史記 / 淮陰侯列伝
以義兵從思東歸之士,何所不散!且三秦王爲秦將,將秦子弟數歲矣,所殺亡不可勝計,又欺其眾降諸侯,至新安,項王詐阬秦降卒二十餘萬,唯獨邯、欣、翳得脫,秦父兄怨此三人,痛入骨髓。今楚彊以威王此三人,秦民莫愛也。大王之入武關,秋豪無所害,除秦苛法,與秦民約,法三章耳,秦民無不欲得大王王秦者。於諸侯之約,大王當王關中,關中民咸知之。大王失職入漢中,秦民無不恨者。今大王舉而東,三秦可傳檄而定也。』於是漢王大喜,自以爲得信晚。遂聽信計,部署諸將所擊。八月,漢王舉兵東出陳倉,定三秦。漢二年,出關,收魏、河南,韓、殷王皆降。合齊、趙共擊楚。四月,至彭城,漢兵敗散而還。信復收兵與漢王會滎陽,復擊破楚京、索之間,以故楚兵卒不能西。漢之敗卻彭城,塞王欣、翟王翳亡漢降楚,齊、趙亦反漢與楚和。六月,魏王豹謁歸視親疾,至國,即絕河關反漢,與楚約和。漢王使酈生說豹,不下。其八月,以信爲左丞相,擊魏。魏王盛兵蒲阪,塞臨晉,信乃益爲疑兵,陳船欲度臨晉,而伏兵從夏陽以木罌缻渡軍,襲安邑。魏王豹驚,引兵迎信,信遂虜豹,定魏爲河東郡。漢王遣張耳與信俱,引兵東,北擊趙、代。
新字:以義兵従思東帰之士,何所不散!且三秦王為秦将,将秦子弟数歳矣,所殺亡不可勝計,又欺其衆降諸侯,至新安,項王詐阬秦降卒二十余万,唯独邯、欣、翳得脱,秦父兄怨此三人,痛入骨髄。今楚彊以威王此三人,秦民莫愛也。大王之入武関,秋豪無所害,除秦苛法,与秦民約,法三章耳,秦民無不欲得大王王秦者。於諸侯之約,大王当王関中,関中民咸知之。大王失職入漢中,秦民無不恨者。今大王舉而東,三秦可伝檄而定也。』於是漢王大喜,自以為得信晩。遂聴信計,部署諸将所撃。八月,漢王舉兵東出陳倉,定三秦。漢二年,出関,収魏、河南,韓、殷王皆降。合斉、趙共撃楚。四月,至彭城,漢兵敗散而還。信復収兵与漢王会滎陽,復撃破楚京、索之間,以故楚兵卒不能西。漢之敗却彭城,塞王欣、翟王翳亡漢降楚,斉、趙亦反漢与楚和。六月,魏王豹謁帰視親疾,至国,即絶河関反漢,与楚約和。漢王使酈生説豹,不下。其八月,以信為左丞相,撃魏。魏王盛兵蒲阪,塞臨晋,信乃益為疑兵,陳船欲度臨晋,而伏兵従夏陽以木罌缻渡軍,襲安邑。魏王豹驚,引兵迎信,信遂虜豹,定魏為河東郡。漢王遣張耳与信倶,引兵東,北撃趙、代。
書き下し
義兵を以て東帰を思ふの士に従はば、何の散ぜざる所あらん。且つ三秦の王は秦の将と為り、秦の子弟を将ゐること数歳なり。殺亡する所勝げて計ふべからず。又其の衆を欺きて諸侯に降る。新安に至り、項王詐りて秦の降卒二十余万を阬にし、唯独り邯・欣・翳のみ脱するを得たり。秦の父兄此の三人を怨み、痛み骨髄に入る。今楚彊にして威を以て此の三人を王とす。秦の民愛するもの莫きなり。大王の武関に入るや、秋豪も害する所無く、秦の苛法を除き、秦の民と約するに、法三章のみ。秦の民大王の秦に王たるを得んと欲せざる者無し。諸侯の約に於て、大王当に関中に王たるべし。関中の民咸之を知る。大王職を失ひて漢中に入る。秦の民恨まざる者無し。今大王挙げて東せば、三秦は檄を伝へて定むべきなり」と。是に於て漢王大いに喜び、自ら以て信を得ること晩しと為す。遂に信の計を聴き、諸将の撃つ所を部署す。八月、漢王兵を挙げて東し陳倉に出で、三秦を定む。漢の二年、関を出で、魏・河南を収む。韓・殷の王皆降る。斉・趙と合して共に楚を撃つ。四月、彭城に至り、漢兵敗散して還る。信復た兵を収めて漢王と滎陽に会し、復た楚を京・索の間に撃破す。故を以て楚の兵卒に西すること能はず。漢の彭城に敗却するや、塞王欣・翟王翳漢を亡げて楚に降る。斉・趙も亦漢に反きて楚と和す。六月、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとし、国に至るや、即ち河関を絶ちて漢に反き、楚と約和す。漢王酈生をして豹に説かしむるも、下らず。其の八月、信を以て左丞相と為し、魏を撃たしむ。魏王兵を蒲阪に盛んにし、臨晋を塞ぐ。信乃ち益々疑兵を為し、船を陳ねて臨晋を度らんと欲するも、伏兵夏陽より木罌缻を以て軍を渡し、安邑を襲ふ。魏王豹驚き、兵を引きて信を迎ふ。信遂に豹を虜にし、魏を定めて河東郡と為す。漢王張耳を遣はして信と倶にせしめ、兵を引きて東し、北のかた趙・代を撃たしむ。
