上書曰:「荒侯市人病不能為人,令其夫人與其弟亂而生他廣,他廣實非荒侯子,不當代後。」詔下吏。孝景中六年,他廣奪侯為庶人,國除。曲周侯酈商者,高陽人。陳勝起時,商聚少年東西略人,得數千。沛公略地至陳留,六月餘,商以將卒四千人屬沛公於岐。從攻長社,先登,賜爵封信成君。從沛公攻緱氏,絕河津,破秦軍洛陽東。從攻下宛、穰,定十七縣。別將攻旬關,定漢中。項羽滅秦,立沛公為漢王。漢王賜商爵信成君,以將軍為隴西都尉。別將定北地、上郡。

新字:其後盧綰反,高帝使噲以相国撃燕。是時高帝病甚,人有悪噲党於呂氏,即上一日宮車晏駕,則噲欲以兵尽誅滅戚氏、趙王如意之属。高帝聞之大怒,乃使陳平載絳侯代将,而即軍中斬噲。陳平畏呂后,執噲詣長安。至則高祖已崩,呂后釈噲,使復爵邑。孝恵六年,樊噲卒,謚為武侯。子伉代侯。而伉母呂須亦為臨光侯,高后時用事専権,大臣尽畏之。伉代侯九歳,高后崩。大臣誅諸呂、呂須婘属,因誅伉。舞陽侯中絶数月。孝文帝既立,乃復封噲他庶子市人為舞陽侯,復故爵邑。市人立二十九歳卒,謚為荒侯。子他広代侯。六歳,侯家舎人得罪他広,怨之,乃上書曰:「荒侯市人病不能為人,令其夫人与其弟乱而生他広,他広実非荒侯子,不当代後。」詔下吏。孝景中六年,他広奪侯為庶人,国除。曲周侯酈商者,高陽人。陳勝起時,商聚少年東西略人,得数千。沛公略地至陳留,六月余,商以将卒四千人属沛公於岐。従攻長社,先登,賜爵封信成君。従沛公攻緱氏,絶河津,破秦軍洛陽東。従攻下宛、穰,定十七県。別将攻旬関,定漢中。項羽滅秦,立沛公為漢王。漢王賜商爵信成君,以将軍為隴西都尉。別将定北地、上郡。

書き下し

其の後盧綰反し、高帝噲をして相国を以て燕を撃たしむ。是の時高帝病甚だし、人噲の呂氏に党するを悪む有り、即し上一日宮車晏駕せば、則ち噲兵を以て尽く戚氏・趙王如意の属を誅滅せんと欲すと。高帝之を聞きて大いに怒り、乃ち陳平をして絳侯を載せて代りて将たらしめ、而して即ち軍中にて噲を斬らしむ。陳平呂后を畏れ、噲を執へて長安に詣る。至れば則ち高祖已に崩じ、呂后噲を釈し、復た爵邑せしむ。孝恵六年、樊噲卒し、諡して武侯と為す。子伉代りて侯たり。而して伉の母呂須も亦た臨光侯と為り、高后の時事を用ひ権を専らにし、大臣尽く之を畏る。伉侯に代ること九歳にして、高后崩ず。大臣諸呂・呂須の婘属を誅し、因りて伉を誅す。舞陽侯中ごろ絶ゆること数月。孝文帝既に立ち、乃ち復た噲の他の庶子市人を封じて舞陽侯と為し、故の爵邑に復す。市人立つこと二十九歳にして卒し、諡して荒侯と為す。子他広代りて侯たり。六歳、侯家の舎人他広に罪を得て、之を怨み、乃ち上書して曰く「荒侯市人病みて人と為る能はず、其の夫人をして其の弟と乱して他広を生ましむ、他広は実は荒侯の子に非ず、当に後に代るべからず」と。詔して吏に下す。孝景中六年、他広侯を奪はれて庶人と為り、国除かる。曲周侯酈商は、高陽の人なり。陳勝起こる時、商少年を聚めて東西に人を略し、数千を得。沛公地を略して陳留に至ること、六月余、商卒四千人を将ゐて沛公に岐に属す。従ひて長社を攻め、先登し、爵を賜ひて信成君と封ず。沛公に従ひて緱氏を攻め、河津を絶ち、秦軍を洛陽の東に破る。従ひて宛・穣を攻め下し、十七県を定む。別将として旬関を攻め、漢中を定む。項羽秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王と為す。漢王商に爵信成君を賜ひ、将軍を以て隴西都尉と為す。別将として北地・上郡を定む。

