甲陽軍鑑 / 品第十三
然れ共長尾いげん入道工夫を以て井又左近太夫·本間江州兩人を北條家へたばかり奉公にさしこす、本間は其歲四十一、井又左近は卅九歳、此兩人は父上杉公の代にも北條氏繩と取合ひのさかひ、平井より撿使に行き、十八·十九の歲より度々の手抦をあらはしたる者どもにて、父山内殿旗本·足輕大將の中に若手の覺への者なり、去りながら本間·井又·四年已來則政公御意に家督背く子細は、則政公かとくに右より鹿狩りを制しめて法度にし給ひ、兩出頭のすがの大膳·上原兵庫奉行に仰せ付けられ候、然ば本間·井又兩出頭衆と知行所近し、又すがの·上原内の者共奉行の被官なればとて、たれとがむる人もなきにより、法度をやぶつて鹿狩りをする本間·井又·すがの殿·上原殿が內衆に賴み、一ツになりて狩りをするめつけ衆·すがの·上原事はかくして本間·井又がことばかり言上する、
新字:然れ共長尾いげん入道工夫を以て井又左近太夫·本間江州両人を北条家へたばかり奉公にさしこす、本間は其歳四十一、井又左近は卅九歳、此両人は父上杉公の代にも北条氏縄と取合ひのさかひ、平井より撿使に行き、十八·十九の歳より度々の手抦をあらはしたる者どもにて、父山内殿旗本·足軽大将の中に若手の覚への者なり、去りながら本間·井又·四年已来則政公御意に家督背く子細は、則政公かとくに右より鹿狩りを制しめて法度にし給ひ、両出頭のすがの大膳·上原兵庫奉行に仰せ付けられ候、然ば本間·井又両出頭衆と知行所近し、又すがの·上原内の者共奉行の被官なればとて、たれとがむる人もなきにより、法度をやぶつて鹿狩りをする本間·井又·すがの殿·上原殿が内衆に頼み、一ツになりて狩りをするめつけ衆·すがの·上原事はかくして本間·井又がことばかり言上する、
書き下し
然れ共長尾いげん入道工夫を以て井又左近太夫·本間江州両人を北条家へたばかり奉公にさしこす、本間は其歳四十一、井又左近は卅九歳、此両人は父上杉公の代にも北条氏縄と取合ひのさかひ、平井より撿使に行き、十八·十九の歳より度々の手抦をあらはしたる者どもにて、父山内殿旗本·足軽大将の中に若手の覚への者なり、去りながら本間·井又·四年已来則政公御意に家督背く子細は、則政公かとくに右より鹿狩りを制しめて法度にし給ひ、両出頭のすがの大膳·上原兵庫奉行に仰せ付けられ候、然ば本間·井又両出頭衆と知行所近し、又すがの·上原内の者共奉行の被官なればとて、たれとがむる人もなきにより、法度をやぶつて鹿狩りをする本間·井又·すがの殿·上原殿が内衆に頼み、一ツになりて狩りをするめつけ衆·すがの·上原事はかくして本間·井又がことばかり言上する、
現代語訳
けれども長尾いげん入道は工夫して、井又左近太夫・本間江州の両人を北条家へ謀って奉公に差し向けた。本間はその歳四十一、井又左近は三十九歳。この両人は父上杉公の代にも北条氏縄と取り合いの境に平井から検使に行き、十八・十九の歳から度々の手柄を表した者どもで、父山内殿の旗本・足軽大将の中で若手の覚えの者である。さりながら本間・井又が四年このかた則政公の御意に背いている子細は、則政公が家督のはじめから鹿狩りを禁じて法度にされ、両出頭のすがの大膳・上原兵庫を奉行に仰せ付けられた。ところが本間・井又は両出頭衆と知行所が近い。またすがの・上原の内の者どもは奉行の被官だからと、誰もとがめる人がいないので、法度を破って鹿狩りをする。本間・井又は、すがの殿・上原殿の内衆に頼まれて一つになって狩りをしたが、目付衆はすがの・上原のことは隠して、本間・井又のことばかり言上する。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第十三其時則政大きに立腹し給ひ、本間·井又生害におよぶ所に漸にげのび、在地の体なり、家老衆わびこと申さるれ共、只はならず、彼の両人奉行衆内の者共に理はりを致したると申せば、両出頭衆の前へ如何がにて年月さつて四年の間閑居也、其内に北条家と取り合ひの境目にて、度々心操あれと更らに取り次ぐ人なし、
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『甲陽軍鑑』品第十三又北条家へ武略に行く両人、其内井又左近太夫酉の三月毒害にて死する、則政公仰せには我下の大身ども、北条家へ心もよせぬ者どもを偽を申かけたる罰にて、頓死仕たりと仰出され候間、諸人悉く井又左近をにくまぬ者はさのみなし、扨上杉家の能き家老一両人寄合管領家是ほどには木に成たりさて、忍て井又左近太夫が跡を吊てなけども更にかひそなき、然ば北条家氏康廿三歳にては扇谷の城河越〓をのつとる、そこにて行あたり、右にいやしみたる事は両年の間に忘すれ、
