史記 / 魏公子列伝
公子行,侯生曰:「將在外,主令有所不受,以便國家。公子即合符,而晉鄙不授公子兵而復請之,事必危矣。臣客屠者朱亥可與俱,此人力士。晉鄙聽,大善;不聽,可使擊之。」於是公子泣。侯生曰:「公子畏死邪?何泣也?」公子曰:「晉鄙嚄唶宿將,往恐不聽,必當殺之,是以泣耳,豈畏死哉?」於是公子請朱亥。朱亥笑曰:「臣乃市井鼓刀屠者,而公子親數存之,所以不報謝者,以為小禮無所用。今公子有急,此乃臣效命之秋也。」遂與公子俱。公子過謝侯生。侯生曰:「臣宜從,老不能。請數公子行日,以至晉鄙軍之日,北鄉自剄,以送公子。」公子遂行。至鄴,矯魏王令代晉鄙。晉鄙合符,疑之,舉手視公子曰:「今吾擁十萬之眾,屯於境上,國之重任,今單車來代之,何如哉?」欲無聽。朱亥袖四十斤鐵椎,椎殺晉鄙,公子遂將晉鄙軍。勒兵下令軍中曰:「父子俱在軍中,父歸;兄弟俱在軍中,兄歸;獨子無兄弟,歸養。」得選兵八萬人,進兵擊秦軍。秦軍解去,遂救邯鄲,存趙。趙王及平原君自迎公子於界,平原君負籣矢為公子先引。趙王再拜曰:「自古賢人未有及公子者也。」當此之時,平原君不敢自比於人。公子與侯生決,至軍,侯生果北鄉自剄。
新字:公子行,侯生曰:「将在外,主令有所不受,以便国家。公子即合符,而晋鄙不授公子兵而復請之,事必危矣。臣客屠者朱亥可与倶,此人力士。晋鄙聴,大善;不聴,可使撃之。」於是公子泣。侯生曰:「公子畏死邪?何泣也?」公子曰:「晋鄙嚄唶宿将,往恐不聴,必当殺之,是以泣耳,豈畏死哉?」於是公子請朱亥。朱亥笑曰:「臣乃市井鼓刀屠者,而公子親数存之,所以不報謝者,以為小礼無所用。今公子有急,此乃臣効命之秋也。」遂与公子倶。公子過謝侯生。侯生曰:「臣宜従,老不能。請数公子行日,以至晋鄙軍之日,北郷自剄,以送公子。」公子遂行。至鄴,矯魏王令代晋鄙。晋鄙合符,疑之,舉手視公子曰:「今吾擁十万之衆,屯於境上,国之重任,今単車来代之,何如哉?」欲無聴。朱亥袖四十斤鉄椎,椎殺晋鄙,公子遂将晋鄙軍。勒兵下令軍中曰:「父子倶在軍中,父帰;兄弟倶在軍中,兄帰;独子無兄弟,帰養。」得選兵八万人,進兵撃秦軍。秦軍解去,遂救邯鄲,存趙。趙王及平原君自迎公子於界,平原君負籣矢為公子先引。趙王再拝曰:「自古賢人未有及公子者也。」当此之時,平原君不敢自比於人。公子与侯生決,至軍,侯生果北郷自剄。
書き下し
公子行く、侯生曰く、「将は外に在りては、主の令も受けざる所有り、以て国家に便ならしむ。公子即ち符を合はするも、晋鄙公子に兵を授けずしてまたこれを請はば、事必ず危ふし。臣の客の屠者朱亥、与に倶にすべし、此の人は力士なり。晋鄙聴かば、大いに善し。聴かずんば、これを撃たしむべし」と。是に於いて公子泣く。侯生曰く、「公子死を畏るるか、何ぞ泣くや」と。公子曰く、「晋鄙は嚄唶の宿将なり、往くも恐らくは聴かず、必ず当にこれを殺すべし、是を以て泣くのみ。豈に死を畏れんや」と。是に於いて公子朱亥に請ふ。朱亥笑ひて曰く、「臣は乃ち市井に刀を鼓する屠者なり、而るに公子親ら数々これを存す。報謝せざる所以の者は、以為へらく小礼は用ふる所無しと。今公子急有り、此れ乃ち臣の命を效すの秋なり」と。遂に公子と倶にす。公子過りて侯生に謝す。侯生曰く、「臣宜しく従ふべきも、老いて能はず。請ふ公子の行く日を数へ、以て晋鄙の軍に至るの日、北郷して自剄し、以て公子を送らん」と。公子遂に行く。鄴に至り、魏王の令を矯めて晋鄙に代はらんとす。晋鄙符を合はせ、これを疑ひ、手を挙げて公子を視て曰く、「今、吾十万の衆を擁し、境上に屯す、国の重任なり。今単車にて来たりてこれに代はる、何如ぞや」と。聴くこと無からんと欲す。朱亥、四十斤の鉄椎を袖にし、晋鄙を椎殺す。公子遂に晋鄙の軍に将たり。兵を勒して令を軍中に下して曰く、「父子倶に軍中に在らば、父は帰れ。兄弟倶に軍中に在らば、兄は帰れ。独子にして兄弟無きは、帰りて養へ」と。選兵八万人を得、兵を進めて秦の軍を撃つ。秦の軍解きて去り、遂に邯鄲を救ひ、趙を存す。趙王及び平原君自ら公子を界に迎へ、平原君は籣矢を負ひて公子の為に先引す。趙王再拝して曰く、「古より賢人未だ公子に及ぶ者有らざるなり」と。此の時に当たりて、平原君敢へて自ら人に比せず。公子、侯生と決す、軍に至る、侯生果たして北郷して自剄す。
現代語訳
