史記 / 黥布列伝
楚使項聲、龍且攻淮南,項王留而攻下邑。數月,龍且擊淮南,破布軍。布欲引兵走漢,恐楚王殺之,故閒行與何俱歸漢。淮南王至,上方踞床洗,召布入見,布大怒,悔來,欲自殺。出就舍,帳御飲食從官如漢王居,布又大喜過望。於是乃使人入九江。楚已使項伯收九江兵,盡殺布妻子。布使者頗得故人幸臣,將眾數千人歸漢。漢益分布兵而與俱北,收兵至成皋。四年七月,立布為淮南王,與擊項籍。漢五年,布使人入九江,得數縣。六年,布與劉賈入九江,誘大司馬周殷,周殷反楚,遂舉九江兵與漢擊楚,破之垓下。項籍死,天下定,上置酒。上折隨何之功,謂何為腐儒,為天下安用腐儒。隨何跪曰:「夫陛下引兵攻彭城,楚王未去齊也,陛下發步卒五萬人,騎五千,能以取淮南乎?」上曰:「不能。」隨何曰:「陛下使何與二十人使淮南,至,如陛下之意,是何之功賢於步卒五萬人騎五千也。然而陛下謂何腐儒,為天下安用腐儒,何也?」上曰:「吾方圖子之功。」乃以隨何為護軍中尉。布遂剖符為淮南王,都六,九江、廬江、衡山、豫章郡皆屬布。七年,朝陳。八年,朝雒陽。九年,朝長安。
新字:楚使項声、竜且攻淮南,項王留而攻下邑。数月,竜且撃淮南,破布軍。布欲引兵走漢,恐楚王殺之,故閒行与何倶帰漢。淮南王至,上方踞床洗,召布入見,布大怒,悔来,欲自殺。出就舎,帳御飲食従官如漢王居,布又大喜過望。於是乃使人入九江。楚已使項伯収九江兵,尽殺布妻子。布使者頗得故人幸臣,将衆数千人帰漢。漢益分布兵而与倶北,収兵至成皋。四年七月,立布為淮南王,与撃項籍。漢五年,布使人入九江,得数県。六年,布与劉賈入九江,誘大司馬周殷,周殷反楚,遂舉九江兵与漢撃楚,破之垓下。項籍死,天下定,上置酒。上折随何之功,謂何為腐儒,為天下安用腐儒。随何跪曰:「夫陛下引兵攻彭城,楚王未去斉也,陛下発歩卒五万人,騎五千,能以取淮南乎?」上曰:「不能。」随何曰:「陛下使何与二十人使淮南,至,如陛下之意,是何之功賢於歩卒五万人騎五千也。然而陛下謂何腐儒,為天下安用腐儒,何也?」上曰:「吾方図子之功。」乃以随何為護軍中尉。布遂剖符為淮南王,都六,九江、廬江、衡山、予章郡皆属布。七年,朝陳。八年,朝雒陽。九年,朝長安。
書き下し
楚、項声・竜且をして淮南を攻めしめ、項王留まりて下邑を攻む。数月、竜且淮南を撃ち、布の軍を破る。布兵を引きて漢に走らんと欲するも、楚王の之を殺さんことを恐る。故に間行して何と倶に漢に帰す。淮南王至る。上方に床に踞して洗ひ、布を召して入り見えしむ。布大いに怒り、来たりしを悔い、自殺せんと欲す。出でて舎に就く。帳御飲食従官漢王の居の如し。布又大いに喜び望みに過ぐ。是に於て乃ち人をして九江に入らしむ。楚已に項伯をして九江の兵を収めしめ、尽く布の妻子を殺す。布の使者頗る故人幸臣を得、衆数千人を将ゐて漢に帰す。漢益々布に兵を分かちて与に倶に北し、兵を収めて成皋に至る。四年七月、布を立てて淮南王と為し、与に項籍を撃つ。漢の五年、布人をして九江に入らしめ、数県を得。六年、布劉賈と九江に入り、大司馬周殷を誘ふ。周殷楚に反き、遂に九江の兵を挙げて漢と楚を撃ち、之を垓下に破る。項籍死し、天下定まる。上置酒す。上隨何の功を折き、何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんと。隨何跪きて曰く、「夫れ陛下兵を引きて彭城を攻むるに、楚王未だ斉を去らず。陛下歩卒五万人、騎五千を発して、能く以て淮南を取らんか」と。