史記 / 魏豹彭越列伝
彭越本定梁地,功多,始君王以魏豹故,拜彭越為魏相國。今豹死毋後,且越亦欲王,而君王不蚤定。與此兩國約:即勝楚,睢陽以北至穀城,皆以王彭相國;從陳以東傅海,與齊王信。齊王信家在楚,此其意欲復得故邑。君王能出捐此地許二人,二人今可致;即不能,事未可知也。」於是漢王乃發使使彭越,如留侯策。使者至,彭越乃悉引兵會垓下,遂破楚。項籍已死。春,
新字:彭越本定梁地,功多,始君王以魏豹故,拝彭越為魏相国。今豹死毋後,且越亦欲王,而君王不蚤定。与此両国約:即勝楚,睢陽以北至穀城,皆以王彭相国;従陳以東傅海,与斉王信。斉王信家在楚,此其意欲復得故邑。君王能出捐此地許二人,二人今可致;即不能,事未可知也。」於是漢王乃発使使彭越,如留侯策。使者至,彭越乃悉引兵会垓下,遂破楚。項籍已死。春,
書き下し
彭越は本梁の地を定め、功多し。始め君王魏豹の故を以て、彭越を拝して魏の相国と為す。今豹死して後毋く、且つ越も亦王たらんと欲す。而るに君王蚤く定めず。此の両国と約せよ。即し楚に勝たば、睢陽以北穀城に至るまでは、皆以て彭相国に王とし、陳より以東海に傅ふまでは、斉王信に与へよ。斉王信の家は楚に在り。此れ其の意復た故邑を得んと欲す。君王能く此の地を出捐して二人に許さば、二人今致すべし。即し能はずんば、事未だ知るべからざるなり」と。是に於て漢王乃ち使を発して彭越に使ひせしむること、留侯の策の如し。使者至る。彭越乃ち悉く兵を引きて垓下に会し、遂に楚を破る。(五年)項籍已に死す。春、
現代語訳
彭越はもともと梁の地を平定し、功績が多い。はじめ君王は魏豹がいたので、彭越を魏の相国に任じただけであった。いま魏豹は死んで跡継ぎもなく、しかも彭越も王になりたがっている。それなのに君王は早く決めてやらなかった。この二国(斉と梁)と約束をなさることだ。もし楚に勝ったら、睢陽から北の穀城までをすべて彭相国に与えて王とし、陳から東の海岸までを斉王韓信に与えるのだ。斉王韓信の故郷は楚にあるので、その本心はもとの故郷を手に入れたいのである。君王がこれらの土地を手放して二人に約束することができれば、二人はすぐにも来るだろう。もしそれができなければ、事の成り行きはわからない」。そこで漢王は留侯の策のとおりに使者を彭越のもとへ送った。使者が着くと、彭越は全軍を率いて垓下に集結し、ついに楚を破った。(五年)項籍はすでに死んだ。その春、
解説
関連する章句
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『長短経』覇図項王、解きて東す。漢王、西せんと欲す。張良曰く「今、漢は天下の大半を有ちて、諸侯皆な附く。楚兵は疲れ、食は尽く。此れ天の楚を亡ぼすの時なり。其の東するに因りて之を取るに如かず」と。漢王乃ち羽を追う。斉王韓信・魏相彭越と、期して会して楚を撃たんとするも、皆な会せず。張良の計を用い、信等皆な兵を進めて羽を垓下に囲み、遂に項氏を滅ぼす。〈漢王、張良に問いて曰く「諸侯従わず。奈何」と。良曰く「楚兵、且に破れんとするに、未だ分地有らず。其の至らざるは固より宜なり。君王、能く与に天下を共にせば、立ちどころに致す可きなり。斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦た自ら堅からず。彭越は本と梁地を定む。始め君、魏豹の故を以て、越、相国と為るを拝するを得たり。今、豹死し、越も亦た王を望む。而るに君王、早く定めず。今、能く睢陽以北より穀城に至るを取りて、以て彭越を王とし、陳より以東海に傅うるを、斉王信に与えよ。信の家は楚に在り。其の意、復た故邑を得んと欲す。能く此の地を出捐して、以て両人に許し、各々自ら為に戦わしめば、則ち楚は破り易からん」と。是に於て漢王、使いを発し、韓信・彭越・劉賈等をして皆な兵を引きて羽を垓下に囲ましむ。〉
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『新序』善謀第十漢の五年、項王を陽夏の南に追擊し、軍を止む。淮陰侯韓信・建成侯彭越と期會して楚軍を擊たんとす。固陵に至るも會せず。楚漢軍を擊ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、深く塹して之を守る。張子房に謂いて曰く、諸侯約に從わず。奈何せん、と。對えて曰く、楚兵且に破れんとす。而して未だ分地有らず。其の至らざるは固より宜なり。君王能く與に天下を共にせば、今立ちどころに致す可きなり。則ち能わずんば、事未だ知る可からざるなり。君王能く自ら陳より以東海に傅うまで盡く韓信に與え、睢陽より以北穀城に至るまで盡く彭越に與え、各ミ自ら戰いを爲さしめば、則ち楚敗り易きなり、と。漢王乃ち使者をして韓信・彭越に吿げしめて曰く、力を并せて楚を擊て。楚已に破らば、陳より以東海に傅うまでを齊王に與え、睢陽より以北穀城までを彭相國に與えん、と。使者至る。韓信・彭越皆な喜び、報じて曰く、請う今兵を進めん、と。韓信乃ち齊より行き、彭越の兵梁より至る。諸侯來會す。遂に楚軍を垓下に破り、項王を追いて、之を淮津に誅す。二君の功は、張子房の謀なり。
