説苑 / 君道
武王問太公曰:「舉賢而以危亡者,何也?」太公曰:「舉賢而不用,是有舉賢之名,而不得真賢之實也。」武王曰:「其失安在?」太公望曰:「其失在君好用小善而已,不得真賢也。」武王曰:「好用小善者何如?」太公曰:「君好聽譽而不惡讒也,以非賢為賢,以非善為善,以非忠為忠,以非信為信;其君以譽為功,以毀為罪;有功者不賞,有罪者不罰;多黨者進,少黨者退;是以群臣比周而蔽賢,百吏群黨而多姦;忠臣以誹死於無罪,邪臣以譽賞於無功。其國見於危亡。」武王曰:「善!吾今日聞誹譽之情矣。」
新字:武王問太公曰:「舉賢而以危亡者,何也?」太公曰:「舉賢而不用,是有舉賢之名,而不得真賢之実也。」武王曰:「其失安在?」太公望曰:「其失在君好用小善而已,不得真賢也。」武王曰:「好用小善者何如?」太公曰:「君好聴誉而不悪讒也,以非賢為賢,以非善為善,以非忠為忠,以非信為信;其君以誉為功,以毀為罪;有功者不賞,有罪者不罰;多党者進,少党者退;是以群臣比周而蔽賢,百吏群党而多姦;忠臣以誹死於無罪,邪臣以誉賞於無功。其国見於危亡。」武王曰:「善!吾今日聞誹誉之情矣。」
書き下し
武王、太公に問いて曰く、「賢を挙げて以て危亡する者は何ぞや」と。太公曰く、「賢を挙げて用いざるは、是れ賢を挙ぐるの名有りて、真賢の実を得ざるなり」と。武王曰く、「其の失は安くにか在る」と。太公望曰く、「其の失は君の小善を用うるを好むのみに在りて、真賢を得ざるなり」と。武王曰く、「小善を用うるを好む者は何如」と。太公曰く、「君誉を聴くを好みて讒を悪まざれば、非賢を以て賢と為し、非善を以て善と為し、非忠を以て忠と為し、非信を以て信と為す。其の君誉を以て功と為し、毀を以て罪と為す。功有る者賞せられず、罪有る者罰せられず。党多き者進み、党少なき者退く。是を以て群臣比周して賢を蔽い、百吏党を群して姦多し。忠臣は誹りを以て罪無くして死し、邪臣は誉を以て功無くして賞せらる。其の国危亡に見る」と。武王曰く、「善し、吾今日誹誉の情を聞けり」と。
現代語訳
武王が太公望に尋ねた。「賢者を登用しながら国が危うくなるのはなぜか。」太公は答えた。「賢者を登用しても用いないのは、賢者を登用したという名目だけで、真の賢者の実を得ていないからです。」武王は「その失敗はどこにあるのか」と尋ねた。太公望は「その失敗は、君主が小さな善行だけを喜んで用い、真の賢者を得られないところにあります」と答えた。武王は「小さな善行を喜んで用いるとはどういうことか」と尋ねた。太公は言った。「君主が誉め言葉を聞くのを好み、讒言を憎まなければ、賢でない者を賢とし、善でない者を善とし、忠でない者を忠とし、信でない者を信とします。君主は誉め言葉を功績とし、悪口を罪とします。功績があっても賞されず、罪があっても罰されません。徒党の多い者は登用され、徒党の少ない者は退けられます。こうして群臣は徒党を組んで賢者を覆い隠し、多くの役人も徒党を組んで悪事を働く者が多くなります。忠臣は罪もないのに誹謗されて死に、邪悪な臣下は功もないのに誉められて賞されます。その国は危機と滅亡に直面します。」武王は「よろしい、私は今日、誹りと誉れの実情を聞いた」と言った。
解説

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