上曰く、「能はず」と。隨何曰く、「陛下何と二十人とをして淮南に使ひせしめ、至りて陛下の意の如くならしむ。是れ何の功は歩卒五万人騎五千より賢れるなり。然り而して陛下何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんとするは、何ぞや」と。上曰く、「吾方に子の功を図らんとす」と。乃ち隨何を以て護軍中尉と為す。布遂に符を剖きて淮南王と為り、六に都す。九江・廬江・衡山・豫章の郡皆布に属す。七年、陳に朝す。八年、雒陽に朝す。九年、長安に朝す。
現代語訳
楚は項声と竜且に淮南を攻めさせ、項王は自らとどまって下邑を攻めた。数か月して、竜且が淮南を攻めて英布の軍を破った。英布は兵を率いて漢へ逃げようとしたが、楚王に途中で殺されることを恐れ、抜け道を通って隨何とともに漢に帰順した。淮南王が着いたとき、漢王はちょうど寝台に腰かけて足を洗っていて、そのまま英布を呼び入れて会った。英布は大いに怒り、来たことを後悔して、自殺しようとまで思った。ところが退出して宿舎に入ると、とばりや調度、飲食や従者はすべて漢王の住まいと同じであった。英布はまた、期待をはるかに超えたもてなしに大いに喜んだ。そこで英布は人を九江に送り込んだ。楚はすでに項伯に九江の兵を接収させ、英布の妻子をことごとく殺していた。英布の使者は、旧知の者や寵愛していた臣下を多く見つけ出し、数千人の軍勢を率いて漢に帰順した。漢はさらに英布に兵を分け与え、ともに北へ向かい、兵を集めながら成皋に至った。四年七月、英布を淮南王に立て、ともに項籍を攻めた。漢の五年、英布は人を九江に送り込み、数県を得た。六年、英布は劉賈とともに九江に入り、楚の大司馬周殷を誘った。周殷は楚に背き、九江の兵を挙げて漢とともに楚を攻め、垓下で楚を破った。項籍は死に、天下は平定された。高祖は酒宴を催した。その席で高祖は隨何の功績をけなして、隨何を役立たずの儒者と呼び、天下を治めるのにどうして役立たずの儒者など用いようか、と言った。隨何はひざまずいて言った。「陛下が兵を率いて彭城を攻めたとき、楚王はまだ斉から離れていなかった。そのとき陛下が歩兵五万人と騎兵五千を出していたら、淮南を取ることができたか」。高祖は「できなかった」と言った。隨何は言った。「陛下は私と二十人を淮南へ使いに出され、私は着くと陛下の望みどおりにした。これは私の功績が歩兵五万人と騎兵五千にまさるということだ。それなのに陛下が私を役立たずの儒者と呼び、天下を治めるのにどうして役立たずの儒者など用いようかとおっしゃるのは、なぜか」。高祖は「ちょうどおまえの功績に報いようと考えていたところだ」と言い、隨何を護軍中尉に任じた。英布はついに割符を分け与えられて淮南王となり、六を都とした。九江・廬江・衡山・豫章の各郡はすべて英布の領地となった。七年には陳で、八年には雒陽で、九年には長安で朝見した。
解説
関連する章句
