史記 / 淮陰侯列伝
信知漢王畏惡其能,常稱病不朝從。信由此日夜怨望,居常鞅鞅,羞與絳、灌等列。信嘗過樊將軍噲,噲跪拜送迎,言稱臣,曰:『大王乃肯臨臣!』信出門,笑曰:『生乃與噲等爲伍!』
新字:信知漢王畏悪其能,常称病不朝従。信由此日夜怨望,居常鞅鞅,羞与絳、灌等列。信嘗過樊将軍噲,噲跪拝送迎,言称臣,曰:『大王乃肯臨臣!』信出門,笑曰:『生乃与噲等為伍!』
書き下し
信漢王の其の能を畏悪するを知り、常に病と称して朝従せず。信此に由り日夜怨望し、居常鞅鞅として、絳・灌等と列を与にするを羞づ。信嘗て樊将軍噲に過ぎる。噲跪拝して送迎し、言に臣と称して、曰く、「大王乃ち肯へて臣に臨めり」と。信門を出で、笑ひて曰く、「生きて乃ち噲等と伍を為す」と。
現代語訳
韓信は、漢王(劉邦)が自分の才能を恐れ憎んでいることを知り、いつも病気と称して朝見にも行幸のお供にも出なかった。韓信はこのため日夜うらみ不満を抱き、ふだんから鬱々として楽しまず、絳侯(周勃)や灌嬰らと同列に並ぶことを恥じた。韓信がかつて樊将軍樊噲の家に立ち寄ったとき、樊噲はひざまずいて拝礼して送り迎えし、自らを臣と称して「大王がわざわざ私のところにお越しくださるとは」と言った。韓信は門を出ると、笑って言った。「生きながら樊噲などと同列になってしまったか」。
解説
淮陰侯に格下げされた後の韓信の心の内を、短く鋭く描いた段です。劉邦に才能を恐れられていると知った韓信は、病と称して朝廷に出ず、周勃や灌嬰と同列に扱われることを恥じました。極めつけは樊噲の家を訪ねた場面で、樊噲はかつての王に対する礼をもって丁重に迎えたのに、韓信は門を出るなり「噲等と伍を為す」と笑いました。「伍を為す」は、今も「〜と同列になる」の意で使われる言い回しです。樊噲は劉邦の古くからの同志で、呂后の妹を妻とする重臣でしたから、この侮りは韓信の孤立を深めました。地位を失ったとき、かつての誇りから周囲を見下すと、支えてくれるはずの人まで遠ざけてしまうことを考えさせられます。
関連する章句
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