史記 / 淮陰侯列伝
願爲假王便。』當是時,楚方急圍漢王於滎陽,韓信使者至,發書,漢王大怒,罵曰:『吾困於此,旦暮望若來佐我,乃欲自立爲王!』張良、陳平躡漢王足,因附耳語曰:『漢方不利,寧能禁信之王乎?不如因而立,善遇之,使自爲守。不然,變生。』漢王亦悟,因復罵曰:『大丈夫定諸侯,即爲真王耳,何以假爲!』乃遣張良往立信爲齊王,徵其兵擊楚。楚已亡龍且,項王恐,使盱眙人武涉往說齊王信曰:『天下共苦秦久矣,相與勠力擊秦。秦已破,計功割地,分土而王之,以休士卒。今漢王復興兵而東,侵人之分,奪人之地,已破三秦,引兵出關,收諸侯之兵以東擊楚,其意非盡吞天下者不休,其不知厭足如是甚也。且漢王不可必,身居項王掌握中數矣,項王憐而活之,然得脫,輒倍約,復擊項王,其不可親信如此。今足下雖自以與漢王爲厚交,爲之盡力用兵,終爲之所禽矣。足下所以得須臾至今者,以項王尚存也。當今二王之事,權在足下。足下右投則漢王勝,左投則項王勝。項王今日亡,則次取足下。足下與項王有故,何不反漢與楚連和,參分天下王之?今釋此時,而自必於漢以擊楚,且爲智者固若此乎!』
新字:願為仮王便。』当是時,楚方急囲漢王於滎陽,韓信使者至,発書,漢王大怒,罵曰:『吾困於此,旦暮望若来佐我,乃欲自立為王!』張良、陳平躡漢王足,因附耳語曰:『漢方不利,寧能禁信之王乎?不如因而立,善遇之,使自為守。不然,変生。』漢王亦悟,因復罵曰:『大丈夫定諸侯,即為真王耳,何以仮為!』乃遣張良往立信為斉王,徴其兵撃楚。楚已亡竜且,項王恐,使盱眙人武渉往説斉王信曰:『天下共苦秦久矣,相与勠力撃秦。秦已破,計功割地,分土而王之,以休士卒。今漢王復興兵而東,侵人之分,奪人之地,已破三秦,引兵出関,収諸侯之兵以東撃楚,其意非尽呑天下者不休,其不知厭足如是甚也。且漢王不可必,身居項王掌握中数矣,項王憐而活之,然得脱,輒倍約,復撃項王,其不可親信如此。今足下雖自以与漢王為厚交,為之尽力用兵,終為之所禽矣。足下所以得須臾至今者,以項王尚存也。当今二王之事,権在足下。足下右投則漢王勝,左投則項王勝。項王今日亡,則次取足下。足下与項王有故,何不反漢与楚連和,参分天下王之?今釈此時,而自必於漢以撃楚,且為智者固若此乎!』
書き下し
願はくは仮王と為らば便なり」と。是の時に当たり、楚方に急に漢王を滎陽に囲む。韓信の使者至り、書を発く。漢王大いに怒り、罵りて曰く、「吾此に困しみ、旦暮に若の来りて我を佐くるを望む。乃ち自ら立ちて王と為らんと欲す」と。張良・陳平漢王の足を躡み、因りて耳に附けて語りて曰く、「漢方に不利なり。寧ぞ能く信の王たるを禁ぜんや。如かず因りて立て、善く之を遇し、自ら守りを為さしめんには。然らずんば、変生ぜん」と。漢王も亦悟り、因りて復た罵りて曰く、「大丈夫諸侯を定むれば、即ち真王と為るのみ。何ぞ仮を以て為さん」と。乃ち張良を遣はして往きて信を立てて斉王と為し、其の兵を徴して楚を撃たしむ。楚已に龍且を亡ひ、項王恐れ、盱眙の人武渉をして往きて斉王信に説かしめて曰く、「天下共に秦に苦しむこと久し。相与に力を勠せて秦を撃つ。秦已に破れ、功を計りて地を割き、土を分かちて之に王とし、以て士卒を休む。今漢王復た兵を興して東し、人の分を侵し、人の地を奪ふ。已に三秦を破り、兵を引きて関を出で、諸侯の兵を収めて以て東のかた楚を撃つ。其の意は尽く天下を呑むに非ずんば休まず。其の厭足を知らざること是くの如く甚だし。且つ漢王は必とすべからず。身項王の掌握の中に居ること数しばなり。項王憐れみて之を活かす。然るに脱するを得れば、輒ち約に倍き、復た項王を撃つ。其の親信すべからざること此くの如し。今足下自ら以て漢王と厚交を為すと為し、之が為に力を尽くして兵を用ゐると雖も、終に之が禽とする所と為らん。足下の須臾を得て今に至る所以の者は、項王尚存するを以てなり。当今二王の事、権は足下に在り。足下右に投ずれば則ち漢王勝ち、左に投ずれば則ち項王勝つ。項王今日亡びば、則ち次に足下を取らん。足下は項王と故有り。何ぞ漢に反きて楚と連和し、天下を参分して之に王たらざる。今此の時を釈てて、自ら漢に必して以て楚を撃つ。且つ智者たる為すは固より此くの若きか」と。
