史記 / 楚世家
九年,相若敖氏。人或讒之王,恐誅,反攻王,王撃滅若敖氏之族。十三年,滅舒。十六年,伐陳,殺夏徴舒。徴舒弒其君,故誅之也。已破陳,卽縣之。群臣皆賀,申叔時使齊來,不賀。王問,對曰:「鄙語曰,牽牛徑人田,田主取其牛。徑者則不直矣,取之牛不亦甚乎?且王以陳之亂而率諸侯伐之,以義伐之而貪其縣,亦何以復令於天下!」莊王乃復國陳後。十七年春,楚莊王圍鄭,三月克之。入自皇門,鄭伯肉袒牽羊以逆,曰:「孤不天,不能事君,君用懷怒,以及敝邑,孤之罪也。敢不惟命是聽!賓之南海,若以臣妾賜諸侯,亦惟命是聽。若君不忘厲、宣、桓、武,不絶其社稷,使改事君,孤之願也,非所敢望也。敢布腹心。」楚群臣曰:「王勿許。」莊王曰:「其君能下人,必能信用其民,庸可絶乎!」莊王自手旗,左右麾軍,引兵去三十里而舍,遂許之平。潘尪入盟,子良出質。夏六月,晉救鄭,與楚戰,大敗晉師河上,遂至衡雍而歸。二十年,圍宋,以殺楚使也。圍宋五月,城中食盡,易子而食,析骨而炊。宋華元出告以情。莊王曰:「君子哉!」遂罷兵去。二十三年,莊王卒,子共王審立。共王十六年,晉伐鄭。鄭告急,共王救鄭。與晉兵戰鄢陵,晉敗楚,射中共王目。共王召將軍子反。
新字:九年,相若敖氏。人或讒之王,恐誅,反攻王,王撃滅若敖氏之族。十三年,滅舒。十六年,伐陳,殺夏徴舒。徴舒弒其君,故誅之也。已破陳,即県之。群臣皆賀,申叔時使斉来,不賀。王問,対曰:「鄙語曰,牽牛径人田,田主取其牛。径者則不直矣,取之牛不亦甚乎?且王以陳之乱而率諸侯伐之,以義伐之而貪其県,亦何以復令於天下!」荘王乃復国陳後。十七年春,楚荘王囲鄭,三月克之。入自皇門,鄭伯肉袒牽羊以逆,曰:「孤不天,不能事君,君用懐怒,以及敝邑,孤之罪也。敢不惟命是聴!賓之南海,若以臣妾賜諸侯,亦惟命是聴。若君不忘厲、宣、桓、武,不絶其社稷,使改事君,孤之願也,非所敢望也。敢布腹心。」楚群臣曰:「王勿許。」荘王曰:「其君能下人,必能信用其民,庸可絶乎!」荘王自手旗,左右麾軍,引兵去三十里而舎,遂許之平。潘尪入盟,子良出質。夏六月,晋救鄭,与楚戦,大敗晋師河上,遂至衡雍而帰。二十年,囲宋,以殺楚使也。囲宋五月,城中食尽,易子而食,析骨而炊。宋華元出告以情。荘王曰:「君子哉!」遂罷兵去。二十三年,荘王卒,子共王審立。共王十六年,晋伐鄭。鄭告急,共王救鄭。与晋兵戦鄢陵,晋敗楚,射中共王目。共王召将軍子反。
書き下し
九年、若敖氏に相たり。人或いは之を王に讒す。誅せられんことを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒其の君を弑す。故に之を誅するなり。已に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す。申叔時斉に使ひして来たり、賀せず。王問ふ。対へて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田を徑(わた)れば、田主其の牛を取る、と。徑る者は則ち直からず。之が牛を取るは亦た甚だしからずや。且つ王陳の乱を以て諸侯を率ゐて之を伐つ。義を以て之を伐ちて其の県を貪る。亦た何を以て復た天下に令せん」と。荘王乃ち陳の後を復国す。十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之に克つ。皇門より入る。鄭伯肉袒し羊を牽きて以て逆へて曰く、「孤天ならず、君に事ふること能はず。君用て怒りを懐き、以て敝邑に及ぶ。孤の罪なり。敢て惟だ命を是れ聴かざらんや。