現代語訳

その後、盧綰が謀反すると、高帝は噲を相国として燕を撃たせた。このとき高帝の病は重く、噲が呂氏の一派に与していると憎んで、「もし陛下がある日崩御なさったら、噲は兵を使って戚夫人や趙王如意の一族をことごとく誅滅しようとしている」と告げる者がいた。高帝はこれを聞いて激怒し、陳平に命じて絳侯(周勃)を車に乗せて行かせ、噲に代わって将軍とし、陣中でただちに噲を斬らせようとした。陳平は呂后を恐れて、噲を捕らえて長安へ連行した。着いたときには高祖はすでに崩御しており、呂后は噲を釈放して、爵位と封邑を元に戻させた。孝恵帝の六年、樊噲は死に、武侯と諡(おくりな)された。子の伉が跡を継いで侯となった。伉の母の呂須も臨光侯となり、高后(呂后)の時代に権力をふるって政治を専断したので、大臣たちはみな彼女を恐れた。伉が侯を継いで九年目に高后が崩御した。大臣たちは呂氏一族と呂須の親族を誅殺し、その流れで伉も誅殺した。舞陽侯の家は数か月途絶えた。孝文帝が即位すると、噲の別の庶子である市人を舞陽侯に封じ、もとの爵位と封邑に戻した。市人は侯となって二十九年で死に、荒侯と諡された。子の他広が跡を継いだ。六年後、侯家の舎人が他広に罰せられて恨みを抱き、上書して「荒侯市人は病気で男として子をなせず、夫人に自分の弟と通じさせて他広を生ませた。他広は実は荒侯の子ではないから、跡を継ぐべきではない」と訴えた。詔によって役人に取り調べさせた。孝景帝の中元六年、他広は侯を剥奪されて庶人となり、国は廃された。曲周侯酈商(れきしょう)は高陽の人である。陳勝が挙兵したとき、商は若者を集めて東西で人を集め、数千人を得た。沛公が各地を攻略して陳留に至ってから六か月余りのち、商は兵四千人を率いて岐で沛公の配下に入った。長社の攻撃に従って一番乗りし、爵位と信成君の封号を与えられた。沛公に従って緱氏(こうし)を攻め、黄河の渡し場を断ち、秦軍を洛陽の東で破った。宛・穣を攻め落とし、十七県を平定した。別将として旬関を攻め、漢中を平定した。項羽が秦を滅ぼし、沛公を立てて漢王にした。漢王は商に信成君の爵位を与え、将軍として隴西都尉とした。別将として北地・上郡を平定した。

解説

樊噲の晩年と子孫の顛末、そして次の酈商伝の書き出しです。高祖の死の直前、呂后の妹婿である樊噲は、戚夫人と趙王如意を皆殺しにするつもりだと讒言され、陣中で斬られる寸前でした。陳平が呂后の報復を恐れてあえて斬らずに連行したことが、結果として樊噲を救います。しかし呂氏との縁は子の代で裏目に出て、呂氏誅滅のときに子の伉も殺され、さらに孫の代には出生の疑いを告発されて家は断絶しました。前段の「最も親しかった」という一文が、ここで重く効いてきます。功臣の家が三代で途絶える話は史記に繰り返し出てきます。後ろ盾の力に頼った地位は、その後ろ盾が倒れたときに一緒に崩れるということを、司馬遷は淡々と示しています。

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