現代語訳
(韓信の使者は言った。)「どうか仮の王にしていただければ好都合である」。ちょうどそのとき、楚は漢王を滎陽で激しく包囲していた。韓信の使者が到着して書状を開くと、漢王は大いに怒って罵った。「わしはここで苦しみ、朝な夕なにお前が助けに来るのを待ち望んでいたのに、なんと自分で王になりたいとは」。張良と陳平が漢王の足を踏み、耳元でささやいた。「漢はいま不利だ。韓信が王になるのをどうして止められようか。いっそこれを機に王に立て、厚く遇して、自分で斉を守らせたほうがよい。さもなければ変事が起こる」。漢王もさとって、また罵ってみせた。「一人前の男が諸侯を平定したなら、本物の王になればよいのだ。仮の王などとは何事だ」。そこで張良を遣わして韓信を斉王に立て、その兵を動員して楚を撃たせた。楚は龍且を失い、項王は恐れて、盱眙の人武渉を斉王韓信のもとに遣わして説かせた。「天下は長いあいだ共に秦に苦しみ、力を合わせて秦を撃った。秦が破れると、功績を計って土地を割き、領土を分けてそれぞれ王とし、兵士を休ませた。ところがいま漢王はまた兵を起こして東へ進み、他人の取り分を侵し、他人の土地を奪っている。すでに三秦を破り、兵を率いて関を出て、諸侯の兵を集めて東へ楚を撃っている。その意図は、天下をすべて呑み込まなければやまないもので、飽くことを知らないことはこれほどひどい。しかも漢王はあてにできない。その身は何度も項王の掌中にあったが、項王が哀れんで生かしてやった。ところが逃げ延びるや、たちまち約束に背き、また項王を攻撃する。信用できないことはこのとおりである。いまあなたは漢王と厚い交わりにあると思い、そのために力を尽くして兵を用いているが、最後には彼に捕らえられるだろう。あなたがしばらくのあいだ今日まで無事でいられるのは、項王がまだ健在だからだ。いま二人の王の命運は、あなたの手に握られている。あなたが右に付けば漢王が勝ち、左に付けば項王が勝つ。項王が今日滅びれば、次はあなたが取られる番だ。あなたは項王と旧縁がある。どうして漢に背いて楚と和を結び、天下を三分してその一つの王とならないのか。いまこの好機を捨てて、漢を当てにして楚を撃つとは、知恵者たる者、本当にそれでよいのか」。
解説
関連する章句
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史記 高祖本紀漢王酈生をして往きて斉王田広に説かしむ、広楚に叛き、漢と和し、共に項羽を撃たんとす。韓信蒯通の計を用ゐ、遂に襲ひて斉を破る。斉王酈生を烹、東のかた高密に走る。項羽韓信已に河北の兵を挙げて斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、則ち龍且・周蘭をして往きて之を撃たしむ。韓信与に戦ふ、騎将灌嬰撃ちて、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。斉王広彭越に奔る。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。四年、項羽乃ち海春侯大司馬曹咎に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ。若し漢挑戦すとも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる無きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち行きて陳留・外黄・睢陽を撃ち、之を下す。