之を南海に賓(しりぞ)くるも、若しくは臣妾を以て諸侯に賜ふも、亦た惟だ命を是れ聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶たず、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許すこと勿かれ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る。必ず能く其の民を信用せん。庸ぞ絶つべけんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾(さしまね)き、兵を引きて去ること三十里にして舎り、遂に之に平らぐことを許す。潘尪入りて盟ひ、子良出でて質たり。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ふ。大いに晋の師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。二十年、宋を囲む。楚の使ひを殺せしを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食らひ、骨を析きて炊ぐ。宋の華元出でて告ぐるに情を以てす。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒し、子の共王審立つ。共王の十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ。共王鄭を救ふ。晋の兵と鄢陵に戦ふ。晋楚を敗り、共王の目に射中つ。共王将軍子反を召す。
現代語訳
九年、荘王は若敖氏の者を宰相とした。ある者がその宰相を王に讒言したので、宰相は誅殺されることを恐れて、逆に王を攻めた。王は反撃して若敖氏の一族を滅ぼした。十三年、舒を滅ぼした。十六年、陳を攻めて夏徴舒を殺した。夏徴舒がその君を殺したので、それを罰したのである。陳を破ると、そのまま陳を楚の県とした。群臣はみな祝ったが、斉への使いから戻った申叔時だけは祝わなかった。王がわけを尋ねると、申叔時は答えた。「世間のことわざに『牛を引いて他人の田を踏み荒らしたら、田の持ち主がその牛を取り上げた』というのがある。踏み荒らした者は確かに悪いが、その牛まで取り上げるのはやりすぎではないか。しかも王は陳の乱を理由に諸侯を率いて討ったのに、正義の名で討っておきながらその土地を欲しがった。これではもう天下に号令することはできない」。荘王はそこで陳の子孫に国を再興させた。十七年の春、楚の荘王は鄭を包囲し、三か月で落とした。荘王が皇門から入ると、鄭伯は上半身をあらわにし、羊を引いて出迎え、こう言った。「私は天に見放され、君にお仕えすることができなかった。そのため君はお怒りになり、わが国にまで攻めて来られた。これは私の罪だ。どうしてご命令に従わずにいられよう。私を南の海辺に追いやられても、臣下や召使いとして諸侯に与えられても、ご命令に従う。もし君が、わが国の祖先である厲王・宣王・桓公・武公のことをお忘れにならず、この国の社稷を絶やさず、あらためて君にお仕えさせてくださるなら、それが私の願いだ。とても望めることではないが、あえて心の内を申し上げる」。楚の群臣は言った。「王よ、お許しになってはならない」。荘王は言った。「この君主は人にへりくだることができる。きっと民を信じて用いることができるだろう。どうして国を絶やせようか」。荘王は自ら旗を手に取り、左右の軍を指図して、兵を三十里引いて宿営し、ついに鄭との和睦を許した。