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『甲陽軍鑑』品第十二残て五人斗り男を立てる人あれ共、其者をば各々悪しういひ頭も上げさせずしてをしかすむ、かすめらるまじきとて一と言いへば、前に口たけ驕りたるに違い挨拶はめてくちにて、かげへまはり狂気人に申し立て候へば、能き人物もいひ得ず、そこにては能き五人の内も三人は、分別を仕かへ、命を抛ち武辺をかせぐも所領を取り立身せんと云ふことなれば、時に至りて仕合せよき人の機にあはんなり、いかに元来町人にてち家の老案出頭衆彼の者共を能ゝ思ひ給へは、我心さへ違はすは付き合ひ取りなしをいはれ、徳にせんとて件の町人方へ能き人も出入する、
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『甲陽軍鑑』品第十三何様の者をも御扶持尤もの事一本間·井又七年御意にそむき罷り有り候者を、当年よりはや御懇に候へは、上杉家に人なきやうにて候間、十年とは存ずれども、せめて七八年も遠々しく被成尤の事、付扇谷と御無事にて御損多く候事と書き付て、すがの·上原両人にて直に則政公へ上る則政公披見有り、北条家をいやしむ儀、其外なにもかも機に入りて長尾いげん入道をはじめ四五人のこと、少しも則政〓着なし、
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『甲陽軍鑑』品第十二古語ニ曰、掬スレハ水ヲ月在手ニ弄スレバ花ヲ香満衣ニといふ心に、三略ニ曰、雖窮不処亡国之位、雖貧不食乱邦之禄といふ義理にて、立ち出つれども残りたる愚人は善悪をしらずして、出てたる跡にて其能き人を散々にあしう申者なり、されども作りこと成るにより愚人の能き人を誹ること五所にては五様と申す、口のちがうは必ず空言をいふてそねむと思召し候へ、
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史記 蒙恬列伝趙高は、諸趙の疏遠の属なり。趙高の昆弟数人、皆隠宮に生まれ、其の母刑僇せられ、世世卑賤なり。秦王、高の彊力にして獄法に通ずるを聞き、挙げて以て中車府令と為す。高既に私かに公子胡亥に事へ、之に決獄を喩す。高大罪有り。秦王蒙毅をして法もて之を治めしむ。毅敢て法を阿らず、高の罪死に当つとし、其の宦籍を除く。帝、高の事に敦きを以て、之を赦し、其の官爵を復す。始皇天下に游ばんと欲し、九原に道して、直ちに甘泉に抵らんとし、乃ち蒙恬をして道を通ぜしむ。九原より甘泉に抵るまで、山を塹り谷を堙むること、千八百里。道未だ就らず。始皇の三十七年冬、行きて出でて会稽に游び、海上に并ひて、北のかた瑯邪に走る。道にて病み、蒙毅をして還りて山川に禱らしむ。未だ反らず。始皇沙丘に至りて崩ず。之を秘し、群臣知る莫し。是の時丞相李斯・公子胡亥・中車府令趙高常に従ふ。高雅より胡亥に幸せられ、之を立てんと欲す。又蒙毅の法もて之を治めて己の為にせざるを怨む。因りて賊心有り、乃ち丞相李斯・公子胡亥と陰謀し、胡亥を立てて太子と為す。太子已に立ち、使者を遣はして罪を以て公子扶蘇・蒙恬に死を賜ふ。扶蘇已に死す。蒙恬疑ひて復た之を請ふ。使者蒙恬を以て吏に属し、更めて置く。胡亥、李斯の舎人を以て護軍と為す。使者還りて報ず。胡亥已に扶蘇の死を聞き、即ち蒙恬を釈さんと欲す。趙高、蒙氏の復た貴くして事を用ひんことを恐れ、之を怨む。毅還りて至る。趙高因りて胡亥の為に忠計すると為し、以て蒙氏を滅ぼさんと欲し、乃ち言ひて曰く、「臣聞く、先帝賢を挙げて太子を立てんと欲すること久し。而るに毅諫めて曰く『不可なり』と。若し賢を知りて俞ほ立てずんば、則ち是れ不忠にして主を惑はすなり。臣の愚意を以てすれば、之を誅するに若かず」と。胡亥聴きて蒙毅を代に系ぐ。前に已に蒙恬を陽周に囚ふ。喪咸陽に至り、已に葬り、太子立ちて二世皇帝と為る。而して趙高親近し、日夜蒙氏を毀悪し、其の罪過を求め、之を挙劾す。
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