史記 / 留侯世家
上曰:「雍齒與我故,數嘗窘辱我。我欲殺之,為其功多,故不忍。」留侯曰:「今急先封雍齒以示羣臣,羣臣見雍齒封,則人人自堅矣。」於是上乃置酒,封雍齒為什方侯,而急趣丞相、御史定功行封。羣臣罷酒,皆喜曰:「雍齒尚為侯,我屬無患矣。」劉敬說高帝曰:「都關中。」上疑之。左右大臣皆山東人,多勸上都雒陽:「雒陽東有成皋,西有殽黽,倍河,向伊雒,其固亦足恃。」留侯曰:「雒陽雖有此固,其中小,不過數百里,田地薄,四面受敵,此非用武之國也。夫關中左殽函,右隴蜀,沃野千里,南有巴蜀之饒,北有胡苑之利,阻三面而守,獨以一面東制諸侯。諸侯安定,河渭漕輓天下,西給京師;諸侯有變,順流而下,足以委輸。此所謂金城千里,天府之國也,劉敬說是也。」於是高帝即日駕,西都關中。留侯從入關。留侯性多病,即道引不食穀,杜門不出歲餘。上欲廢太子,立戚夫人子趙王如意。大臣多諫爭,未能得堅決者也。呂后恐,不知所為。人或謂呂后曰:「留侯善畫計筴,上信用之。」呂后乃使建成侯呂澤劫留侯,曰:「君常為上謀臣,今上欲易太子,君安得高枕而臥乎?」留侯曰:「始上數在困急之中,幸用臣筴。今天下安定,以愛欲易太子,骨肉之間,雖臣等百餘人何益。」
新字:上曰:「雍歯与我故,数嘗窘辱我。我欲殺之,為其功多,故不忍。」留侯曰:「今急先封雍歯以示羣臣,羣臣見雍歯封,則人人自堅矣。」於是上乃置酒,封雍歯為什方侯,而急趣丞相、御史定功行封。羣臣罷酒,皆喜曰:「雍歯尚為侯,我属無患矣。」劉敬説高帝曰:「都関中。」上疑之。左右大臣皆山東人,多勧上都雒陽:「雒陽東有成皋,西有殽黽,倍河,向伊雒,其固亦足恃。」留侯曰:「雒陽雖有此固,其中小,不過数百里,田地薄,四面受敵,此非用武之国也。夫関中左殽函,右隴蜀,沃野千里,南有巴蜀之饒,北有胡苑之利,阻三面而守,独以一面東制諸侯。諸侯安定,河渭漕輓天下,西給京師;諸侯有変,順流而下,足以委輸。此所謂金城千里,天府之国也,劉敬説是也。」於是高帝即日駕,西都関中。留侯従入関。留侯性多病,即道引不食穀,杜門不出歳余。上欲廃太子,立戚夫人子趙王如意。大臣多諫争,未能得堅決者也。呂后恐,不知所為。人或謂呂后曰:「留侯善画計筴,上信用之。」呂后乃使建成侯呂沢劫留侯,曰:「君常為上謀臣,今上欲易太子,君安得高枕而臥乎?」留侯曰:「始上数在困急之中,幸用臣筴。今天下安定,以愛欲易太子,骨肉之間,雖臣等百余人何益。」
書き下し
上曰く、「雍歯は我と故あり、数々嘗て我を窘辱す。我之を殺さんと欲するも、其の功多きが為に、故に忍びず」と。留侯曰く、「今急ぎ先づ雍歯を封じて以て羣臣に示せ、羣臣雍歯の封ぜらるるを見ば、則ち人人自ら堅からん」と。是に於て上乃ち酒を置き、雍歯を封じて什方侯と為し、而して急ぎ丞相・御史を趣して功を定め封を行はしむ。羣臣酒を罷め、皆喜びて曰く、「雍歯すら尚ほ侯と為る、我が属患ひ無し」と。劉敬高帝に説きて曰く、「関中に都せよ」と。上之を疑ふ。左右の大臣皆山東の人にして、多く上に雒陽に都せんことを勧む、「雒陽は東に成皋有り、西に殽黽有り、河を倍にし、伊雒に向かふ、其の固めも亦た恃むに足る」と。留侯曰く、「雒陽は此の固め有りと雖も、其の中小にして、数百里に過ぎず、田地薄く、四面より敵を受く、此れ武を用ふるの国に非ざるなり。夫れ関中は殽函を左にし、隴蜀を右にし、沃野千里、南に巴蜀の饒有り、北に胡苑の利有り、三面を阻みて守り、独り一面を以て東のかた諸侯を制す。諸侯安定すれば、河渭漕輓して天下より、西のかた京師に給す。諸侯変有らば、流れに順ひて下り、以て委輸するに足る。此れ所謂金城千里、天府の国なり、劉敬の説是なり」と。是に於て高帝即日駕し、西のかた関中に都す。留侯従ひて関に入る。留侯性多病にして、即ち道引して穀を食はず、門を杜ぢて出でざること歳余。上太子を廃し、戚夫人の子趙王如意を立てんと欲す。大臣多く諫争するも、未だ堅決を得る者あらざるなり。呂后恐れ、為す所を知らず。人或ひと呂后に謂ひて曰く、「留侯は善く計筴を画し、上之を信用す」と。呂后乃ち建成侯呂沢をして留侯を劫かしめて、曰く、「君常に上の謀臣為り、今上太子を易へんと欲す、君安んぞ枕を高くして臥するを得んや」と。留侯曰く、「始め上数々困急の中に在り、幸ひにして臣の筴を用ふ。今天下安定し、愛欲を以て太子を易へんとす、骨肉の間は、臣等百余人と雖も何ぞ益せん」と。
現代語訳