公子が出発しようとすると、侯生は言った。「将軍は外地にいるときは、主君の命令でも受けないことがあり、それが国のためになる場合もある。公子が割符を合わせても、晋鄙が公子に兵を渡さず、改めて王に問い合わせたら、事は必ず危うくなる。私の知り合いの肉屋の朱亥を連れて行くとよい。この人は力持ちだ。晋鄙が従えばそれでよし。従わなければ、朱亥に打ち殺させればよい。」そこで公子は泣いた。侯生は言った。「公子は死ぬのが恐ろしいのか。なぜ泣くのか。」公子は言った。「晋鄙は勇ましく声の大きい歴戦の老将だ。行っても従わないだろうから、必ず殺さねばならない。だから泣くのだ。死を恐れたりするものか。」そこで公子は朱亥に頼んだ。朱亥は笑って言った。「私は市場で包丁を鳴らしている肉屋にすぎない。それなのに公子は自らたびたび訪ねてくださった。お礼に伺わなかったのは、小さな礼などは役に立たないと思ったからだ。いま公子は危急の時にある。今こそ私が命を捧げる時だ。」そして公子と共に行った。公子は侯生に別れを告げに立ち寄った。侯生は言った。「私もお供すべきだが、年老いてそれができない。公子の旅の日数を数え、晋鄙の軍に着く日に、北を向いて自ら首をはね、公子を送ろう。」公子はそのまま出発した。鄴に着くと、魏王の命令と偽って晋鄙に代わろうとした。晋鄙は割符を合わせたが、疑って、手を挙げて公子を指して言った。「いま私は十万の兵を率いて国境に駐屯している。これは国の重大な任務だ。それをたった一台の車で来て代わるとは、どういうことか。」そして従うまいとした。朱亥は袖に隠した四十斤の鉄槌で晋鄙を打ち殺した。公子はこうして晋鄙の軍を率いることになった。公子は兵を整えて軍中に命令を下した。「父と子が共に軍中にいる者は、父が帰れ。兄と弟が共に軍中にいる者は、兄が帰れ。一人っ子で兄弟のいない者は、帰って親を養え。」こうして選りすぐった兵八万人を得て、兵を進めて秦軍を攻撃した。秦軍は包囲を解いて去り、ついに邯鄲を救って趙を存続させた。趙王と平原君は自ら国境まで公子を出迎え、平原君は矢筒を背負って公子の先導をした。趙王は再拝して言った。「昔から賢人といっても、公子に及ぶ者はいない。」このとき平原君は、とても自分を公子と比べることはできなかった。公子が侯生と別れて晋鄙の軍に着いたその日、侯生ははたして北を向いて自ら首をはねた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』哀公十四年 陳恒、簡公を弑す六月、左師巢をして之を伐たしむ。大夫を質として以て入らんと欲す。能はず。亦た曹に入りて質を取らんとす。魋曰く、「不可なり。既に君に事ふる能はず、又罪を民に得ば、將に之を若何せん」と。乃ち之を舍(ゆる)す。民遂に之に叛く。向魋衛に奔る。向巢來奔す。宋公之を止めしめて曰く、「寡人子と言有り。以て向氏の祀を絕つ可からず」と。辭して曰く、「臣の罪大なり。盡く桓氏を滅ぼすも可なり。若し先臣の故を以て、後有らしめば、君の惠なり。臣の若きは則ち以て入る可からず」と。司馬牛其の邑と珪とを致して、齊に適く。向魋衛の地に出づ。公文氏之を攻め、夏后氏の璜を求む。之に他の玉を與へて、齊に奔る。陳成子次卿と為さしむ。司馬牛又其の邑を致して、吳に適く。吳人之を惡みて反る。趙簡子之を召き、陳成子も亦た之を召く。魯の郭門の外に卒す。阬氏諸を丘輿に葬る。甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弒す。孔丘三日齊(ものいみ)して、齊を伐たんことを請ふこと三たび。公曰く、「魯の齊の為に弱めらるること久し。子の之を伐つ、將に之を若何せん」と。對へて曰く、「陳恆其の君を弒す。民の與せざる者半ばなり。魯の眾を以て、齊の半ばに加へば、克つ可きなり」と。公曰く、「子季孫に告げよ」と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に從ふを以てなり。故に敢へて言はずんばあらず」と。初め孟孺子洩將に馬を成に圉(か)はんとす。成の宰公孫宿受けずして曰く、「孟孫成の病なるが為に、焉に馬を圉はず」と。孺子怒り、成を襲ふ。從者入るを得ず。乃ち反る。成の有司使ひす。孺子之を鞭うつ。秋八月辛丑、孟懿子卒す。成人喪に奔る。內(い)れず。袒免して衢に哭し、共を聽かんとす。許さず。懼れて歸らず。
