史記 / 呉王濞列伝
然其居國以銅鹽故,百姓無賦。卒踐更,輒與平賈。歲時存問茂材,賞賜閭里。佗郡國吏欲來捕亡人者,訟共禁弗予。如此者四十餘年,以故能使其眾。
新字:然其居国以銅塩故,百姓無賦。卒践更,輒与平賈。歳時存問茂材,賞賜閭里。佗郡国吏欲来捕亡人者,訟共禁弗予。如此者四十余年,以故能使其衆。
書き下し
然れども其の国に居るや、銅塩の故を以て、百姓に賦無し。卒の践更するには、輒ち平賈を与ふ。歳時に茂材を存問し、閭里に賞賜す。佗の郡国の吏来りて亡人を捕へんと欲する者あれば、訟ひて共に禁じて予へず。此の如き者四十余年、故を以て能く其の衆を使ふ。
現代語訳
しかし呉王は国にあって、銅と塩の利益があったので、民に税を課さなかった。兵役の交代で本人に代わって勤める者には、そのつど相応の報酬を与えた。季節ごとに才能ある者を訪ねて見舞い、村々に褒美を与えた。他の郡や諸侯国の役人が逃亡者を捕らえに来ても、訴えて皆で拒み、引き渡さなかった。このようにして四十年余りたったので、呉王は民衆を思いのままに使うことができたのである。
解説
呉王濞が国内でどのように人心をつかんでいたかを記した短い段です。銅山と製塩の利益によって民に税を課さず、兵役の代役にも相場どおりの報酬を払い、季節ごとに有能な人材を見舞い、村々に褒美を配りました。さらに他国から逃げ込んだ者を追ってきた役人には引き渡しを拒み、亡命者たちを守りました。こうした政治を四十年余り続けたことで、呉王は民衆を意のままに動かせるようになったと司馬遷は記します。善政の記述であると同時に、中央の法の及ばない独自の勢力を築いていたことを示しており、後の反乱で二十万人を動員できた基盤の説明にもなっています。太史公も後の評で、呉王が賦斂を軽くして民を使ったことを認めています。人に報い、守ることで得た信頼は大きな力になりますが、その力が何のために使われるのかによって、評価はまったく変わってきます。
この章句が説くこと
人心掌握減税民を厚遇して人心を得る力の土台の質信頼呉王濞
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