史記 / 張耳陳余列伝
秦詔書購求兩人,兩人亦反用門者以令里中。陳渉起蘄,至入陳,兵數萬。張耳、陳餘上謁陳渉。渉及左右生平數聞張耳、陳餘賢,未嘗見,見即大喜。陳中豪傑父老乃説陳渉曰:「將軍身被堅執鋭,率士卒以誅暴秦,復立楚社稷,存亡繼絶,功德宜爲王。且夫監臨天下諸將,不爲王不可,願將軍立爲楚王也。」陳渉問此兩人,兩人對曰:「夫秦爲無道,破人國家,滅人社稷,絶人後世,罷百姓之力,盡百姓之財。將軍瞋目張膽,出萬死不顧一生之計,爲天下除殘也。今始至陳而王之,示天下私。願將軍毋王,急引兵而西,遣人立六國後,自爲樹黨,爲秦益敵也。敵多則力分,與衆則兵彊。如此野無交兵,縣無守城,誅暴秦,據咸陽以令諸侯。諸侯亡而得立,以德服之,如此則帝業成矣。今獨王陳,恐天下解也。」陳渉不聽,遂立爲王。陳餘乃復説陳王曰:「大王舉梁、楚而西,務在入關,未及收河北也。臣嘗游趙,知其豪桀及地形,願請奇兵北略趙地。」於是陳王以故所善陳人武臣爲將軍,邵騷爲護軍,以張耳、陳餘爲左右校尉,予卒三千人,北略趙地。武臣等從白馬渡河,至諸縣,説其豪桀曰:「秦爲亂政虐刑以殘賊天下,數十年矣。
新字:秦詔書購求両人,両人亦反用門者以令里中。陳渉起蘄,至入陳,兵数万。張耳、陳余上謁陳渉。渉及左右生平数聞張耳、陳余賢,未嘗見,見即大喜。陳中豪傑父老乃説陳渉曰:「将軍身被堅執鋭,率士卒以誅暴秦,復立楚社稷,存亡継絶,功徳宜為王。且夫監臨天下諸将,不為王不可,願将軍立為楚王也。」陳渉問此両人,両人対曰:「夫秦為無道,破人国家,滅人社稷,絶人後世,罷百姓之力,尽百姓之財。将軍瞋目張胆,出万死不顧一生之計,為天下除残也。今始至陳而王之,示天下私。願将軍毋王,急引兵而西,遣人立六国後,自為樹党,為秦益敵也。敵多則力分,与衆則兵彊。如此野無交兵,県無守城,誅暴秦,拠咸陽以令諸侯。諸侯亡而得立,以徳服之,如此則帝業成矣。今独王陳,恐天下解也。」陳渉不聴,遂立為王。陳余乃復説陳王曰:「大王舉梁、楚而西,務在入関,未及収河北也。臣嘗游趙,知其豪桀及地形,願請奇兵北略趙地。」於是陳王以故所善陳人武臣為将軍,邵騷為護軍,以張耳、陳余為左右校尉,予卒三千人,北略趙地。武臣等従白馬渡河,至諸県,説其豪桀曰:「秦為乱政虐刑以残賊天下,数十年矣。
書き下し
秦詔書もて両人を購ひ求む。両人亦反って門者を用ひて以て里中に令す。陳渉蘄に起こり、陳に入るに至りて、兵数万。張耳・陳餘陳渉に上謁す。渉及び左右生平数々張耳・陳餘の賢を聞くも、未だ嘗て見ず。見て即ち大いに喜ぶ。陳中の豪傑父老乃ち陳渉に説きて曰く、「将軍身に堅を被り鋭を執り、士卒を率ゐて以て暴秦を誅し、復た楚の社稷を立て、亡を存し絶を継ぐ。功徳宜しく王たるべし。且つ夫れ天下の諸将を監臨するに、王と為らずんば可ならず。願はくは将軍立ちて楚王と為れ」と。陳渉此の両人に問ふ。両人対へて曰く、「夫れ秦は無道を為し、人の国家を破り、人の社稷を滅ぼし、人の後世を絶ち、百姓の力を罷らし、百姓の財を尽くす。将軍目を瞋らし胆を張り、万死を出でて一生を顧みざるの計を出だし、天下の為に残を除く。今始めて陳に至りて之に王たらば、天下に私を示さん。願はくは将軍王たる毋く、急ぎ兵を引きて西し、人を遣はして六国の後を立て、自ら党を樹て、秦の為に敵を益せ。敵多ければ則ち力分かれ、与衆ければ則ち兵彊し。此の如くんば野に交兵無く、県に守城無く、暴秦を誅し、咸陽に拠りて以て諸侯に令す。諸侯亡びて立つを得、徳を以て之を服す。此の如くんば則ち帝業成らん。今独り陳に王たらば、恐らくは天下解けん」と。陳渉聴かず、遂に立ちて王と為る。陳餘乃ち復た陳王に説きて曰く、「大王梁・楚を挙げて西し、務めは関に入るに在り。未だ河北を収むるに及ばず。臣嘗て趙に游び、其の豪桀及び地形を知る。願はくは奇兵を請ひて北のかた趙の地を略せん」と。是に於て陳王故の善くする所の陳人武臣を以て将軍と為し、邵騒を護軍と為し、張耳・陳餘を以て左右校尉と為し、卒三千人を予へ、北のかた趙の地を略せしむ。武臣等白馬より河を渡り、諸県に至り、其の豪桀に説きて曰く、「秦は乱政虐刑を為して以て天下を残賊すること、数十年なり。