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史記 魏豹彭越列伝千余人を得たり。沛公の碭より北のかた昌邑を撃つや、彭越之を助く。昌邑未だ下らず、沛公兵を引きて西す。彭越も亦其の衆を将ゐて鉅野の中に居り、魏の散卒を収む。項籍関に入り、諸侯に王とし、還り帰る。彭越の衆万余人属する所毋し。漢の元年秋、斉王田栄項王に畔き、乃ち人をして彭越に将軍の印を賜はしめ、済陰を下して以て楚を撃たしむ。楚、蕭公角をして兵を将ゐて越を撃たしむ。越大いに楚軍を破る。漢王の二年春、魏王豹及び諸侯と東のかた楚を撃つ。彭越其の兵三万余人を将ゐて漢に外黄に帰す。漢王曰く、「彭将軍魏の地を収めて十余城を得、急ぎ魏の後を立てんと欲す。今西魏王豹も亦魏王咎の従弟なり。真の魏の後なり」と。乃ち彭越を拝して魏の相国と為し、其の兵を擅に将ゐて、梁の地を略定せしむ。漢王の彭城に敗れて解けて西するや、彭越皆復た其の下す所の城を亡ひ、独り其の兵を将ゐて北のかた河上に居る。漢王の三年、彭越常に往来して漢の游兵と為り、楚を撃ち、其の後糧を梁の地に絶つ。漢の四年冬、項王と漢王と滎陽に相距ぐ。彭越睢陽・外黄の十七城を攻め下す。項王之を聞き、乃ち曹咎をして成皋を守らしめ、自ら東して彭越の下す所の城邑を収め、皆復た楚と為す。越其の兵を将ゐて北のかた穀城に走る。漢の五年秋、項王の南のかた陽夏に走るや、彭越復た昌邑の旁の二十余城を下し、穀十余万斛を得て、以て漢王の食に給す。漢王敗れ、使をして彭越を召して力を并せて楚を撃たしめんとす。越曰く、「魏の地初めて定まり、尚ほ楚を畏る。未だ去るべからず」と。漢王楚を追ひ、項籍の為に碧陵に敗らる。乃ち留侯に謂ひて曰く、「諸侯の兵従はず。之を為すこと柰何」と。留侯曰く、「斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦自ら堅からず。
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史記 項羽本紀曰く、「此れ天下の辯士なり、居る所国を傾く、故に号して平国君と為す。」と。項王已に約し、乃ち兵を引きて解きて東帰す。漢西帰せんと欲す、張良・陳平説きて曰く、「漢天下の太半を有ち、而して諸侯皆之に附く。楚の兵罷れ食尽く、此れ天の楚を亡ぼすの時なり、其の機に因りて遂に之を取るに如かず。今釈きて撃たずんば、此れ所謂『虎を養ひて自ら患ひを遺す』なり。」と。漢王之を聴く。漢の五年、漢王乃ち項王を追ひて陽夏の南に至り、軍を止め、淮陰侯韓信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至り、而して信・越の兵会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして自ら守る。張子房に謂ひて曰く、「諸侯約に従はず、之を為すこと柰何。」と。対へて曰く、「楚の兵且に破れんとす、信・越未だ分地有らず、其の至らざること固より宜なり。君王能く与に天下を共分せば、今立ちどころに致すべきなり。即し能はずんば、事未だ知るべからざるなり。君王能く陳より以東海に傅(つ)くまでを、尽く韓信に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを、以て彭越に与へ、各々自ら戦ひを為さしめば、則ち楚敗り易きなり。」と。漢王曰く、「善し。」と。是に於て乃ち使者を発して韓信・彭越に告げて曰く、「力を并せて楚を撃て。楚破れば、陳より以東海に傅くまでを斉王に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを彭相国に与へん。」と。使者至る、韓信・彭越皆報じて曰く、「請ふ今兵を進めん。」と。韓信乃ち斉より往き、劉賈の軍寿春より并行し、城父を屠りて、垓下に至る。大司馬周殷楚に叛き、舒を以て六を屠り、九江の兵を挙げ、劉賈・彭越に随ひて皆垓下に会し、項王に詣る。項王の軍垓下に壁す、兵少なく食尽く、漢の軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。夜漢の軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王則ち夜起きて、帳中に飲む。