高祖は言った。「雍歯(ようし)はわしと古いつきあいだが、何度もわしを苦しめ辱めた。殺してやりたいのだが、手柄が多いので、忍びなかった」。留侯は言った。「今すぐ真っ先に雍歯を封じて、群臣に示されたい。群臣は雍歯が封じられたのを見れば、一人一人が安心するだろう」。そこで高祖は酒宴を開いて雍歯を什方侯(じゅうほうこう)に封じ、丞相と御史を急がせて功績を定め、封を行わせた。群臣は酒宴を終えると、みな喜んで言った。「雍歯でさえ侯になれた。我々には心配はない」。劉敬(婁敬)が高帝に説いた。「関中に都を置かれよ」。高祖はためらった。左右の大臣はみな山東(崤山より東)の出身だったので、多くの者が洛陽に都を置くよう勧めた。「洛陽は東に成皋があり、西に殽山・黽池があり、黄河を背にし、伊水・洛水に臨んでいる。その守りの堅さも十分頼りになる」。留侯は言った。「洛陽にはそのような守りがあるとはいえ、その中は狭く、数百里にすぎず、田地はやせていて、四方から敵を受ける。武力を用いる国の都ではない。そもそも関中は、左に殽山と函谷関、右に隴山と蜀があり、肥えた野が千里続き、南には巴・蜀の豊かさがあり、北には胡の牧場の利がある。三方を険しい地形で守り、ただ一方だけで東の諸侯を制することができる。諸侯が安定していれば、黄河と渭水を通して天下の物資を運び、西の都に供給できる。諸侯に異変があれば、流れに沿って下り、兵糧を送り込むこともできる。これこそいわゆる金城千里、天府の国(天然の宝庫)だ。劉敬の説が正しい」。そこで高帝はその日のうちに車に乗り、西の関中に都を定めた。留侯も従って関中に入った。留侯は生まれつき病弱で、導引(呼吸法と体操)を行って穀物を断ち、一年余りも門を閉ざして外出しなかった。高祖は太子を廃して、戚夫人の子の趙王如意を立てようとした。大臣の多くが諫めて争ったが、高祖の決意を翻させることのできる者はいなかった。呂后は恐れて、どうしてよいか分からなかった。ある人が呂后に言った。「留侯は策を立てるのが上手で、主上も彼を信用している」。呂后はそこで建成侯呂沢に留侯を脅させて言わせた。「あなたはいつも主上の謀臣であった。いま主上が太子を替えようとしているのに、あなたはどうして枕を高くして寝ていられるのか」。留侯は言った。「かつて主上はたびたび窮地に陥り、幸いにも私の策を用いてくださった。いま天下は安定し、愛情から太子を替えようとしておられる。肉親の間のことは、私のような者が百人余りいたところで何の役にも立たない」。
解説
関連する章句
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『新序』善謀第十高皇帝疑い、左右の大臣に問う。皆な山東の人なり。多く上に雒陽に都せんことを勸む。東に成皋有り西に肴・澠有り、河海に倍き、伊・洛に嚮かう。其の固も亦た恃むに足る。且つ周は數百年王たり、秦は二世にして亡ぶ。周に都するに如かず、と。留侯張子房曰く、雒陽此の固有りと雖も、國中小さく數百里に過ぎず。田地狹く、四面に敵を受く。此れ武を用うるの國に非ず。夫れ關中は左に肴・函、右に隴・蜀、沃野千里なり。南に巴蜀の饒有り、北に胡苑の利有り。三面に阻り、一隅を守り、東に向かいて諸侯を制す。諸侯安定せば、河・渭に漕輓して天下西のかた京師に給す。諸侯變有らば、流れに順いて下り、以て委輸するに足る。此れ所謂金城千里、天府の國なり。婁敬の說是なり、と。是に於いて高皇帝即日駕し、西のかた關中に都す。是に由りて國家安寧なり。彭越・陳豨・盧綰の謀、九江・燕・代の兵、及び吳楚の難、關東の兵、百萬の師と雖も、猶お以て害を爲す能わざる者は、仁德の惠を保ち、關中の固を守るに由るなり。國以て永く安し。婁敬・張子房の謀なり。上曰く、本ミ秦の地に都せんことを言いし者は、婁敬なり。婁なる者は乃ち劉なり、と。姓を劉氏に賜い、拜して郎中と爲す。號して奉春君と曰う。後に卒に建信侯と爲る。
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『長短経』覇図高祖、以て群臣に問う。群臣は皆な山東の人なり。争いて言う「周王七百年、秦は二世にして即ち滅ぶ。洛陽に都するに如かず。洛陽は東に成皋有り、西に崤・澠有り、河を背にし伊・雒に向かう。其の固きも亦た恃むに足るなり」と。留侯曰く「洛陽は此の固き有りと雖も、其の中小さく、数百里に過ぎず。地は薄く、四面より敵を受く。此れ武を用うるの国に非ざるなり。夫れ漢中は、左に崤・函、右に隴・蜀、沃野千里。南に巴蜀の饒有り、北に胡苑の利有り。三面を阻みて独り一面を守り、東のかた諸侯を制す。諸侯安定すれば、河・渭の漕輓、天下以て西のかた京師に給するに足る。諸侯に変有らば、流れに順いて下り、以て委輸するに足る。此れ所謂金城千里、天府の国なり。婁敬の説、是なり」と。是に於て高帝、即日駕して西し、関中に都す。〉