現代語訳
秦は詔書を出して二人に懸賞をかけ、探し求めた。二人はかえって門番の立場を利用して、村の中にその詔書の内容を触れ回った。陳渉(陳勝)が蘄で挙兵し、陳に入るころには兵は数万に達していた。張耳と陳餘は陳渉に面会を求めた。陳渉とその側近たちは、かねてから張耳と陳餘の賢さをたびたび聞いていたが、まだ会ったことがなかったので、会うとたいへん喜んだ。陳の町の豪傑や長老たちは陳渉に説いた。「将軍は自ら甲冑をまとい武器を執って、兵を率いて暴虐な秦を討ち、楚の国家を再興し、滅びた国を存続させ、絶えた家を継がせようとしている。その功績と徳からすれば、王となるのがふさわしい。しかも天下の諸将を統率するには、王とならなければならない。どうか将軍には、即位して楚王となっていただきたい」。陳渉はこの二人に意見を求めた。二人は答えた。「秦は無道を行い、人の国を破り、人の国家を滅ぼし、人の子孫を絶やし、民の力を疲れさせ、民の財を奪い尽くした。将軍は目をいからせ胆をふるい、万死に一生も顧みない決意で、天下のために暴虐を除こうとしている。それなのに陳に着いたばかりで王となれば、天下に私心を示すことになる。どうか将軍は王とならず、急いで兵を率いて西へ進み、人を送って六国の王の子孫を立て、自らの味方を作り、秦の敵を増やしていただきたい。敵が多ければ秦の力は分散し、味方が多ければこちらの兵は強くなる。そうすれば野で戦うこともなく、県で城を守る者もなく、暴虐な秦を討ち、咸陽に拠って諸侯に号令できる。滅ぼされていた諸侯が再び立てるようになれば、徳によって彼らを服従させることができる。そうなれば帝業は成就する。いま陳だけで王となれば、天下の心は離れてしまうだろう」。陳渉は聞き入れず、ついに即位して王となった。陳餘はそこで再び陳王に説いた。「大王は梁・楚の兵を挙げて西へ向かい、関中に入ることに力を注いでおられ、まだ黄河の北を収めるところまで手が回っていない。私はかつて趙に遊歴し、その地の豪傑や地形を知っている。どうか奇襲の兵をお貸しいただき、北の趙の地を攻め取らせていただきたい」。そこで陳王は、以前から親しかった陳の人武臣を将軍とし、邵騒を護軍(監軍)とし、張耳と陳餘を左右の校尉として、三千の兵を与え、北の趙の地を攻め取らせた。武臣らは白馬から黄河を渡り、各県に着くと、その地の豪傑たちに説いた。「秦は乱れた政治と残虐な刑罰で天下を損ない続けて、数十年になる。
解説
関連する章句
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『長短経』懼戒秦の二世の末、陳渉蘄に起こり、兵陳に至る。張耳・陳餘、渉に説きて曰く「大王は梁・楚を興し、務めは関に入るに在りて、未だ河北を収むるに及ばず。臣嘗て趙に遊び、其の豪傑を知る。願わくは奇兵を請いて趙の地を略せん」と。是に於て陳王之を許し、卒三千を与う。白馬より河を渡り〔今の滑州白馬県の界なり〕、諸郡県に至り、其の豪傑に説きて曰く「秦は乱政虐刑を為し、天下を残滅す。北には長城の役を為し、南には五嶺の戍有り。外内騒動し、百姓罷敝す。頭会箕斂して、以て軍費に供し、財匱しく力尽く。重ぬるに苛法を以てし、天下の父子をして相聊生せざらしむ。今、陳王臂を奮いて天下の為に唱始し、響応せざるは莫し。家々自ら怒りを為し、各々其の怨みに報ゆ。県は其の令丞を殺し、郡は其の守尉を殺す。今已に大楚を張り、陳に王たり、呉広・周文をして卒百万を将いて西のかた秦を撃たしむ。此の時に於て封侯の業を成さざる者は、人傑に非ざるなり。夫れ天下の力に因りて無道の君を攻め、父兄の怨みに報いて割地の業を成す。此れ一時なり」と。豪傑皆其の言を然りとす。乃ち行きて兵を収め、趙の十余城を下す。