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史記 黥布列伝其の八月、布将をして義帝を撃たしめ、追ひて之を郴県に殺す。漢の二年、斉王田栄楚に畔く。項王往きて斉を撃ち、兵を九江に徴す。九江王布病と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。漢の楚を彭城に敗るや、布又病と称して楚を佐けず。項王此に由りて布を怨み、数々使者をして誚譲して布を召さしむ。布愈々恐れ、敢て往かず。項王方に北は斉・趙を憂へ、西は漢を患ふ。与する所の者は独り九江王のみ。又布の材を多とし、親しみて之を用ひんと欲す。故を以て未だ撃たず。漢の三年、漢王楚を撃ち、大いに彭城に戦ひて、利あらず。梁の地に出でて、虞に至り、左右に謂ひて曰く、「彼等の如き者は、与に天下の事を計るに足る無し」と。謁者隨何進みて曰く、「陛下の謂ふ所を審らかにせず」と。漢王曰く、「孰か能く我が為に淮南に使ひし、之をして兵を発して楚に倍かしめ、項王を斉に留むること数月ならしめん。我の天下を取ること以て百全なるべし」と。隨何曰く、「臣請ふ之に使ひせん」と。乃ち二十人と倶に、淮南に使ひす。至る。太宰に因りて之を主とせしむるも、三日見ゆるを得ず。隨何因りて太宰に説きて曰く、「王の何に見えざるは、必ず楚を以て彊と為し、漢を以て弱と為すならん。此れ臣の使ひを為す所以なり。何をして見ゆるを得しめ、之を言ひて是ならば、是れ大王の聞かんと欲する所なり。之を言ひて非ならば、何等二十人をして斧質に淮南の市に伏せしめ、以て王の漢に倍きて楚に与するを明らかにせよ」と。太宰乃ち之を王に言ふ。王之に見ゆ。隨何曰く、「漢王臣をして敬んで書を大王の御者に進めしむ。竊かに大王の楚と何ぞ親しきを怪しむ」と。淮南王曰く、「寡人北郷して之に臣事す」と。隨何曰く、「大王と項王と倶に列して諸侯と為る。北郷して之に臣事するは、必ず楚を以て彊と為し、以て国を託すべしとすればなり。項王斉を伐つに、身づから板築を負ひ、以て士卒の先と為る。大王宜しく淮南の衆を悉くし、身づから自ら之に将として、楚軍の前鋒と為るべし。今乃ち四千人を発して以て楚を助く。
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史記 黥布列伝夫れ北面して人に臣事する者は、固より是の若きか。夫れ漢王彭城に戦ひ、項王未だ斉を出でざるに、大王宜しく淮南の兵を騒して淮を渡り、日夜彭城の下に会戦すべし。大王万人の衆を撫しながら、一人の淮を渡る者無く、垂拱して其の孰れか勝つを観る。夫れ国を人に託する者は、固より是の若きか。大王空名を提げて以て楚に郷ひ、而して厚く自ら託せんと欲す。臣竊かに大王の為に取らざるなり。然り而して大王楚に背かざる者は、漢を以て弱と為せばなり。夫れ楚の兵彊しと雖も、天下之に負はすに不義の名を以てす。其の盟約に背きて義帝を殺すを以てなり。然り而して楚王戦勝を恃みて自ら彊しとす。漢王は諸侯を収め、還りて成皋・滎陽を守り、蜀・漢の粟を下し、溝を深くし壁を塁ね、卒を分かちて徼を守り塞に乗る。楚人兵を還すに、間つるに梁の地を以てし、深く敵国に入ること八九百里、戦はんと欲すれば則ち得ず、城を攻むれば則ち力能はず、老弱糧を千里の外に転ず。楚の兵滎陽・成皋に至るも、漢堅く守りて動かず、進めば則ち攻むるを得ず、退けば則ち解くるを得ず。故に曰く、楚の兵は恃むに足らざるなりと。楚をして漢に勝たしむれば、則ち諸侯自ら危懼して相救はん。夫れ楚の彊は、適々以て天下の兵を致すに足るのみ。故に楚の漢に如かざること、其の勢見易し。今大王万全の漢に与せずして自ら危亡の楚に託す。臣竊かに大王の為に之を惑ふ。臣は淮南の兵を以て楚を亡ぼすに足ると為すに非ざるなり。夫れ大王兵を発して楚に倍かば、項王必ず留まらん。留まること数月、漢の天下を取ること以て万全なるべし。臣請ふ大王と剣を提げて漢に帰せん。漢王必ず地を裂きて大王を封ぜん。又況んや淮南をや。淮南は必ず大王の有たん。故に漢王敬んで使臣をして愚計を進めしむ。願はくは大王の意を留めよ」と。淮南王曰く、「請ふ命を奉ぜん」と。陰かに楚に畔きて漢に与するを許すも、未だ敢て泄らさず。楚の使者在り、方に急に英布に兵を発することを責め、伝舎に舎る。