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑む、楚の軍出でず、人をして之を辱めしむること五六日、大司馬怒り、兵を汜水に度す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣皆汜水の上に自剄す。項羽睢陽に至り、海春侯の破るるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項羽至る、尽く険阻に走る。韓信已に斉を破り、人をして言はしめて曰く、「斉は楚に辺し、権軽し、仮王と為らずんば、恐らくは斉を安んずる能はざらん。」と。漢王之を攻めんと欲す。留侯曰く、「因りて之を立て、自ら守りを為さしむるに如かず。」と。乃ち張良を遣はして印綬を操りて韓信を立てて斉王と為す。項羽龍且の軍の破るるを聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて韓信に説かしむ。韓信聴かず。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転饟に罷る。漢王・項羽相与に広武の間に臨みて語る。項羽漢王と独身にて挑戦せんと欲す。
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史記 淮陰侯列伝広武君対へて曰く、「方今将軍の為に計るに、甲を案じ兵を休め、趙を鎮めて其の孤を撫し、百里の内、牛酒日に至り、以て士大夫を饗し兵を醳ひ、燕の路に北首し、而る後に弁士を遣はして咫尺の書を奉じ、其の長ずる所を燕に暴さしむるに如くは莫し。燕必ず敢へて聴従せずんばあらず。燕已に従はば、諠言する者をして東のかた斉に告げしめば、斉必ず風に従ひて服せん。智者有りと雖も、亦斉の為に計るを知らざらん。是くの如くんば、則ち天下の事皆図るべきなり。兵には固より声を先にして実を後にする者有り。此の謂なり」と。韓信曰く、「善し」と。其の策に従ひ、使を発して燕に使はしむ。燕風に従ひて靡く。乃ち使を遣はして漢に報じ、因りて張耳を立てて趙王と為し、以て其の国を鎮撫せんことを請ふ。漢王之を許し、乃ち張耳を立てて趙王と為す。楚数しば奇兵をして河を渡りて趙を撃たしむ。趙王耳・韓信往来して趙を救ひ、因りて行きて趙の城邑を定め、兵を発して漢に詣らしむ。楚方に急に漢王を滎陽に囲む。漢王南に出で、宛・葉の間に之き、黥布を得て、走りて成皋に入る。楚又復た急に之を囲む。六月、漢王成皋を出で、東のかた河を渡り、独り滕公と倶にし、張耳の軍に修武に従ふ。至りて、伝舎に宿す。晨に自ら漢使と称し、馳せて趙の壁に入る。張耳・韓信未だ起きず。即ち其の臥内に上りて其の印符を奪ひ、麾を以て諸将を召し、易へて之を置く。信・耳起きて、乃ち漢王の来たるを知り、大いに驚く。漢王両人の軍を奪ひ、即ち張耳をして趙の地を備守せしむ。韓信を拝して相国と為し、趙の兵の未だ発せざる者を収めて斉を撃たしむ。信兵を引きて東し、未だ平原を渡らざるに、漢王酈食其をして已に斉を説き下さしむと聞き、韓信止まらんと欲す。范陽の弁士蒯通信に説きて曰く、「将軍詔を受けて斉を撃つ。而るに漢独り間使を発して斉を下す。寧ぞ詔有りて将軍を止めんや。何を以て行く毋きを得んや。
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史記 韓信盧綰列伝韓王信は、故の韓の襄王の孽孫なり。長八尺五寸。項梁の楚の後の懐王を立つるに及び、燕・斉・趙・魏は皆已に前に王たり、唯だ韓のみ後有ること無し。故に韓の諸公子横陽君成を立てて韓王と為し、以て韓の故地を撫定せんと欲す。項梁定陶に敗死し、成は懐王に奔る。沛公兵を引ゐて陽城を撃ち、張良をして韓の司徒を以て韓の故地を降下せしめ、信を得て、以て韓の将と為し、其の兵を将ゐて沛公に従ひ武関に入る。沛公立ちて漢王と為るや、韓信従ひて漢中に入り、乃ち漢王に説きて曰く、「項王は諸将を近地に王とし、而して王独り遠く此に居る、此れ左遷なり。