現代語訳
(天下の城邑を功臣に分け与え、)正義の軍をもって、東の故郷に帰りたいと願う兵士たちを率いれば、蹴散らせない敵がありましょうか。しかも三秦の王(章邯・司馬欣・董翳)はもと秦の将で、秦の子弟を率いること数年、その間に死なせ失わせた者は数えきれません。そのうえ部下を欺いて諸侯に降伏し、新安に至ると、項王はだまして秦の降伏兵二十余万人を穴埋めにし、ただ章邯・司馬欣・董翳の三人だけが助かりました。秦の父兄たちはこの三人を恨み、その痛みは骨髄にまで達している。いま楚は強く、その威光でこの三人を王に立てていますが、秦の民は誰一人彼らを慕っていません。大王が武関から関中に入られたときは、毛筋ほども害を加えず、秦の過酷な法を除き、秦の民とは法三章だけを約束されました。秦の民で、大王に秦の王になっていただきたいと望まない者はありません。諸侯の約束によれば、大王が関中の王となるべきで、関中の民は皆それを知っている。大王が本来の地位を失って漢中に入られたことを、秦の民で恨まない者はありません。いま大王が兵を挙げて東へ出れば、三秦は檄文を回すだけで平定できます」。これを聞いて漢王は大いに喜び、韓信を得るのが遅すぎたと思った。こうして韓信の計略を聴き入れ、諸将の攻撃目標を割り振った。八月、漢王は兵を挙げて東に向かい、陳倉に出て三秦を平定した。漢の二年(前205年)、函谷関を出て、魏と河南を収め、韓王と殷王は皆降った。斉・趙と合同して楚を攻めた。四月、彭城に至ったが、漢軍は敗れて散り散りになって退いた。韓信は再び兵を集めて漢王と滎陽で合流し、また楚軍を京・索の間で撃破した。このため楚軍はついに西へ進むことができなかった。漢が彭城で敗退すると、塞王司馬欣・翟王董翳は漢から逃げて楚に降り、斉・趙もまた漢に背いて楚と和睦した。六月、魏王豹は親の病気見舞いを願い出て帰国すると、すぐに黄河の渡し場を封鎖して漢に背き、楚と和約を結んだ。漢王は酈生(酈食其)に魏王豹を説得させたが、従わなかった。その八月、韓信を左丞相に任じて魏を攻めさせた。魏王は蒲阪に大軍を置き、臨晋の渡しを塞いだ。韓信はそこでますます見せかけの兵を増やし、船を並べて臨晋から渡ると見せかけながら、伏兵を夏陽から木の甕を筏にして渡らせ、安邑を襲った。魏王豹は驚いて兵を返して韓信を迎え撃ったが、韓信はついに豹を捕虜にし、魏を平定して河東郡とした。漢王は張耳を派遣して韓信と行動を共にさせ、兵を率いて東へ進み、北の趙・代を攻めさせた。
解説
関連する章句
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『新序』善謀第十今大王誠に其の道に反し、天下の武勇に任ぜば、何ぞ誅せざらん。天下の城邑を以て功臣を封ぜば、何ぞ服せざらん。義兵を以て東歸を思うの士に從わば、何ぞ散ぜざらん。且つ三秦の王は秦の將と爲る。秦の弟子數歳、殺亡する所勝げて計う可からず。又た其の衆を欺きて諸侯に降り新安に至る。項王詐りて秦の降卒二十餘萬人を坑にす。唯だ獨り邯・欣・翳のみ脫る。秦の父兄此の三人を怨むこと、痛み骨髓に入る。今楚强いて威を以て此の三人を王とす。秦民愛する莫し。大王の武關に入るや、秋毫も害する所無く、秦の苛法を除き、秦と約し、法は三章のみ。且つ秦民大王を得て秦に王たらしめんと欲せざる無し。諸侯に於ける約、大王當に關中に王たるべし。民戸ミ之を知る。大王職を失いて蜀に之く。民恨まざる者無し。今大王舉げて東せば、三秦は檄を傳えて定む可きなり、と。是に於いて漢王喜び、自ら以爲えらく信を得ること晩し、と。遂に信の計を聽き、諸將の擊つ所を部署す。八月、漢王東出す。秦民漢に歸す。王遂に三秦を誅し、王として其の地を定む。諸侯の兵を收めて項王を討ち、帝業を定む。韓信の謀なり。