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史記 黥布列伝東のかた荊を撃つ。荊王劉賈走りて富陵に死す。尽く其の兵を劫かし、淮を渡りて楚を撃つ。楚兵を発して与に徐・僮の間に戦ひ、三軍と為し、以て相救ひて奇を為さんと欲す。或ひと楚の将に説きて曰く、「布は善く兵を用ふ。民素より之を畏る。且つ兵法に、諸侯其の地に戦ふを散地と為す。今別れて三と為る。彼吾が一軍を敗らば、余は皆走らん。安くんぞ能く相救はん」と。聴かず。布果して其の一軍を破り、其の二軍散走す。遂に西し、上の兵と蘄の西の会甀に遇ふ。布の兵精甚だし。上乃ち庸城に壁し、布の軍の陳を置くこと項籍の軍の如きを望み、上之を悪む。布と相望見し、遙かに布に謂ひて曰く、「何を苦しみて反するや」と。布曰く、「帝為らんと欲するのみ」と。上怒りて之を罵り、遂に大いに戦ふ。布の軍敗走し、淮を渡り、数々止まりて戦ふも、利あらず。百余人と江南に走る。布故より番君と婚す。故を以て長沙の哀王人をして布を紿かしめ、偽りて与に亡げんとし、誘ひて越に走らしむ。故に信じて之に随ひて番陽に之く。番陽の人布を茲郷の民の田舎に殺し、遂に黥布を滅ぼす。皇子長を立てて淮南王と為し、賁赫を封じて期思侯と為す。諸将率ね多く功を以て封ぜらるる者あり。
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『長短経』覇図今、大王、万全の漢に与せずして、自ら危亡の楚に託す。臣、竊かに大王の為に之を惑う。臣は淮南の兵を以て楚を亡ぼすに足ると為すに非ざるなり。大王、兵を発して楚に倍けば、項王必ず斉に留まること数月ならん。漢の天下を取ること、以て万全なる可し。臣請う、大王、剣を提げて漢に帰せば、漢は必ず土地を裂きて大王に分かたん。又た況んや淮南をや。必ず大王之を有せん。故に臣をして愚計を進めしむ。願わくは大王、意を留めよ」と。淮南王曰く「請う、命を奉ぜん」と。陰かに楚に叛きて漢に与せんことを許すも、未だ敢えて泄らさず。楚の使者、淮南に在り、方に急に英布に兵を発せしめんとし、伝舎に舎る。随何、直ちに入り、楚の使者の上座に坐して曰く「九江王已に漢に帰す。楚、何を以て兵を発せしむるを得んや」と。布、愕然たり。楚の使者起つ。何、因りて布に説きて曰く「事已に構われり。独り楚の使者を殺し、帰らしむる無くして、疾く漢に走りて力を并せよ」と。乃ち漢の使者の教えの如くす。是に於て楚の使者を殺し、因りて兵を起こして楚を攻むるなり。〉