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史記 陳渉世家尉剣挺く、広起ちて、奪ひて尉を殺す。陳勝之を佐け、并せて両尉を殺す。徒属を召し令して曰く、「公等雨に遇ひ、皆已に期を失ふ、期を失へば当に斬らるべし。藉弟令ひ斬らるること毋きも、戍りて死する者は固より十に六七なり。且つ壮士は死せずんば即ち已む、死せば即ち大名を挙げんのみ、王侯将相寧んぞ種有らんや」と。徒属皆曰く、「敬んで命を受けん」と。乃ち詐りて公子扶蘇・項燕と称す、民の欲に従ふなり。右を袒ぎ、大楚と称す。壇を為りて盟ひ、祭るに尉の首を以てす。陳勝自ら立ちて将軍と為り、呉広は都尉と為る。大沢郷を攻め、収めて蘄を攻む。蘄下り、乃ち符離の人葛嬰をして兵を将ゐて蘄より以東を徇へしむ。銍・酇・苦・柘・譙を攻めて皆之を下す。行くゆく兵を収む。陳に至る比、車六七百乗、騎千余、卒数万人。陳を攻む、陳の守令皆在らず、独り守丞と譙門の中に戦ふ。勝たず、守丞死す、乃ち入りて陳に拠る。数日にして、号令して三老・豪傑を召し与に皆来たりて事を会計せしむ。三老・豪傑皆曰く、「将軍身は堅を被り鋭を執り、無道を伐ち、暴秦を誅し、復た楚国の社稷を立つ、功宜しく王と為るべし」と。陳渉乃ち立ちて王と為り、号して張楚と為す。此の時に当たり、諸郡県の秦吏に苦しむ者、皆其の長吏を刑し、之を殺して以て陳渉に応ず。乃ち呉叔を以て仮王と為し、諸将を監して以て西のかた滎陽を撃たしむ。陳の人武臣・張耳・陳余をして趙の地を徇へしめ、汝陰の人鄧宗をして九江郡を徇へしむ。此の時に当たり、楚兵数千人にして聚を為す者、勝げて数ふべからず。葛嬰東城に至り、襄彊を立てて楚王と為す。嬰後に陳王の已に立つを聞き、因りて襄彊を殺し、還りて報ず。陳に至る、陳王葛嬰を誅殺す。陳王、魏の人周市をして北のかた魏の地を徇へしむ。呉広滎陽を囲む。李由三川の守為り、滎陽を守る、呉叔下す能はず。陳王国の豪傑を徴して与に計り、上蔡の人房君蔡賜を以て上柱国と為す。
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史記 張耳陳余列伝人をして陳王に報ぜしむ。陳王大いに怒り、尽く武臣等の家を族し、而して兵を発して趙を撃たんと欲す。陳王の相国房君諫めて曰く、「秦未だ亡びずして武臣等の家を誅せば、此れ又一秦を生ずるなり。因りて之を賀し、急ぎ兵を引きて西のかた秦を撃たしむるに如かず」と。陳王之を然りとし、其の計に従ひ、武臣等の家を宮中に徙系し、張耳の子敖を封じて成都君と為す。陳王使者をして趙を賀せしめ、趣やかに兵を発して西のかた関に入らしむ。張耳・陳餘武臣に説きて曰く、「王の趙に王たるは、楚の意に非ず。特だ計を以て王を賀するのみ。楚已に秦を滅ぼさば、必ず兵を趙に加へん。願はくは王西に兵する毋く、北のかた燕・代を徇へ、南のかた河内を収めて以て自ら広くせよ。趙南に大河に拠り、北に燕・代有らば、楚秦に勝つと雖も、必ず敢て趙を制せず」と。趙王以て然りと為し、因りて西に兵せず、而して韓広をして燕を略し、李良をして常山を略し、張黶をして上党を略せしむ。韓広燕に至る。燕人因りて広を立てて燕王と為す。趙王乃ち張耳・陳餘と北のかた地を燕の界に略す。