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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史記 高祖本紀敗れて後乃ち独り孝恵を得たり、六月、立てて太子と為し、大いに罪人を赦す。太子をして櫟陽を守らしめ、諸侯の子の関中に在る者皆櫟陽に集まりて衛と為る。水を引きて廃丘に灌ぐ、廃丘降り、章邯自殺す。廃丘を更名して槐里と為す。是に於て祠官をして天地四方上帝山川を祀らしめ、時を以て之を祀る。関内の卒を興して塞に乗らしむ。是の時九江王布龍且と戦ひ、勝たず、随何と間行して漢に帰す。漢王稍々士卒を収め、諸将及び関中の卒と益々出づ、是を以て兵大いに滎陽に振るひ、楚を京・索の間に破る。三年、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとす、至れば即ち河津を絶ち、反きて楚と為る。漢王酈生をして豹に説かしむ、豹聴かず。漢王将軍韓信を遣はして撃たしめ、大いに之を破り、豹を虜にす。遂に魏の地を定め、三郡を置く、河東・太原・上党と曰ふ。漢王乃ち張耳と韓信とをして遂に東のかた井陘を下りて趙を撃たしめ、陳余・趙王歇を斬る。其の明年、張耳を立てて趙王と為す。漢王滎陽の南に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉を取る。項羽と相距ぐこと歳余。項羽数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢の軍食に乏し、遂に漢王を囲む。漢王和を請ひ、滎陽以西を割く者を漢と為さんとす。項王聴かず。漢王之を患ひ、乃ち陳平の計を用ゐ、陳平に金四万斤を予へ、以て楚の君臣を間疏せしむ。是に於て項羽乃ち亜父を疑ふ。亜父是の時項羽に遂に滎陽を下さんことを勧む、其の疑はるるに及び、乃ち怒り、老を辞し、骸骨を賜ひて卒伍に帰らんことを願ふ、未だ彭城に至らずして死す。漢の軍食を絶つ、乃ち夜女子を東門より出だすこと二千余人、甲を被らしむ、楚因りて四面より之を撃つ。将軍紀信乃ち王の駕に乗り、詐りて漢王と為り、楚を誑す、楚皆万歳を呼び、城東に之きて観る、故を以て漢王数十騎と西門より出でて遁るるを得たり。
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史記 留侯世家良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
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史記 韓信盧綰列伝韓王信は、故の韓の襄王の孽孫なり。長八尺五寸。項梁の楚の後の懐王を立つるに及び、燕・斉・趙・魏は皆已に前に王たり、唯だ韓のみ後有ること無し。故に韓の諸公子横陽君成を立てて韓王と為し、以て韓の故地を撫定せんと欲す。項梁定陶に敗死し、成は懐王に奔る。沛公兵を引ゐて陽城を撃ち、張良をして韓の司徒を以て韓の故地を降下せしめ、信を得て、以て韓の将と為し、其の兵を将ゐて沛公に従ひ武関に入る。沛公立ちて漢王と為るや、韓信従ひて漢中に入り、乃ち漢王に説きて曰く、「項王は諸将を近地に王とし、而して王独り遠く此に居る、此れ左遷なり。士卒は皆山東の人にして、跂ちて帰らんことを望む。其の鋒の東に郷ふに及ばば、以て天下を争ふべし」と。漢王還りて三秦を定め、乃ち信を許して韓王と為し、先づ信を拝して韓の太尉と為し、兵を将ゐて韓の地を略せしむ。項籍の諸王を封ずるや皆国に就くも、韓王成は従はずして功無きを以て、遣はして国に就かしめず、更めて以て列侯と為す。漢の韓信を遣はして韓の地を略せしむと聞くに及び、乃ち故の項籍の呉に游びし時の呉の令鄭昌をして韓王と為し以て漢を距がしむ。漢の二年、韓信韓の十余城を略定す。漢王河南に至り、韓信急に韓王昌を陽城に撃つ。昌降る。漢王乃ち韓信を立てて韓王と為し、常に韓の兵を将ゐて従ふ。三年、漢王滎陽を出で、韓王信・周苛等滎陽を守る。楚の滎陽を敗るに及び、信楚に降り、已にして亡ぐるを得て、復た漢に帰す。漢復た立てて以て韓王と為し、竟に従ひて項籍を撃破し、天下定まる。五年の春、遂に与に符を剖きて韓王と為し、潁川に王たらしむ。
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