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史記 / 魏豹彭越列伝

得千餘人。沛公之從碭北擊昌邑,彭越助之。昌邑未下,沛公引兵西。彭越亦將其眾居鉅野中,收魏散卒。項籍入關,王諸侯,還歸,彭越眾萬餘人毋所屬。漢元年秋,齊王田榮畔項王,乃使人賜彭越將軍印,使下濟陰以擊楚。楚命蕭公角將兵擊越,越大破楚軍。漢王二年春,與魏王豹及諸侯東擊楚,彭越將其兵三萬餘人歸漢於外黃。漢王曰:「彭將軍收魏地得十餘城,欲急立魏後。今西魏王豹亦魏王咎從弟也,真魏後。」乃拜彭越為魏相國,擅將其兵,略定梁地。漢王之敗彭城解而西也,彭越皆復亡其所下城,獨將其兵北居河上。漢王三年,彭越常往來為漢游兵,擊楚,絕其後糧於梁地。漢四年冬,項王與漢王相距滎陽,彭越攻下睢陽、外黃十七城。項王聞之,乃使曹咎守成皋,自東收彭越所下城邑,皆復為楚。越將其兵北走穀城。漢五年秋,項王之南走陽夏,彭越復下昌邑旁二十餘城,得穀十餘萬斛,以給漢王食。漢王敗,使使召彭越并力擊楚。越曰:「魏地初定,尚畏楚,未可去。」漢王追楚,為項籍所敗碧陵。乃謂留侯曰:「諸侯兵不從,為之柰何?」留侯曰:「齊王信之立,非君王之意,信亦不自堅。

新字:得千余人。沛公之従碭北撃昌邑,彭越助之。昌邑未下,沛公引兵西。彭越亦将其衆居鉅野中,収魏散卒。項籍入関,王諸侯,還帰,彭越衆万余人毋所属。漢元年秋,斉王田栄畔項王,乃使人賜彭越将軍印,使下済陰以撃楚。楚命蕭公角将兵撃越,越大破楚軍。漢王二年春,与魏王豹及諸侯東撃楚,彭越将其兵三万余人帰漢於外黄。漢王曰:「彭将軍収魏地得十余城,欲急立魏後。今西魏王豹亦魏王咎従弟也,真魏後。」乃拝彭越為魏相国,擅将其兵,略定梁地。漢王之敗彭城解而西也,彭越皆復亡其所下城,独将其兵北居河上。漢王三年,彭越常往来為漢游兵,撃楚,絶其後糧於梁地。漢四年冬,項王与漢王相距滎陽,彭越攻下睢陽、外黄十七城。項王聞之,乃使曹咎守成皋,自東収彭越所下城邑,皆復為楚。越将其兵北走穀城。漢五年秋,項王之南走陽夏,彭越復下昌邑旁二十余城,得穀十余万斛,以給漢王食。漢王敗,使使召彭越并力撃楚。越曰:「魏地初定,尚畏楚,未可去。」漢王追楚,為項籍所敗碧陵。乃謂留侯曰:「諸侯兵不従,為之柰何?」留侯曰:「斉王信之立,非君王之意,信亦不自堅。

書き下し

千余人を得たり。沛公の碭より北のかた昌邑を撃つや、彭越之を助く。昌邑未だ下らず、沛公兵を引きて西す。彭越も亦其の衆を将ゐて鉅野の中に居り、魏の散卒を収む。項籍関に入り、諸侯に王とし、還り帰る。彭越の衆万余人属する所毋し。漢の元年秋、斉王田栄項王に畔き、乃ち人をして彭越に将軍の印を賜はしめ、済陰を下して以て楚を撃たしむ。楚、蕭公角をして兵を将ゐて越を撃たしむ。越大いに楚軍を破る。漢王の二年春、魏王豹及び諸侯と東のかた楚を撃つ。彭越其の兵三万余人を将ゐて漢に外黄に帰す。漢王曰く、「彭将軍魏の地を収めて十余城を得、急ぎ魏の後を立てんと欲す。今西魏王豹も亦魏王咎の従弟なり。真の魏の後なり」と。乃ち彭越を拝して魏の相国と為し、其の兵を擅に将ゐて、梁の地を略定せしむ。漢王の彭城に敗れて解けて西するや、彭越皆復た其の下す所の城を亡ひ、独り其の兵を将ゐて北のかた河上に居る。漢王の三年、彭越常に往来して漢の游兵と為り、楚を撃ち、其の後糧を梁の地に絶つ。漢の四年冬、項王と漢王と滎陽に相距ぐ。彭越睢陽・外黄の十七城を攻め下す。項王之を聞き、乃ち曹咎をして成皋を守らしめ、自ら東して彭越の下す所の城邑を収め、皆復た楚と為す。越其の兵を将ゐて北のかた穀城に走る。漢の五年秋、項王の南のかた陽夏に走るや、彭越復た昌邑の旁の二十余城を下し、穀十余万斛を得て、以て漢王の食に給す。漢王敗れ、使をして彭越を召して力を并せて楚を撃たしめんとす。越曰く、「魏の地初めて定まり、尚ほ楚を畏る。未だ去るべからず」と。漢王楚を追ひ、項籍の為に碧陵に敗らる。乃ち留侯に謂ひて曰く、「諸侯の兵従はず。之を為すこと柰何」と。留侯曰く、「斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦自ら堅からず。