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史記 留侯世家良項王に説きて曰く、「漢王桟道を焼絶す、還る心無し」と。乃ち斉王田栄の反くを以て、項王に書告す。項王此を以て西に漢を憂ふる心無く、而して兵を発して北のかた斉を撃つ。項王竟に肯へて韓王を遣はさず、乃ち以て侯と為し、又之を彭城に殺す。良亡げ、間行して漢王に帰す、漢王も亦た已に還りて三秦を定む。復た良を以て成信侯と為し、従ひて東のかた楚を撃つ。彭城に至り、漢敗れて還る。下邑に至り、漢王馬を下り鞍に踞して問ひて曰く、「吾関以東を捐てて等しく之を棄てんと欲す、誰か与に功を共にすべき者ぞ」と。良進みて曰く、「九江王黥布は、楚の梟将なり、項王と郄有り。彭越は斉王田栄と梁の地に反く。此の両人急ぎ使ふべし。而して漢王の将は独り韓信のみ大事を属し、一面に当たらしむべし。即し之を捐てんと欲せば、之を此の三人に捐てよ、則ち楚破るべきなり」と。漢王乃ち隨何をして九江王布に説かしめ、而して人をして彭越に連ならしむ。魏王豹の反くに及び、韓信をして兵を将ゐて之を撃たしめ、因りて燕・代・斉・趙を挙ぐ。然れども卒に楚を破る者は、此の三人の力なり。張良多病にして、未だ嘗て特に将たらず、常に画策を為し、時時漢王に従ふ。漢三年、項羽急に漢王を滎陽に囲む、漢王恐憂し、酈食其と楚の権を橈めんことを謀る。食其曰く、「昔湯桀を伐ち、其の後を杞に封ず。武王紂を伐ち、其の後を宋に封ず。今秦徳を失ひ義を棄て、諸侯の社稷を侵伐し、六国の後を滅ぼし、錐を立つるの地無からしむ。陛下誠に能く復た六国の後世を立て、畢く已に印を受けしめば、此れ其の君臣百姓必ず皆陛下の徳を戴き、風に郷ひ義を慕ひ、臣妾と為らんことを願はざる莫からん。徳義已に行はれ、陛下南郷して霸を称せば、楚必ず衽を斂めて朝せん」と。漢王曰く、「善し。趣やかに印を刻せ、先生因りて行きて之を佩ばしめよ」と。食其未だ行かず、張良外より来たりて謁す。漢王方に食す、曰く、「子房前め。
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史記 高祖本紀項王漢王の父母妻子を帰す、軍中皆万歳を呼ぶ、乃ち帰りて別れ去る。項羽解きて東帰す。漢王引きて西帰せんと欲す、留侯・陳平の計を用ゐ、乃ち兵を進めて項羽を追ひ、陽夏の南に至りて軍を止め、斉王信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至る、会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして之を守る。張良の計を用ゐ、是に於て韓信・彭越皆往く。劉賈楚の地に入り、寿春を囲むに及び、漢王碧陵に敗れ、乃ち使者をして大司馬周殷を召さしめ九江の兵を挙げて(之)武王を迎へ、行くゆく城父を屠り、(何)劉賈・斉梁の諸侯に随ひて皆大いに垓下に会す。武王布を立てて淮南王と為す。五年、高祖諸侯の兵と共に楚の軍を撃ち、項羽と勝ちを垓下に決す。淮陰侯三十万を将ゐて自ら之に当たり、孔将軍左に居り、費将軍右に居り、皇帝後に在り、絳侯・柴将軍皇帝の後に在り。項羽の卒十万可り。淮陰先づ合し、利あらず、卻く。孔将軍・費将軍縦(はな)つ、楚の兵利あらず、淮陰侯復た之に乗じ、大いに垓下に敗る。項羽の卒漢軍の楚歌するを聞き、以為へらく漢尽く楚の地を得たりと、項羽乃ち敗れて走る、是を以て兵大いに敗る。騎将灌嬰をして項羽を東城に追殺せしめ、斬首八万、遂に楚の地を略定す。魯楚の為に堅守して下らず。漢王諸侯の兵を引きて北し、魯の父老に項羽の頭を示す、魯乃ち降る。遂に魯公の号を以て項羽を穀城に葬る。還りて定陶に至り、馳せて斉王の壁に入り、其の軍を奪ふ。正月、諸侯及び将相相与に共に漢王を尊びて皇帝と為さんことを請ふ。漢王曰く、「吾聞く帝は賢者之を有つと、空言虚語は、守る所に非ざるなり、吾敢へて帝位に当たらず。」と。
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