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史記 周本紀是に於て武王遍く諸侯に告げて曰く、「殷重罪有り、以て畢く伐たざる可からず」と。乃ち文王に遵ひ、遂に戎車三百乗、虎賁三千人、甲士四万五千人を率ゐて、以て東のかた紂を伐つ。十一年十二月戊午、師畢く盟津を渡り、諸侯咸会す。曰く、「孳孳として怠ること無かれ」と。武王乃ち太誓を作り、衆庶に告ぐ。「今殷王紂乃ち其の婦人の言を用ゐ、自ら天に絶ち、其の三正を毀壊し、其の王父母弟を離逖し、乃ち其の先祖の楽を断棄し、乃ち淫声を為り、用て正声を変乱し、婦人を怡説せしむ。故に今予発維れ共に天罰を行ふ。勉めよや夫子、再びす可からず、三たびす可からず」と。二月甲子の昧爽、武王朝に商の郊の牧野に至り、乃ち誓ふ。武王左に黄鉞を杖き、右に白旄を秉りて、以て麾く。曰く、「遠きかな西土の人」と。武王曰く、「嗟、我が有国の冢君、司徒・司馬・司空、亜旅・師氏、千夫長・百夫長、及び庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の人、爾の戈を称げ、爾の干を比べ、爾の矛を立てよ。予其れ誓はん」と。王曰く、「古人言へる有り、『牝雞は晨する無し。牝雞の晨するは、惟れ家の索くるなり』と。今殷王紂は維れ婦人の言を是れ用ゐ、自ら其の先祖の肆祀を棄てて答へず、昏くして其の家国を棄て、其の王父母弟を遺てて用ゐず、乃ち維れ四方の多罪の逋逃を、是れ崇び是れ長とし、是れ信じ是れ使ひ、百姓に暴虐し、以て商国に姦軌せしむ。今予発維れ共に天の罰を行ふ。今日の事は、六歩七歩を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。夫子勉めよや。四伐五伐六伐七伐を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。勉めよや夫子。尚はくは桓桓として、虎の如く羆の如く、豺の如く離の如く、商の郊に于いて、奔るを御ぐことなく、以て西土に役せしめよ。勉めよや夫子。爾勉めざる所あらば、其れ爾の身に于いて戮有らん」と。
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史記 楚世家九年、若敖氏に相たり。人或いは之を王に讒す。誅せられんことを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒其の君を弑す。故に之を誅するなり。已に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す。申叔時斉に使ひして来たり、賀せず。王問ふ。対へて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田を徑(わた)れば、田主其の牛を取る、と。徑る者は則ち直からず。之が牛を取るは亦た甚だしからずや。且つ王陳の乱を以て諸侯を率ゐて之を伐つ。義を以て之を伐ちて其の県を貪る。亦た何を以て復た天下に令せん」と。荘王乃ち陳の後を復国す。十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之に克つ。皇門より入る。鄭伯肉袒し羊を牽きて以て逆へて曰く、「孤天ならず、君に事ふること能はず。君用て怒りを懐き、以て敝邑に及ぶ。孤の罪なり。敢て惟だ命を是れ聴かざらんや。之を南海に賓(しりぞ)くるも、若しくは臣妾を以て諸侯に賜ふも、亦た惟だ命を是れ聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶たず、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許すこと勿かれ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る。必ず能く其の民を信用せん。庸ぞ絶つべけんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾(さしまね)き、兵を引きて去ること三十里にして舎り、遂に之に平らぐことを許す。潘尪入りて盟ひ、子良出でて質たり。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ふ。大いに晋の師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。二十年、宋を囲む。楚の使ひを殺せしを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食らひ、骨を析きて炊ぐ。宋の華元出でて告ぐるに情を以てす。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒し、子の共王審立つ。共王の十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ。共王鄭を救ふ。晋の兵と鄢陵に戦ふ。晋楚を敗り、共王の目に射中つ。共王将軍子反を召す。