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史記 劉敬叔孫通列伝高帝、群臣に問ふ。群臣皆山東の人なれば、爭ひて言ふ、周は王たること數百年、秦は二世にして即ち亡ぶ、周に都するに如かず、と。上疑ひて未だ決する能はず。留侯明らかに關に入るの便を言ふに及び、即日車駕西して關中に都す。是に於いて上曰く、「本と秦の地に都せんと言ひし者は婁敬なり。婁なる者は乃ち劉なり」と。姓を劉氏と賜ひ、拜して郎中と為し、號して奉春君と為す。
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『新序』善謀第十蕭何等其の餘の功臣に及びては、皆な未だ封ぜず。羣臣自ら疑い、封を得ざるを恐れ、咸な自ら安んぜず、搖動の心有り。是に於いて高皇帝雒陽の南宮の上臺に在り、羣臣往往にして相い與に沙中に坐して語るを見る。上曰く、此れ何の語ぞ、と。留侯曰く、陛下知らざるか。謀反のみ、と。上曰く、天下屬ミ安し。何の故にして反せん、と。留侯曰く、陛下布衣より起こり、此の屬と天下を定む。陛下已に天子と爲る。而して封ずる所は皆な蕭・曹の故人、誅する所は皆な平生の怨仇なり。今軍吏功を計るに、天下を以て徧く封ずるに足らず。此の屬陛下の盡くは封ずる能わざるを畏れ、又た平生の過失を疑われて誅せられんことを見る。故に即ち聚まりて謀反するのみ、と。上乃ち憂えて曰く、將た奈何せん、と。留侯曰く、上平生憎む所、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ、と。上曰く、雍齒は我と故有り。數ミ我を窘辱す。之を殺さんと欲す。其の功多きが爲に、故に忍びず、と。留侯曰く、今急なり。先ず雍齒を封じ、以て羣臣に示せ。羣臣雍齒の封を得るを見ば、即ち人人自ら堅からん、と。是に於いて上酒を置き雍齒を封じて什方侯と爲す。而して急ぎ丞相・御史に詔して功を定め封を行わしむ。羣臣酒を罷め、皆な喜びて曰く、雍齒すら且つ侯たり。我が屬患い無からん、と。倍畔の心を還し、邪道の謀を銷し、國家をして安寧ならしめ、世を累ねて患い無からしむるは、張子房の謀なり。
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史記 留侯世家且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
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『新序』善謀第十留侯張子房、漢已に定まるに於いて、性疾多し。即ち導引して穀を食らわず、門を杜じて出でず。歳餘、上太子を廢し、戚氏夫人の子趙王如意を立てんと欲す。大臣多く爭う。未だ堅決を得る者有らざるなり。呂后恐れ、爲す所を知らず。人或いは呂后に謂いて曰く、留侯善く計策を畫く。上之を信用す、と。呂后乃ち建成侯呂澤をして留侯を劫かさしめて曰く、君常に上の爲に計る。今日太子を易えんと欲す。君安くんぞ高枕して卧するを得んや、と。留侯曰く、始め上數ミ困急の中に在り、幸いに臣を用う。今天下安定す。愛幼を以て太子を易えんと欲するは骨肉の間なり。臣等百餘人と雖も、何の益あらん、と。呂澤强いて要めて曰く、我が爲に計を畫け、と。留侯曰く、此れ口舌を以て爭い難きなり。顧ミ上に致す能わざる所の者有り。天下に四人有り。園公・綺里季・夏黃公・甪里先生なり。此の四人なる者年老いたり。皆な上の士を慢侮するを以て、故に山中に逃匿し、義として漢の臣と爲らず。然れども上此の四人を高しとす。公誠に能く金玉璧帛を愛しむ無く、太子をして書を爲さしめ、辭を卑くして安車を以て之を迎え、因りて辯士をして固く請わしめば宜しく來たるべし。來たらば以て客と爲し、時時に從いて入朝せしめ、上をして之を見しめよ。上之を見ば必ず大いに異として之を問わん。之を問わば、上此の四人を知る。亦た一助なり、と。
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