楚の潘尪が鄭に入って盟約を結び、鄭の子良が人質として楚に出た。夏六月、晋が鄭を救いに来て楚と戦った。楚は黄河のほとりで晋軍を大いに破り、そのまま衡雍まで進んで帰った。二十年、楚は宋を包囲した。宋が楚の使者を殺したからである。宋を包囲して五か月、城内では食糧が尽き、子を取り替えて食べ、骨を割って炊ぐありさまだった。宋の華元が城を出て、ありのままを告げた。荘王は「君子だ」と言い、兵を引いて去った。二十三年、荘王が亡くなり、子の共王審が立った。共王の十六年、晋が鄭を攻めた。鄭が急を告げたので、共王は鄭を救いに行き、鄢陵で晋軍と戦った。晋は楚を破り、共王の目を射抜いた。共王は将軍の子反を呼び寄せた。
解説
関連する章句
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史記 鄭世家繆氏は、霊公を殺せし子公の族家なり。去疾曰く、「必ず繆氏を去らば、我将に之を去らんとす」と。乃ち止む。皆以て大夫と為す。襄公元年、楚、鄭の宋の賂を受けて華元を縦すを怒り、鄭を伐つ。鄭楚に背き、晋と親しむ。五年、楚復た鄭を伐ち、晋来りて之を救ふ。六年、子家卒す。国人復た其の族を逐ふ。其の霊公を弑せしを以てなり。七年、鄭、晋と鄢陵に盟ふ。八年、楚の荘王、鄭の晋と盟ふを以て、来りて伐ち、鄭を囲むこと三月、鄭城を以て楚に降る。楚王皇門より入る。鄭の襄公肉袒して羊を掔きて以て迎へて曰く、「孤辺邑に事ふること能はず、君王をして怒りを懐きて以て獘邑に及ばしむ。孤の罪なり。敢へて惟だ命を是れ聴かざらんや。君王之を江南に遷し、及び以て諸侯に賜ふも、亦惟だ命を是れ聴かん。若し君王、厲・宣王、桓・武公を忘れず、哀れみて其の社稷を絶つに忍びず、不毛の地を錫ひ、復た君王に改め事ふることを得しめば、孤の願ひなり。然れども敢へて望む所に非ざるなり。敢へて腹心を布き、惟だ命を是れ聴かん」と。荘王為に三十里を卻きて後に舎る。楚の群臣曰く、「郢より此に至るまで、士大夫も亦久しく労せり。今国を得て之を捨つ、何如」と。荘王曰く、「伐つ所為の者は、服せざるを伐つなり。今已に服す、尚何をか求めんや」と。卒に去る。晋、楚の鄭を伐つを聞き、兵を発して鄭を救ふ。其の来るや両端を持す、故に遅し。河に至る比、楚の兵已に去る。晋の将率或いは渡らんと欲し、或いは還らんと欲す。卒に河を渡る。荘王聞き、還りて晋を撃つ。鄭反りて楚を助け、大いに晋軍を河上に破る。十年、晋来りて鄭を伐つ。其の晋に反きて楚に親しむを以てなり。十一年、楚の荘王宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋の景公兵を発して宋を救はんと欲す。伯宗晋君を諫めて曰く、「天方に楚を開く、未だ伐つべからざるなり」と。乃ち壮士を求めて霍人解揚、字は子虎を得、楚を誆きて、宋をして降る毋からしめんとす。鄭を過る。鄭は楚と親し、乃ち解揚を執へて楚に献ず。
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史記 鄭世家楚王厚く賜ひて与に約し、其の言を反さしめ、宋をして趣かに降らしめんとす。三たび要めて乃ち許す。是に於て楚、解揚を楼車に登らせ、宋を呼ばしむ。遂に楚の約に負きて其の晋君の命を致して曰く、「晋方に国の兵を悉くして以て宋を救はんとす。宋急なりと雖も、慎みて楚に降る毋かれ。晋の兵今に至らん」と。楚の荘王大いに怒り、将に之を殺さんとす。解揚曰く、「君能く命を制するを義と為し、臣能く命を承くるを信と為す。吾が君の命を受けて以て出づ。死有るも隕とす無し」と。