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『驢鞍橋』卷上壬辰霜月十一日の晩、去る寺に到る次で、大衆に対して曰く、当寺の大衆一様に志出来、目出度事也。次第に大事も起るべし。兎角此中から起るべし。是れ仏法繁昌の基也。則ち示曰、仏法の至極したる処を大義と云ふ也。義無くして修行成るべからす。今人間に生を得、殊に仏弟子と為りながら、餓鬼畜生の心にて居る事無念なりと思ひ定め、血の涙を流し、跳り上つて仏意を修せで不叶と、自ら眼をすゑ拳を握り、咦と牙を咬み給ふ。
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史記 殷本紀是の時に当たり、夏桀虐政淫荒を為し、而して諸侯昆吾氏乱を為す。湯乃ち師を興して諸侯を率ゐ、伊尹湯に従ふ。湯自ら鉞を把りて以て昆吾を伐ち、遂に桀を伐つ。湯曰く、「格れ女衆庶、来たれ、女悉く朕が言を聴け。台小子の、敢へて行ひて乱を挙ぐるに匪ず。有夏罪多し。予維れ女衆の言を聞くに、夏氏罪有り。予上帝を畏れ、敢へて正さずんばあらず。今夏罪多く、天命じて之を殛す。今女衆有り、女曰く、『我が君我が衆を恤れまず、我が嗇事を舍てて政を割く』と。女其れ曰く、『罪有り、其れ柰何』と。夏王率ゐて衆の力を止め、率ゐて夏国を奪ふ。衆有りて率ゐて怠り和せず、曰く、『是の日何の時にか喪びん。予女と皆亡びん』と。夏の徳茲の若し、今朕必ず往かん。爾尚はくは予一人に及びて天の罰を致せ。予其れ大いに女に理せん。女信ぜざること毋かれ、朕食言せず。女誓言に従はずんば、予則ち帑僇し、攸赦すこと有る無からん」と。以て師に告令し、湯誓を作る。是に於て湯曰く、「吾甚だ武なり」と。号して武王と曰ふ。桀有娀の虚に敗れ、桀鳴条に犇り、夏の師敗績す。湯遂に三㚇を伐ち、厥の宝玉を俘にす。義伯・仲伯典宝を作る。湯既に夏に勝ち、其の社を遷さんと欲するも、可ならず、夏社を作る。伊尹報ず。是に於て諸侯畢く服し、湯乃ち天子の位を践み、海内を平定す。湯帰りて泰卷陶に至り、中𤳹誥を作る。既に夏の命を絀け、亳に還り、湯誥を作る。「維れ三月、王自ら東郊に至る。諸侯羣后に告ぐ、『民に功有らずんばあらず、力を勤めて迺ち事とせよ。予乃ち大いに罰して女を殛せん、予を怨む毋かれ』と。曰く、『古禹・皋陶久しく外に労し、其の民に功有り、民乃ち安んずる有り。東を江と為し、北を済と為し、西を河と為し、南を淮と為し、四瀆已に修まり、万民乃ち居る有り。后稷降りて播き、農百穀を殖やす。三公咸民に功有り、故に后立つ有り。昔蚩尤其の大夫と乱を百姓に作す。帝乃ち予さず、状有り。
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『春秋左氏伝』成公二年 我が疆、我が理蕭同叔子は他に非ず、寡君の母なり。若し匹敵を以てせば、則ち亦た晉君の母なり。吾子大命を諸侯に布きて、曰く、必ず其の母を質として以て信と為さんと。其れ王命を若何せん。且つ是れ不孝を以て令するなり。詩に曰く、『孝子匱しからず、永く爾が類に錫ふ』と。若し不孝を以て諸侯に令せば、其れ乃ち德類に非ざること無からんや。先王天下を疆理し、土の宜しきを物して其の利を布く。故に詩に曰く、『我が疆我が理、其の畝を南東にす』と。今吾子諸侯を疆理して、曰く、盡く其の畝を東にせよと。唯だ吾子の戎車是れ利するのみにして、土の宜しきを顧みず、其れ乃ち先王の命に非ざること無からんや。先王に反くは則ち不義なり、何を以てか盟主と為らん。其れ晉實に闕くる有り。四王の王たるや、德を樹てて同欲を濟す。五伯の霸たるや、勤めて之を撫し、以て王命に役す。今吾子諸侯を合せんことを求めて、以て無疆の欲を逞しくす。詩に曰く、『政を布くこと優優たり、百祿是れ遒まる』と。子實に優ならずして、百祿を棄つ。
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