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史記 黥布列伝陳勝の起こるや、布乃ち番君に見え、其の衆と秦に叛き、兵数千人を聚む。番君其の女を以て之に妻す。章邯の陳勝を滅ぼし、呂臣の軍を破るや、布乃ち兵を引きて北のかた秦の左右の校を撃ち、之を清波に破り、兵を引きて東す。項梁江東会稽を定め、江を渉りて西すと聞く。陳嬰、項氏世々楚の将為るを以て、乃ち兵を以て項梁に属し、淮南を渡る。英布・蒲将軍も亦兵を以て項梁に属す。項梁淮を渉りて西し、景駒・秦嘉等を撃つ。布常に軍に冠たり。項梁薛に至り、陳王の定めて死するを聞き、迺ち楚の懐王を立つ。項梁号して武信君と為り、英布は当陽君と為る。項梁定陶に敗死す。懐王都を彭城に徙す。諸将英布も亦皆彭城に保聚す。是の時に当り、秦急に趙を囲む。趙数々人をして救ひを請はしむ。懐王宋義をして上将と為し、范曾を末将と為し、項籍を次将と為し、英布・蒲将軍皆将軍と為り、悉く宋義に属せしめ、北のかた趙を救はしむ。項籍の宋義を河上に殺すに及び、懐王因りて籍を立てて上将軍と為す。諸将皆項籍に属す。項籍布をして先づ河を渡りて秦を撃たしむ。布数々利有り。籍迺ち悉く兵を引きて河を渉りて之に従ひ、遂に秦軍を破り、章邯等を降す。楚の兵常に勝ち、功諸侯に冠たり。諸侯の兵皆以て楚に服属する者は、布の数々少を以て衆を敗るを以てなり。項籍の兵を引きて西のかた新安に至るや、又布等をして夜撃ちて章邯の秦卒二十余万人を阬にせしむ。関に至り、入るを得ず。又布等をして先づ間道より関下の軍を破らしめ、遂に入るを得て、咸陽に至る。布常に軍鋒と為る。項王諸将を封じ、布を立てて九江王と為し、六に都せしむ。漢の元年四月、諸侯皆戯下を罷め、各々国に就く。項氏懐王を立てて義帝と為し、都を長沙に徙す。乃ち陰かに九江王布等をして行きて之を撃たしむ。
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史記 高祖本紀項王漢王の父母妻子を帰す、軍中皆万歳を呼ぶ、乃ち帰りて別れ去る。項羽解きて東帰す。漢王引きて西帰せんと欲す、留侯・陳平の計を用ゐ、乃ち兵を進めて項羽を追ひ、陽夏の南に至りて軍を止め、斉王信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至る、会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして之を守る。張良の計を用ゐ、是に於て韓信・彭越皆往く。劉賈楚の地に入り、寿春を囲むに及び、漢王碧陵に敗れ、乃ち使者をして大司馬周殷を召さしめ九江の兵を挙げて(之)武王を迎へ、行くゆく城父を屠り、(何)劉賈・斉梁の諸侯に随ひて皆大いに垓下に会す。武王布を立てて淮南王と為す。五年、高祖諸侯の兵と共に楚の軍を撃ち、項羽と勝ちを垓下に決す。淮陰侯三十万を将ゐて自ら之に当たり、孔将軍左に居り、費将軍右に居り、皇帝後に在り、絳侯・柴将軍皇帝の後に在り。項羽の卒十万可り。淮陰先づ合し、利あらず、卻く。孔将軍・費将軍縦(はな)つ、楚の兵利あらず、淮陰侯復た之に乗じ、大いに垓下に敗る。項羽の卒漢軍の楚歌するを聞き、以為へらく漢尽く楚の地を得たりと、項羽乃ち敗れて走る、是を以て兵大いに敗る。騎将灌嬰をして項羽を東城に追殺せしめ、斬首八万、遂に楚の地を略定す。魯楚の為に堅守して下らず。漢王諸侯の兵を引きて北し、魯の父老に項羽の頭を示す、魯乃ち降る。遂に魯公の号を以て項羽を穀城に葬る。還りて定陶に至り、馳せて斉王の壁に入り、其の軍を奪ふ。正月、諸侯及び将相相与に共に漢王を尊びて皇帝と為さんことを請ふ。漢王曰く、「吾聞く帝は賢者之を有つと、空言虚語は、守る所に非ざるなり、吾敢へて帝位に当たらず。」と。
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