荘王曰く、「若の我に許し、已にして之に背く。其の信安くに在りや」と。解揚曰く、「王に許せし所以は、以て吾が君の命を成さんと欲すればなり」と。将に死せんとし、顧みて楚軍に謂ひて曰く、「人臣と為りて忠を尽くして死を得ることを忘るる無かれ」と。楚王の諸弟皆王を諫めて之を赦さしむ。是に於て解揚を赦して帰らしむ。晋之に爵して上卿と為す。十八年、襄公卒し、子悼公沸立つ。悼公元年、鄦公、鄭を楚に悪む。悼公、弟睔をして楚に於て自ら訟へしむ。訟直からず、楚睔を囚ふ。是に於て鄭の悼公来りて晋と平ぎ、遂に親しむ。睔、私かに楚の子反に於てす。子反言ひて睔を鄭に帰さしむ。二年、楚鄭を伐つ。晋の兵来り救ふ。是の歳、悼公卒し、其の弟睔を立つ、是を成公と為す。成公三年、楚の共王曰く「鄭の成公は孤徳有り」と。人をして来りて与に盟はしむ。成公私かに与に盟ふ。秋、成公晋に朝す。晋曰く「鄭私かに楚に平ぐ」と。之を執ふ。欒書をして鄭を伐たしむ。四年春、鄭晋の囲みを患ふ。公子如乃ち成公の庶兄繻を立てて君と為す。其の四月、晋、鄭の君を立つるを聞き、乃ち成公を帰す。鄭人成公の帰るを聞き、亦君繻を殺し、成公を迎ふ。晋の兵去る。十年、晋の盟に背き、楚に盟ふ。晋の厲公怒り、兵を発して鄭を伐つ。楚の共王鄭を救ふ。晋・楚鄢陵に戦ふ。楚の兵敗れ、晋楚の共王の目を射傷つけ、倶に罷めて去る。十三年、晋の悼公鄭を伐ち、洧上に兵す。鄭城守す。晋も亦去る。
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史記 楚世家楚王怒りて曰く、「我を召す。我将に好く往きて襲ひて之を辱めんとす」と。遂に行き、盂に至り、遂に宋公を執へて辱め、已にして之を帰す。三十四年、鄭の文公南のかた楚に朝す。楚の成王北のかた宋を伐ち、之を泓に敗り、宋の襄公を射傷つく。襄公遂に創を病みて死す。三十五年、晋の公子重耳楚を過ぐ。成王諸侯の客礼を以て饗し、而して厚く之を秦に送る。三十九年、魯の僖公来たりて兵を請ひて以て斉を伐たんとす。楚申侯をして兵を将ゐて斉を伐たしめ、穀を取り、斉の桓公の子雍を焉に置く。斉の桓公の七子皆楚に奔る。楚尽く以て上大夫と為す。夔を滅ぼす。夔祝融・鬻熊を祀らざるの故なり。夏、宋を伐つ。宋急を晋に告ぐ。晋宋を救ふ。成王罷めて帰る。将軍子玉戦はんことを請ふ。成王曰く、「重耳亡げて外に居ること久しく、卒に国に反るを得たり。天の開く所なり。当たるべからず」と。子玉固く請ふ。乃ち之に少師を与へて去る。晋果たして子玉を城濮に敗る。成王怒り、子玉を誅す。四十六年、初め、成王将に商臣を以て太子と為さんとし、令尹子上に語る。子上曰く、「君の歯未だし。而して又内寵多し。絀(しりぞ)くれば乃ち乱れん。楚国の挙は常に少き者に在り。且つ商臣は蜂目にして豺声なり。忍人なり。立つべからず」と。王聴かず、之を立つ。後に又子職を立てて太子商臣を絀けんと欲す。商臣聞くも未だ審らかならず。其の傅潘崇に告げて曰く、「何を以て其の実を得ん」と。崇曰く、「王の寵姫江羋を饗して敬する勿かれ」と。商臣之に従ふ。江羋怒りて曰く、「宜なるかな、王の若を殺して職を立てんと欲するや」と。商臣潘崇に告げて曰く、「信なり」と。崇曰く、「能く之に事へんか」と。曰く、「能はず」と。「能く亡げ去らんか」と。曰く、「能はず」と。「能く大事を行はんか」と。曰く、「能くせん」と。冬十月、商臣宮衛の兵を以て成王を囲む。成王熊蹯を食らひて死せんことを請ふも、聴かず。丁未、成王自ら絞殺す。商臣代はり立つ。是を穆王と為す。穆王立ち、其の太子の宮を以て潘崇に予へ、太師と為して、国事を掌らしむ。穆王の三年、江を滅ぼす。四年、六・蓼を滅ぼす。六・蓼は、皋陶の後なり。八年、陳を伐つ。十二年、卒す。子の荘王侶立つ。
