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史記 / 田敬仲完世家

十四年,秦撃我剛壽。十九年,襄王卒,子建立。王建立六年,秦攻趙,齊楚救之。秦計曰:「齊楚救趙,親則退兵,不親遂攻之。」趙無食,請粟於齊,齊不聽。周子曰:「不如聽之以退秦兵,不聽則秦兵不卻,是秦之計中而齊楚之計過也。且趙之於齊楚,捍蔽也,猶齒之有脣也,脣亡則齒寒。今日亡趙,明日患及齊楚。且救趙之務,宜若奉漏甕沃焦釜也。夫救趙,髙義也;卻秦兵,顯名也。義救亡國,威卻彊秦之兵,不務爲此而務愛粟,爲國計者過矣。」齊王弗聽。秦破趙於長平四十餘萬,遂圍邯鄲。十六年,秦滅周。君王后卒。二十三年,秦置東郡。二十八年,王入朝秦,秦王政置酒咸陽。三十五年,秦滅韓。三十七年,秦滅趙。三十八年,燕使荊軻刺秦王,秦王覺,殺軻。明年,秦破燕,燕王亡走遼東。明年,秦滅魏,秦兵次於歴下。四十二年,秦滅楚。明年,虜代王嘉,滅燕王喜。四十四年,秦兵撃齊。齊王聽相后勝計,不戰,以兵降秦。秦虜王建,遷之共。遂滅齊爲郡。天下壹并於秦,秦王政立號爲皇帝。始,君王后賢,事秦謹,與諸侯信,齊亦東邊海上,秦日夜攻三晉、燕、楚,五國各自救於秦,以故王建立四十餘年不受兵。

新字:十四年,秦撃我剛寿。十九年,襄王卒,子建立。王建立六年,秦攻趙,斉楚救之。秦計曰:「斉楚救趙,親則退兵,不親遂攻之。」趙無食,請粟於斉,斉不聴。周子曰:「不如聴之以退秦兵,不聴則秦兵不却,是秦之計中而斉楚之計過也。且趙之於斉楚,捍蔽也,猶歯之有脣也,脣亡則歯寒。今日亡趙,明日患及斉楚。且救趙之務,宜若奉漏甕沃焦釜也。夫救趙,高義也;却秦兵,顕名也。義救亡国,威却彊秦之兵,不務為此而務愛粟,為国計者過矣。」斉王弗聴。秦破趙於長平四十余万,遂囲邯鄲。十六年,秦滅周。君王后卒。二十三年,秦置東郡。二十八年,王入朝秦,秦王政置酒咸陽。三十五年,秦滅韓。三十七年,秦滅趙。三十八年,燕使荊軻刺秦王,秦王覚,殺軻。明年,秦破燕,燕王亡走遼東。明年,秦滅魏,秦兵次於歴下。四十二年,秦滅楚。明年,虜代王嘉,滅燕王喜。四十四年,秦兵撃斉。斉王聴相后勝計,不戦,以兵降秦。秦虜王建,遷之共。遂滅斉為郡。天下壱并於秦,秦王政立号為皇帝。始,君王后賢,事秦謹,与諸侯信,斉亦東辺海上,秦日夜攻三晋、燕、楚,五国各自救於秦,以故王建立四十余年不受兵。

書き下し

十四年、秦我が剛寿を撃つ。十九年、襄王卒し、子建立つ。王建立ちて六年、秦趙を攻む。斉・楚之を救ふ。秦計りて曰く、「斉・楚趙を救ふ。親しまば則ち兵を退け、親しまずんば遂に之を攻めん」と。趙食無く、粟を斉に請ふ。斉聴かず。周子曰く、「之を聴きて以て秦の兵を退くるに如かず。聴かずんば則ち秦の兵卻かず。是れ秦の計中りて斉・楚の計過つなり。且つ趙の斉・楚に於けるや、捍蔽なり。猶ほ歯の脣有るがごとし。脣亡ぶれば則ち歯寒し。今日趙を亡ぼさば、明日患ひ斉・楚に及ばん。且つ趙を救ふの務めは、宜しく漏甕を奉じて焦釜に沃ぐが若くすべし。夫れ趙を救ふは、高義なり。秦の兵を卻くるは、顕名なり。義もて亡国を救ひ、威もて彊秦の兵を卻く。此を為すを務めずして粟を愛しむを務むるは、国の為に計る者過てり」と。斉王聴かず。秦趙を長平に破ること四十余万、遂に邯鄲を囲む。十六年、秦周を滅ぼす。君王后卒す。二十三年、秦東郡を置く。二十八年、王入りて秦に朝す。秦王政酒を咸陽に置く。三十五年、秦韓を滅ぼす。三十七年、秦趙を滅ぼす。三十八年、燕荊軻をして秦王を刺さしむ。秦王覚り、軻を殺す。明年、秦燕を破る。燕王亡げて遼東に走る。明年、秦魏を滅ぼす。秦の兵歴下に次る。四十二年、秦楚を滅ぼす。明年、代王嘉を虜にし、燕王喜を滅ぼす。四十四年、秦の兵斉を撃つ。斉王相后勝の計を聴き、戦はずして、兵を以て秦に降る。秦王建を虜にし、之を共に遷す。遂に斉を滅ぼして郡と為す。天下壱に秦に并せられ、秦王政号を立てて皇帝と為る。始め、君王后賢にして、秦に事ふること謹み、諸侯と信あり。斉も亦東のかた海上に辺す。秦日夜三晋・燕・楚を攻め、五国各々自ら秦より救ふ。故を以て王建立ちて四十余年兵を受けず。