現代語訳

千人余りを得た。沛公(劉邦)が碭から北へ向かって昌邑を攻めたとき、彭越はこれを助けた。昌邑がまだ落ちないうちに沛公は兵を率いて西へ去った。彭越も自分の軍勢を率いて鉅野の沼沢地にとどまり、魏の敗残兵を集めた。項籍(項羽)が関中に入り、諸侯を王に封じて帰っていったとき、彭越の一万余りの軍勢はどこにも属していなかった。漢の元年秋、斉王田栄が項王に背くと、人をやって彭越に将軍の印を与え、済陰を攻め下して楚を撃たせた。楚は蕭公角に兵を率いさせて彭越を攻めさせたが、彭越は楚軍を大いに破った。漢王の二年春、漢王が魏王豹や諸侯とともに東へ向かって楚を攻めると、彭越は兵三万余人を率いて外黄で漢に帰順した。漢王は言った。「彭将軍は魏の地を収めて十余りの城を得ており、急いで魏の王家の子孫を立てようとしている。いま西魏王豹もまた魏王咎の従弟であり、まさしく魏の王家の子孫だ」。そこで彭越を魏の相国に任じ、独自の判断でその兵を率いさせて梁の地を平定させた。漢王が彭城で敗れて軍が散り散りになり西へ退くと、彭越は攻め下した城をすべて再び失い、ただ自分の兵だけを率いて北の黄河のほとりにとどまった。漢王の三年、彭越はいつも行き来して漢の遊撃軍となり、楚を攻め、梁の地で楚軍の後方の兵糧を断った。漢の四年冬、項王と漢王が滎陽で対峙していたとき、彭越は睢陽・外黄など十七の城を攻め落とした。項王はこれを聞くと、曹咎に成皋を守らせ、自ら東へ向かって彭越が攻め落とした城や町を取り戻し、みな再び楚のものとした。彭越は兵を率いて北の穀城へ逃れた。漢の五年秋、項王が南の陽夏へ退くと、彭越はまた昌邑周辺の二十余りの城を攻め落とし、穀物十余万斛を手に入れて、漢王の軍の食糧にあてた。漢王は戦に敗れると、使者を送って彭越を呼び、力を合わせて楚を攻めようとした。彭越は言った。「魏の地はようやく平定したばかりで、まだ楚を恐れている。ここを離れるわけにはいかない」。漢王は楚を追撃したが、項籍に碧陵で敗れた。そこで留侯(張良)に言った。「諸侯の兵が従ってこない。どうすればよいか」。留侯は言った。「斉王韓信が王に立てられたのは、君王の本意ではなかったので、韓信自身も立場に安心していない。

解説

彭越が楚漢戦争で果たした役割を語る段です。彭越は最初、どの勢力にも属さない一万余りの軍を率いていましたが、斉の田栄に将軍の印を与えられて楚と戦い、やがて漢に帰順して魏の相国となりました。彭越の真価は遊撃戦にありました。項羽が劉邦と滎陽で対峙している間、その背後の梁の地を荒らし回って兵糧の補給路を断ち、項羽が戻ってくると退き、去るとまた城を落とすことを繰り返します。奪った穀物十余万斛は漢軍の食糧となりました。項羽は前線と後方の両方に気を取られ、次第に消耗していきます。ところが劉邦が最終決戦のために呼び出すと、彭越は「魏の地を離れられない」と応じません。自分の立場が保証されていない以上、命がけで戦う理由がなかったのです。張良はこの事情を見抜いていました。正面から戦うだけでなく、相手の補給線を断つ役割も勝敗を大きく左右します。そうした働きをする人の処遇を明確にしてこそ、決定的な場面で力を貸してもらえるのです。

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