十善法語 / 巻第十・不邪見戒之上
又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ從フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徵カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因緣アル者ハ必ス不邪見戒ニ隨順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。學者モ不學者モ佛アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善惡報應有コトヲ信セヌシヤ。
新字:又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。
書き下し
又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。
現代語訳
またたとえて言えば、賢明な君主が忠臣を信任し、諫言を用いるようなものである。漢の高祖が諫めに従うことが水の流れるようであり、唐の太宗が魏徴の厳しい諫めの言葉を用いた類である。それと同じように、正法の因縁がある者は必ず不邪見戒に従うのである。これに反して、宿福のない者は、智者も愚者も、学者も学のない者も、仏がおられることを信じない。法があることを信じない。聖人賢人がいることを信じない。神々がおられることを信じない。善悪の報いがあることを信じないのである。
解説
不邪見戒に従う人を、忠臣の諫言を用いる名君にたとえる。漢の高祖劉邦は臣下の進言によく従ったことで知られ、唐の太宗は魏徴の耳の痛い諫めを受け入れた君主として名高い。一方、宿福のない者は、賢くても愚かでも、学があってもなくても、仏法も聖賢も因果も信じないと尊者は言う。信じるか否かは知能や学識で決まるのではない、という指摘が要である。組織でも、頭の良さと忠告を聞き入れる器量は別物で、後者を欠くと優秀な人ほど道を誤りやすい。
この章句が説くこと
諫言忠臣宿福正法魏徴太宗
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