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史記 / 淮陰侯列伝

項羽已破,髙祖襲奪齊王軍。漢五年正月,徙齊王信爲楚王,都下邳。信至國,召所從食漂母,賜千金。及下鄉南昌亭長,賜百錢,曰:『公,小人也,爲德不卒。』召辱己之少年令出胯下者以爲楚中尉。告諸將相曰:『此壯士也。方辱我時,我寧不能殺之邪?殺之無名,故忍而就於此。』項王亡將鐘離眛家在伊廬,素與信善。項王死後,亡歸信。漢王怨眛,聞其在楚,詔楚捕眛。信初之國,行縣邑,陳兵出入。

新字:項羽已破,高祖襲奪斉王軍。漢五年正月,徙斉王信為楚王,都下邳。信至国,召所従食漂母,賜千金。及下郷南昌亭長,賜百銭,曰:『公,小人也,為徳不卒。』召辱己之少年令出胯下者以為楚中尉。告諸将相曰:『此壮士也。方辱我時,我寧不能殺之邪?殺之無名,故忍而就於此。』項王亡将鐘離眛家在伊廬,素与信善。項王死後,亡帰信。漢王怨眛,聞其在楚,詔楚捕眛。信初之国,行県邑,陳兵出入。

書き下し

項羽已に破れ、高祖襲ひて斉王の軍を奪ふ。漢の五年正月、斉王信を徙して楚王と為し、下邳に都せしむ。信国に至り、従ひて食せし所の漂母を召し、千金を賜ふ。下郷南昌の亭長に及びては、百銭を賜ひて、曰く、「公は小人なり。徳を為して卒へず」と。己を辱めて胯下より出でしめし少年を召し、以て楚の中尉と為す。諸将相に告げて曰く、「此れ壮士なり。方に我を辱めし時、我寧ぞ之を殺すこと能はざらんや。之を殺すも名無し。故に忍びて此に就けり」と。項王の亡将鍾離眛家伊廬に在り、素より信と善し。項王死して後、亡げて信に帰す。漢王眛を怨み、其の楚に在るを聞き、楚に詔して眛を捕へしむ。信初めて国に之き、県邑を行くに、兵を陳ねて出入す。

現代語訳

項羽が破れると、高祖(劉邦)は不意を突いて斉王韓信の軍を奪った。漢の五年(前202年)正月、斉王韓信を移して楚王とし、下邳に都を置かせた。韓信は封国に着くと、かつて食事を恵んでくれた綿さらしの老女(漂母)を呼び、千金を与えた。下郷の南昌の亭長には百銭を与えて、「あなたは小人だ。恩を施しながら最後まで続けなかった」と言った。かつて自分を辱めて股の下をくぐらせた若者を呼び出し、楚の中尉(治安を司る武官)に取り立てた。そして将軍や大臣たちに告げた。「これは壮士である。あのとき私を辱めたが、私はこの男を殺せなかったわけではない。殺しても名分がないので、耐えて今日に至ったのだ」。項王の敗残の将鍾離眛は、家が伊廬にあり、もともと韓信と親しかった。項王の死後、逃れて韓信のもとに身を寄せた。漢王は鍾離眛を恨んでおり、彼が楚にいると聞いて、楚に詔を下して鍾離眛を捕らえさせようとした。韓信は初めて封国に赴いたとき、県や邑を巡るのに、兵を並べて出入りした。

解説

楚王となった韓信が、若き日の恩と屈辱に報いる場面で、列伝冒頭の逸話と対になっています。見返りを求めなかった漂母には千金、途中で食事を出さなくなった亭長には百銭と「徳を為して卒へず」という一言、股をくぐらせた若者には楚の中尉という官職を与えました。「殺しても名分がないから耐えた」という言葉は、あの屈辱が怯えではなく計算された忍耐だったことを本人の口から明かしています。一方で、劉邦は項羽が滅ぶとすぐに韓信の軍を奪い、斉から楚へ移しました。項羽の旧将鍾離眛をかくまい、兵を連ねて領内を巡る韓信の振る舞いが、次の悲劇を呼び込みます。恩を中途半端に施すことへの戒めとしても、読める一段です。

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