長短経 / 覇図
然大王不背楚者、以漢為弱也。夫楚兵雖强、天下負之以不義之名、以其背約而殺義帝也。然而楚王將以戰勝自強、漢王収諸侯、還守滎陽、下蜀漢之粟、深溝髙壘、分卒守徼乗塞。楚人還兵、間以梁地、深入敵國八九百里、欲戰則不得、攻城則力不能、老弱轉糧千里之外、楚兵至滎陽、城臯、漢堅守而不動、進則不得攻、退則不得解。故曰、楚不足恃也。使楚勝、則諸侯自危懼而相救。夫楚之強、適足以致天下之兵耳。故楚不如漢、其勢易見也。
新字:然大王不背楚者、以漢為弱也。夫楚兵雖強、天下負之以不義之名、以其背約而殺義帝也。然而楚王将以戦勝自強、漢王収諸侯、還守滎陽、下蜀漢之粟、深溝高塁、分卒守徼乗塞。楚人還兵、間以梁地、深入敵国八九百里、欲戦則不得、攻城則力不能、老弱転糧千里之外、楚兵至滎陽、城皋、漢堅守而不動、進則不得攻、退則不得解。故曰、楚不足恃也。使楚勝、則諸侯自危懼而相救。夫楚之強、適足以致天下之兵耳。故楚不如漢、其勢易見也。
書き下し
然れども大王の楚に背かざる者は、漢を以て弱しと為せばなり。夫れ楚兵は強しと雖も、天下は之に不義の名を負わす。其の約に背きて義帝を殺せるを以てなり。然り而して楚王は将に戦勝を以て自ら強しとせんとす。漢王は諸侯を収め、還りて滎陽を守り、蜀漢の粟を下し、溝を深くし塁を高くし、卒を分かちて徼を守り塞に乗る。楚人、兵を還すに、間つるに梁地を以てし、敵国に深入すること八九百里。戦わんと欲すれば則ち得ず、城を攻むれば則ち力能わず、老弱もて糧を千里の外に転ず。楚兵、滎陽・城皋に至るも、漢は堅守して動かず。進めば則ち攻むるを得ず、退けば則ち解くを得ず。故に曰く、楚は恃むに足らざるなり、と。楚をして勝たしむれば、則ち諸侯自ら危懼して相い救わん。夫れ楚の強きは、適だ以て天下の兵を致すに足るのみ。故に楚の漢に如かざるは、其の勢い見易きなり。
現代語訳
それでも大王が楚に背かないのは、漢を弱いと見ているからです。楚の兵は強いが、天下は楚に不義の名を負わせている。約束に背いて義帝を殺したからです。それなのに楚王は戦に勝つことで自分は強いと思おうとしている。漢王は諸侯を収め、戻って滎陽を守り、蜀と漢中の穀物を運び下し、堀を深くし塁を高くし、兵を分けて要所と塞を守っています。楚が兵を返しても、あいだに梁の地を挟み、敵国に八、九百里も深入りすることになる。戦おうとしても戦えず、城を攻めても力が及ばず、老人と子どもで千里の外へ兵糧を運ぶことになる。楚の兵が滎陽や城皋に来ても、漢は固く守って動かない。進んでも攻められず、退いても決着がつかない。だから楚は頼りにならないというのです。楚に勝たせれば、諸侯は自分の身を恐れて互いに救い合うでしょう。楚の強さは、天下の兵を呼び集めるのにちょうど足りるだけです。だから楚が漢に及ばないことは、勢いを見れば明らかです。
解説

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