趙王間に出で、燕軍の得る所と為る。燕将之を囚へ、与に趙の地の半ばを分かたんと欲し、乃ち王を帰さんとす。使者往けば、燕輒ち之を殺して以て地を求む。張耳・陳餘之を患ふ。廝養の卒有りて其の舎中に謝して曰く、「吾公の為に燕に説き、趙王と載せて帰らん」と。舎中皆笑ひて曰く、「使者往くこと十余輩、輒ち死す。若何を以て能く王を得ん」と。乃ち燕の壁に走る。燕将之を見る。燕将に問ひて曰く、「臣が何をか欲するを知るか」と。燕将曰く、「若は趙王を得んと欲するのみ」と。曰く、「君は張耳・陳餘の何如なる人なるかを知るか」と。燕将曰く、「賢人なり」と。曰く、「其の志の何をか欲するかを知るか」と。曰く、「其の王を得んと欲するのみ」と。趙の養卒乃ち笑ひて曰く、「君は未だ此の両人の欲する所を知らざるなり。夫れ武臣・張耳・陳餘は馬箠を杖つきて趙の数十城を下す。此れ亦各々南面して王たらんと欲す。豈に卿相と為りて己を終へんと欲せんや。
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史記 陳渉世家周文は、陳の賢人なり、嘗て項燕の軍の視日と為り、春申君に事ふ、自ら兵を習ふと言ふ、陳王之に将軍の印を与へ、西のかた秦を撃たしむ。行くゆく兵を収めて関に至る、車千乗、卒数十万、戯に至り、焉に軍す。秦、少府章邯をして酈山の徒・人奴産子の生を免じ、悉く発して以て楚の大軍を撃たしめ、尽く之を敗る。周文敗れ、走りて関を出で、曹陽に止次すること二三月。章邯追ひて之を敗る、復た走りて澠池に次すること十余日。章邯撃ちて、大いに之を破る。周文自剄し、軍遂に戦はず。武臣邯鄲に到り、自ら立ちて趙王と為る、陳余は大将軍と為り、張耳・召騒は左右の丞相と為る。陳王怒り、武臣等の家室を捕系し、之を誅せんと欲す。柱国曰く、「秦未だ亡びざるに趙王将相の家属を誅するは、此れ一秦を生ずるなり。因りて之を立つるに如かず」と。陳王乃ち使者を遣はして趙を賀し、武臣等の家属を宮中に徙系し、耳の子張敖を封じて成都君と為し、趙の兵を趣して亟やかに関に入らしむ。趙王の将相相与に謀りて曰く、「王の趙に王たるは、楚の意に非ざるなり。楚已に秦を誅せば、必ず兵を趙に加へん。計は西に兵すること毋く、使をして北のかた燕の地を徇へしめて以て自ら広むるに如くは莫し。趙南は大河に拠り、北は燕・代有り、楚秦に勝つと雖も、敢へて趙を制せず。若し楚秦に勝たずんば、必ず趙を重んぜん。趙秦の獘に乗じ、以て志を天下に得べし」と。趙王以て然りと為し、因りて西に兵せず、而して故の上谷の卒史韓広をして兵を将ゐて北のかた燕の地を徇へしむ。燕の故の貴人豪傑韓広に謂ひて曰く、「楚已に王を立て、趙も又已に王を立つ。燕は小なりと雖も、亦た万乗の国なり、願はくは将軍立ちて燕王と為れ」と。韓広曰く、「広の母趙に在り、不可なり」と。燕人曰く、「趙は方に西に秦を憂ひ、南に楚を憂ふ、其の力我を禁ずる能はず。且つ楚の彊を以てするも、敢へて趙王将相の家を害せず、趙独り安んぞ敢へて将軍の家を害せんや」と。
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史記 張耳陳余列伝北に長城の役有り、南に五嶺の戍有り。外内騒動し、百姓罷敝す。頭会箕斂して、以て軍費に供す。財匱き力尽き、民生を聊んぜず。之に重ぬるに苛法峻刑を以てし、天下の父子をして相安んぜざらしむ。陳王臂を奮ひて天下の為に倡始し、楚の地に王たり、方二千里、響応せざる莫し。家々自ら怒りを為し、人々自ら闘ひを為し、各々其の怨みを報じて其の讎を攻め、県は其の令丞を殺し、郡は其の守尉を殺す。今已に大楚を張り、陳に王たり、呉広・周文をして卒百万を将ゐて西のかた秦を撃たしむ。