現代語訳

(襄王の)十四年、秦がわが剛寿(ごうじゅ)を攻撃した。十九年、襄王が死に、子の建が立った。王建が立って六年、秦が趙を攻め、斉と楚が趙を救った。秦は計った。「斉と楚が趙を救っている。三国が親密なら兵を退き、親密でなければそのまま攻めよう」。趙は食糧がなくなり、斉に穀物の援助を求めたが、斉は聞き入れなかった。周子(しゅうし)が言った。「趙の求めに応じて秦の兵を退かせるほうがよい。聞き入れなければ、秦の兵は退かない。そうなれば秦の計略が当たり、斉と楚の計略は誤ったことになる。そもそも趙は斉と楚にとって防壁であり、歯にとっての唇のようなものだ。唇がなくなれば歯は寒い。今日趙が滅びれば、明日は災いが斉と楚に及ぶ。趙を救うことは、水の漏れる甕を捧げ持ってでも焦げついた釜に水を注ぐように、一刻を争って行うべきことである。趙を救うのは高い義であり、秦の兵を退けるのは輝かしい名声である。義によって滅びかけた国を救い、威によって強い秦の兵を退ける。それに努めずに穀物を惜しむことに努めるのは、国のために計る者として誤りである」。斉王は聞き入れなかった。秦は長平で趙の兵四十万余りを破り、そのまま邯鄲を包囲した。十六年、秦が周を滅ぼした。君王后が死んだ。二十三年、秦が東郡を置いた。二十八年、王建は秦に入朝し、秦王政は咸陽で酒宴を催した。三十五年、秦が韓を滅ぼした。三十七年、秦が趙を滅ぼした。三十八年、燕が荊軻に秦王を刺させようとしたが、秦王は気づいて荊軻を殺した。翌年、秦が燕を破り、燕王は遼東に逃れた。その翌年、秦が魏を滅ぼし、秦の兵は歴下(れきか)に駐屯した。四十二年、秦が楚を滅ぼした。翌年、秦は代王嘉を捕らえ、燕王喜を滅ぼした。四十四年、秦の兵が斉を攻撃した。斉王は宰相の后勝(こうしょう)の計に従い、戦わずに兵ごと秦に降伏した。秦は王建を捕らえ、共(きょう)に移した。ついに斉を滅ぼして郡とした。天下は秦によって一つにまとめられ、秦王政は称号を立てて皇帝となった。もともと君王后は賢明で、秦には慎重に仕え、諸侯とは信義をもって交わった。斉はまた東の海辺にあり、秦は日夜三晋・燕・楚を攻め、五か国はそれぞれ秦から自国を守るのに精一杯であった。そのため、王建は即位して四十年余り、戦火を受けなかったのである。

解説

斉の最後の王建の時代と、秦による天下統一を描く段です。長平の戦いの前、周子は、趙は斉・楚にとっての唇で、唇が亡べば歯が寒い、穀物を惜しんで趙を見捨てれば明日は斉が危ないと説きましたが、王建は聞き入れませんでした。「唇亡びて歯寒し」「漏甕を奉じて焦釜に沃ぐ」は、ここから広まった言葉です。その後、韓・趙・魏・楚・燕が次々と滅び、最後に斉は宰相后勝の勧めで戦わずに降伏し、秦王政は皇帝を称しました。司馬遷は、君王后が秦に慎重に仕え諸侯と信義を守ったこと、斉が東の海辺にあって秦の攻撃が他国に向いていたことで、王建が四十余年も戦火を免れたと記します。しかしその平和は、他国の犠牲の上に成り立つ一時のものでした。隣人の危機を他人事とする姿勢が、最後には自分を孤立させることを示す、重い結末です。

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