葉隠 / 聞書第一
諫言の道に、我其の位にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤直なる様にするが大忠なり。此の階の爲に諸人と懇意する所なり。我が爲にすれば追従なり。一方は我等荷なひ申す心入からなり。成程なるものなり。
新字:諫言の道に、我其の位にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤直なる様にするが大忠なり。此の階の為に諸人と懇意する所なり。我が為にすれば追従なり。一方は我等荷なひ申す心入からなり。成程なるものなり。
書き下し
諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
現代語訳
主君を諫めるにあたって、自分がその意見を言える立場にないなら、言える立場の人に言わせて、主君の誤りが正されるようにするのが大きな忠義である。この橋渡しのために、日頃から多くの人と親しくしておくのだ。ただし自分のために人と親しくするなら、それは追従(へつらい)にすぎない。あくまで主君の御用を自分が担うのだという心があってこそである。まことにもっともなことだ。
解説
諫言(目上を正すこと)を成功させる知恵を説いた一節です。要点は、正しさを直接ぶつけて自分の手柄にするのではなく、目的が達せられる道を選べということ。自分に発言力がなければ、影響力のある人を通して意見を届け、主君の誤りが正される結果を優先せよ、と言います。そのために日頃から幅広く人と親しくしておく――ただしそれが自分の出世目当てなら、ただのへつらいに堕すと釘を刺します。あくまで大義のための人間関係だ、という一線が重要です。現代でも、正論を振りかざすより、しかるべき人を動かして問題を解決する方が実を結ぶ場面は多い。人脈は目的達成の手段であり、私利のためではない――そうした成熟した働きかけの作法として読めます。
この章句が説くこと
諫言橋渡し大義人脈の使い方追従との違い結果を優先
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『春秋左氏伝』哀公十四年 陳恒、簡公を弑す六月、左師巢をして之を伐たしむ。大夫を質として以て入らんと欲す。能はず。亦た曹に入りて質を取らんとす。魋曰く、「不可なり。既に君に事ふる能はず、又罪を民に得ば、將に之を若何せん」と。乃ち之を舍(ゆる)す。民遂に之に叛く。向魋衛に奔る。向巢來奔す。宋公之を止めしめて曰く、「寡人子と言有り。以て向氏の祀を絕つ可からず」と。辭して曰く、「臣の罪大なり。盡く桓氏を滅ぼすも可なり。若し先臣の故を以て、後有らしめば、君の惠なり。臣の若きは則ち以て入る可からず」と。司馬牛其の邑と珪とを致して、齊に適く。向魋衛の地に出づ。公文氏之を攻め、夏后氏の璜を求む。之に他の玉を與へて、齊に奔る。陳成子次卿と為さしむ。司馬牛又其の邑を致して、吳に適く。吳人之を惡みて反る。趙簡子之を召き、陳成子も亦た之を召く。魯の郭門の外に卒す。阬氏諸を丘輿に葬る。甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弒す。孔丘三日齊(ものいみ)して、齊を伐たんことを請ふこと三たび。公曰く、「魯の齊の為に弱めらるること久し。子の之を伐つ、將に之を若何せん」と。對へて曰く、「陳恆其の君を弒す。民の與せざる者半ばなり。魯の眾を以て、齊の半ばに加へば、克つ可きなり」と。公曰く、「子季孫に告げよ」と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に從ふを以てなり。故に敢へて言はずんばあらず」と。初め孟孺子洩將に馬を成に圉(か)はんとす。成の宰公孫宿受けずして曰く、「孟孫成の病なるが為に、焉に馬を圉はず」と。孺子怒り、成を襲ふ。從者入るを得ず。乃ち反る。成の有司使ひす。孺子之を鞭うつ。秋八月辛丑、孟懿子卒す。成人喪に奔る。內(い)れず。袒免して衢に哭し、共を聽かんとす。許さず。懼れて歸らず。
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人生を、一行の式にしてみた。
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