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史記 陳杞世家二十九年、陳楚の盟に倍(そむ)く。三十年、楚の共王陳を伐つ。是の歳、成公卒し、子の哀公弱立つ。楚陳の喪を以て、兵を罷めて去る。哀公の三年、楚陳を囲み、復た之を釈す。二十八年、楚の公子囲其の君郟敖を弑して自立し、霊王と為る。三十四年、初め、哀公鄭に娶る。長姫悼太子師を生み、少姫偃を生む。二嬖妾あり、長妾は留を生み、少妾は勝を生む。留哀公に寵有り、哀公之を其の弟司徒招に属す。哀公病む。三月、招悼太子を殺し、留を立てて太子と為す。哀公怒り、招を誅せんと欲す。招兵を発して哀公を囲み守る。哀公自ら経(くび)れて殺す。招卒に留を立てて陳君と為す。四月、陳使ひをして楚に赴せしむ。楚の霊王陳の乱るるを聞き、乃ち陳の使者を殺し、公子棄疾をして兵を発して陳を伐たしむ。陳君留鄭に奔る。九月、楚陳を囲む。十一月、陳を滅ぼし、棄疾をして陳公と為らしむ。招の悼太子を殺すや、太子の子名は呉、出でて晋に奔る。晋の平公太史趙に問ひて曰く、「陳は遂に亡びんか」と。対へて曰く、「陳は顓頊の族なり。陳氏政を斉に得て、乃ち卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふこと無し。舜之を重ぬるに明徳を以てす。遂に至るまで、世々之を守る。胡公に及びて、周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。且つ盛徳の後は、必ず百世祀らる。虞の世未だし。其れ斉に在らんか」と。楚の霊王陳を滅ぼして五歳、楚の公子棄疾霊王を弑して代はり立つ。是を平王と為す。平王初めて立ち、諸侯を和するを得んと欲し、乃ち故の陳の悼太子師の子呉を求め、立てて陳侯と為す。是を恵公と為す。恵公立ち、探りて哀公の卒せし時の年に続けて元と為す。空籍五歳なり。十年、陳火あり。十五年、呉王僚公子光をして陳を伐たしめ、胡・沈を取りて去る。二十八年、呉王闔閭子胥と楚を敗りて郢に入る。
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史記 陳杞世家孔寧・儀行父皆楚に奔り、霊公の太子午晋に奔る。徴舒自立して陳侯と為る。徴舒は、故の陳の大夫なり。夏姫は、御叔の妻にして、舒の母なり。成公の元年冬、楚の荘王夏徴舒の霊公を殺しし為に、諸侯を率ゐて陳を伐つ。陳に謂ひて曰く、「驚くこと無かれ。吾徴舒を誅するのみ」と。
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史記 陳杞世家楚莊王徵舒を誅し、因りて陳を県として之を有つ。群臣畢く賀す。申叔時齊に使ひして還るに、独り賀せず。莊王其の故を問ふ。対へて曰く、「鄙語に之れ有り、『牛を牽きて人の田を径る、田主之が牛を奪ふ』と。径るは則ち罪有り、之が牛を奪ふは、亦た甚だしからずや。今王徵舒を賊にして君を弒すと為し、故に兵を諸侯に徴し、義を以て之を伐つ。已にして之を取り、以て其の地を利せば、則ち後何を以て天下に令せんや。是を以て賀せず」と。莊王曰く、「善し」と。乃ち陳の靈公の太子午を晉に迎へて之を立つ。孔子曰く、「賢なるかな楚莊王、千乗の国を軽んじて一言を重んず」と。
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