此の時に於て封侯の業を成さざる者は、人豪に非ざるなり。諸君試みに相与に之を計れ。夫れ天下心を同じくして秦に苦しむこと久し。天下の力に因りて無道の君を攻め、父兄の怨みを報じて地を割き土を有つの業を成す。此れ士の一時なり」と。豪桀皆其の言を然りとす。乃ち行きて兵を収め、数万人を得、武臣を号して武信君と為す。趙の十城を下す。余は皆城守し、下るを肯ずる莫し。乃ち兵を引きて東北のかた范陽を撃つ。范陽の人蒯通、范陽の令に説きて曰く、「竊かに聞く、公の将に死せんとすと。故に弔す。然りと雖も、公の通を得て生くるを賀す」と。范陽の令曰く、「何を以て之を弔ふ」と。対へて曰く、「秦の法重し。足下范陽の令為ること十年なり。人の父を殺し、人の子を孤にし、人の足を断ち、人の首を黥すること、勝げて数ふべからず。然り而して慈父孝子敢て刃を公の腹中に倳す莫き者は、秦の法を畏るるのみ。今天下大いに乱れ、秦の法施されず。然らば則ち慈父孝子且に刃を公の腹中に倳して以て其の名を成さんとす。此れ臣の公を弔する所以なり。今諸侯秦に畔く。武信君の兵且に至らんとす。而るに君堅く范陽を守らば、少年皆争ひて君を殺し、武信君に下らん。君急ぎ臣を遣はして武信君に見えしめば、禍を転じて福と為すべし。今に在り」と。
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史記 陳渉世家陳勝は、陽城の人なり、字は渉。呉広は、陽夏の人なり、字は叔。陳渉少き時、嘗て人と傭耕す。耕すを輟めて壟上に之き、悵恨すること之を久しくして、曰く、「苟も富貴とならば、相忘るること無からん」と。傭者笑ひて応へて曰く、「若は庸耕を為す、何ぞ富貴ならんや」と。陳渉太息して曰く、「嗟乎、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」と。二世元年七月、閭左を発して漁陽に適戍せしむ、九百人大沢郷に屯す。陳勝・呉広皆次として当に行くべし、屯長と為る。会々天大いに雨ふり、道通ぜず、度るに已に期を失ふ。期を失へば、法として皆斬らる。陳勝・呉広乃ち謀りて曰く、「今亡ぐるも亦た死し、大計を挙ぐるも亦た死す、等しく死せば、国に死するは可ならんか」と。陳勝曰く、「天下秦に苦しむこと久し。吾聞く、二世は少子なり、当に立つべからず、当に立つべき者は乃ち公子扶蘇なりと。扶蘇は数々諫むるの故を以て、上外に兵を将ゐしむ。今或いは聞く、罪無きに、二世之を殺すと。百姓多く其の賢を聞くも、未だ其の死を知らざるなり。項燕は楚の将為り、数々功有り、士卒を愛す、楚人之を憐れむ。或いは以て死せりと為し、或いは以て亡げたりと為す。今誠に吾が衆を以て詐りて公子扶蘇・項燕と自称し、天下の唱へを為さば、宜しく応ずる者多かるべし」と。呉広以て然りと為す。乃ち行きて卜す。卜者其の指意を知り、曰く、「足下の事皆成り、功有らん。然れども足下之を鬼に卜せよ」と。陳勝・呉広喜び、鬼を念ひて、曰く、「此れ我に先づ衆を威せよと教ふるのみ」と。乃ち丹もて帛に書して「陳勝王たらん」と曰ひ、人の罾する所の魚の腹中に置く。卒魚を買ひて烹て食ひ、魚の腹中の書を得て、固より以て之を怪しむ。又、間に呉広をして次所の旁の叢祠の中に之かしめ、夜篝火し、狐鳴して呼びて曰く「大楚興り、陳勝王たらん」と。卒皆夜驚き恐る。旦日、卒中往往に語り、皆陳勝を指目す。呉広素より人を愛し、士卒多く用を為す者あり。将尉酔ふ、広故らに数々亡げんと欲すと言ひ、尉を忿恚せしめ、之を辱めしめ、以て其の衆を激怒せしむ。尉果たして広を笞うつ。
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