士卒は皆山東の人にして、跂ちて帰らんことを望む。其の鋒の東に郷ふに及ばば、以て天下を争ふべし」と。漢王還りて三秦を定め、乃ち信を許して韓王と為し、先づ信を拝して韓の太尉と為し、兵を将ゐて韓の地を略せしむ。項籍の諸王を封ずるや皆国に就くも、韓王成は従はずして功無きを以て、遣はして国に就かしめず、更めて以て列侯と為す。漢の韓信を遣はして韓の地を略せしむと聞くに及び、乃ち故の項籍の呉に游びし時の呉の令鄭昌をして韓王と為し以て漢を距がしむ。漢の二年、韓信韓の十余城を略定す。漢王河南に至り、韓信急に韓王昌を陽城に撃つ。昌降る。漢王乃ち韓信を立てて韓王と為し、常に韓の兵を将ゐて従ふ。三年、漢王滎陽を出で、韓王信・周苛等滎陽を守る。楚の滎陽を敗るに及び、信楚に降り、已にして亡ぐるを得て、復た漢に帰す。漢復た立てて以て韓王と為し、竟に従ひて項籍を撃破し、天下定まる。五年の春、遂に与に符を剖きて韓王と為し、潁川に王たらしむ。
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史記 陳丞相世家漢王大いに怒りて罵る、陳平漢王を躡む。漢王も亦た悟り、乃ち厚く斉の使を遇し、張子房をして卒に信を立てて斉王と為さしむ。平を封ずるに戸牖郷を以てす。其の奇計策を用ひ、卒に楚を滅ぼす。常に護軍中尉を以て従ひて燕王臧荼を定む。漢六年、人の上書して楚王韓信の反くを告ぐる者有り。高帝諸将に問ふ、諸将曰く、「亟やかに兵を発して豎子を阬にせんのみ」と。高帝黙然たり。陳平に問ふ、平固く辞謝して、曰く、「諸将は云何」と。上具に之を告ぐ。陳平曰く、「人の上書して信の反くを言ふ、之を知る者有るか」と。曰く、「未だ有らず」と。曰く、「信之を知るか」と。曰く、「知らず」と。陳平曰く、「陛下の精兵は楚に孰与ぞ」と。上曰く、「過ぐる能はず」と。平曰く、「陛下の将の兵を用ふるに能く韓信に過ぐる者有るか」と。上曰く、「及ぶ莫きなり」と。平曰く、「今兵は楚の精に如かず、而して将は及ぶ能はず、而して兵を挙げて之を攻むるは、是れ之に戦ひを趣すなり、窃かに陛下の為に之を危ぶむ」と。上曰く、「之を為すこと奈何」と。平曰く、「古者天子巡狩し、諸侯を会す。南方に雲夢有り、陛下弟だ出でて偽りて雲夢に遊び、諸侯を陳に会せよ。陳は、楚の西界なり、信天子の好を以て出遊するを聞かば、其の勢必ず事無くして郊迎し謁せん。謁せば、而して陛下因りて禽にせよ、此れ特だ一力士の事のみ」と。高帝以て然りと為し、乃ち使を発して諸侯に陳に会せんことを告げしむ、「吾将に南のかた雲夢に遊ばんとす」と。上因りて随ひて以て行く。行きて未だ陳に至らざるに、楚王信果たして道中に郊迎す。高帝豫め武士を具へ、信の至るを見て、即ち之を執縛し、後車に載す。信呼びて曰く、「天下已に定まる、我固より当に烹らるべし」と。高帝顧みて信に謂ひて曰く、「若声すること毋かれ。而の反くこと、明らかなり」と。武士反接す。遂に諸侯に陳に会し、尽く楚の地を定む。還りて雒陽に至り、信を赦して以て淮陰侯と為し、而して功臣と符を剖きて封を定む。是に於て平と符を剖き、世世絶ゆること勿からしめ、戸牖侯と為す。平辞して曰く、「此れ臣の功に非ざるなり」と。
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史記 留侯世家且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
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史記 留侯世家良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
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