論衡 / 『論衡』累害篇第二・評判を落とす三累と三害
何謂三累三害?凡人操行、不能慎擇友、友同心恩篤、異心薄、薄怨恨、毀傷其行、一累也。人才高下、不能鈞同、同時并進、高者得榮、下者慚恚、毀傷其行、二累也。人之交游、不能常歡、歡則相親、忿則疏遠、遠怨恨、毀傷其行、三累也。位少人眾、仕者爭進、進者爭位、見將相毀、增加傅致、將昧不明、然納其言、一害也。將吏異好、清濁殊操、清吏增郁郁之白、舉涓涓之言、濁吏懷恚恨、徐求其過、因纖微之謗、被以罪罰、二害也。將或幸佐吏之身、納信其言、佐吏非清節、必拔人越次、迕失其意、毀之過度、清正之仕、抗行伸志、遂為所憎、毀傷於將、三害也。夫未進也身被三累、已用也身蒙三害、雖孔丘、墨翟不能自免、顏回、曾參不能全身也。
新字:何謂三累三害?凡人操行、不能慎択友、友同心恩篤、異心薄、薄怨恨、毀傷其行、一累也。人才高下、不能鈞同、同時并進、高者得栄、下者慚恚、毀傷其行、二累也。人之交游、不能常歓、歓則相親、忿則疏遠、遠怨恨、毀傷其行、三累也。位少人衆、仕者争進、進者争位、見将相毀、增加傅致、将昧不明、然納其言、一害也。将吏異好、清濁殊操、清吏增郁郁之白、舉涓涓之言、濁吏懐恚恨、徐求其過、因繊微之謗、被以罪罰、二害也。将或幸佐吏之身、納信其言、佐吏非清節、必抜人越次、迕失其意、毀之過度、清正之仕、抗行伸志、遂為所憎、毀傷於将、三害也。夫未進也身被三累、已用也身蒙三害、雖孔丘、墨翟不能自免、顔回、曽参不能全身也。
書き下し
何をか三累三害と謂う。凡そ人の操行、慎みて友を択ぶ能わず、友の心を同じくするは恩篤く、心を異にするは薄く、薄ければ怨恨し、其の行いを毀傷す。一累なり。人の才の高下、鈞同なる能わず、時を同じくして并び進めば、高き者は栄を得、下き者は慚じ恚り、其の行いを毀傷す。二累なり。人の交游、常に歓ぶ能わず、歓べば則ち相親しみ、忿れば則ち疏遠し、遠ざかれば怨恨し、其の行いを毀傷す。三累なり。位少なく人衆く、仕うる者進むを争い、進む者位を争い、将の相い毀るを見れば、増加して傅致し、将は昧くして明らかならず、然れども其の言を納る。一害なり。将吏好みを異にし、清濁操を殊にし、清吏は郁郁の白を増し、涓涓の言を挙げ、濁吏は恚恨を懐き、徐ろに其の過ちを求め、纖微の謗に因りて、被らすに罪罰を以てす。二害なり。将或いは佐吏の身を幸し、其の言を納め信ず。佐吏は清節に非ず、必ず人を抜きて次を越え、迕いて其の意を失えば、これを毀つこと度を過ぐ。清正の仕、行いを抗げ志を伸ばせば、遂に憎まるる所と為り、将に毀傷せらる。三害なり。夫れ未だ進まざるや身は三累を被り、已に用いらるるや身は三害を蒙る。孔丘・墨翟と雖も自ら免るる能わず、顔回・曾参も身を全うする能わざるなり。
現代語訳
三累三害とは何でしょうか。まず人の振る舞いについて、慎重に友を選べず、心を同じくする友とは情が厚く、心の異なる友とは情が薄くなり、薄くなれば恨みが生じ、その行いを傷つけます。これが第一の累です。人の才能には高い低いがあり、同じにはできません。同時に進めば、高い者は栄誉を得、低い者は恥じて怒り、その行いを傷つけます。これが第二の累です。人の交際はいつも楽しいわけではなく、楽しければ親しみ、怒れば疎遠になり、疎遠になれば恨みが生じ、その行いを傷つけます。これが第三の累です。役職は少なく人は多いので、仕える者は進もうと争い、進む者は地位を争います。上官は人が互いに悪く言うのを見ると、話を盛って組み立て、上官が暗く明らかでないために、その言葉を受け入れてしまいます。これが第一の害です。上官や役人は好みが違い、清濁の志操も異なります。清廉な役人は潔白さをさらに加えて、細やかな意見を挙げます。濁った役人は恨みを抱き、ゆっくりその過ちを探し、小さな中傷をもとに罪罰を着せます。これが第二の害です。上官が補佐の役人を気に入り、その言葉を信じ込むことがあります。補佐の役人が清廉でなければ、必ず順序を飛び越えて人を引き上げ、意に逆らう人を度を越して悪く言います。すると清く正しい士は、行いを高く掲げ志を伸ばそうとして憎まれ、上官に傷つけられます。これが第三の害です。まだ登用されない間は三つの累を受け、登用されてからは三つの害を受けます。孔子や墨子でも自分で免れることはできず、顔回や曾参でも身を全うすることはできません。
解説

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