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史記 / 李斯列伝

治離宮別館,周遍天下。明年,又巡狩,外攘四夷,斯皆有力焉。斯長男由為三川守,諸男皆尚秦公主,女悉嫁秦諸公子。三川守李由告歸咸陽,李斯置酒於家,百官長皆前為壽,門廷車騎以千數。李斯喟然而歎曰:「嗟乎!吾聞之荀卿曰『物禁大盛』。夫斯乃上蔡布衣,閭巷之黔首,上不知其駑下,遂擢至此。當今人臣之位無居臣上者,可謂富貴極矣。物極則衰,吾未知所稅駕也!」始皇三十七年十月,行出游會稽,並海上,北抵琅邪。丞相斯、中車府令趙高兼行符璽令事,皆從。始皇有二十餘子,長子扶蘇以數直諫上,上使監兵上郡,蒙恬為將。少子胡亥愛,請從,上許之。餘子莫從。其年七月,始皇帝至沙丘,病甚,令趙高為書賜公子扶蘇曰:「以兵屬蒙恬,與喪會咸陽而葬。」書已封,未授使者,始皇崩。書及璽皆在趙高所,獨子胡亥、丞相李斯、趙高及幸宦者五六人知始皇崩,餘羣臣皆莫知也。李斯以為上在外崩,無真太子,故祕之。置始皇居轀輬車中,百官奏事上食如故,宦者輒從轀輬車中可諸奏事。趙高因留所賜扶蘇璽書,而謂公子胡亥曰:「上崩,無詔封王諸子而獨賜長子書。長子至,即立為皇帝,而子無尺寸之地,為之奈何?」胡亥曰:「固也。

新字:治離宮別館,周遍天下。明年,又巡狩,外攘四夷,斯皆有力焉。斯長男由為三川守,諸男皆尚秦公主,女悉嫁秦諸公子。三川守李由告帰咸陽,李斯置酒於家,百官長皆前為寿,門廷車騎以千数。李斯喟然而嘆曰:「嗟乎!吾聞之荀卿曰『物禁大盛』。夫斯乃上蔡布衣,閭巷之黔首,上不知其駑下,遂擢至此。当今人臣之位無居臣上者,可謂富貴極矣。物極則衰,吾未知所税駕也!」始皇三十七年十月,行出游会稽,並海上,北抵琅邪。丞相斯、中車府令趙高兼行符璽令事,皆従。始皇有二十余子,長子扶蘇以数直諫上,上使監兵上郡,蒙恬為将。少子胡亥愛,請従,上許之。余子莫従。其年七月,始皇帝至沙丘,病甚,令趙高為書賜公子扶蘇曰:「以兵属蒙恬,与喪会咸陽而葬。」書已封,未授使者,始皇崩。書及璽皆在趙高所,独子胡亥、丞相李斯、趙高及幸宦者五六人知始皇崩,余羣臣皆莫知也。李斯以為上在外崩,無真太子,故秘之。置始皇居轀輬車中,百官奏事上食如故,宦者輒従轀輬車中可諸奏事。趙高因留所賜扶蘇璽書,而謂公子胡亥曰:「上崩,無詔封王諸子而独賜長子書。長子至,即立為皇帝,而子無尺寸之地,為之奈何?」胡亥曰:「固也。

書き下し

離宮別館を治め、天下に周遍す。明年、又巡狩し、外は四夷を攘ふ。斯皆力有り。斯の長男由は三川の守と為り、諸男は皆秦の公主を尚り、女は悉く秦の諸公子に嫁ぐ。三川の守李由告帰して咸陽に至る。李斯家に置酒す。百官の長皆前みて寿を為し、門廷の車騎千を以て数ふ。李斯喟然として歎じて曰く、「嗟乎、吾之を荀卿に聞く、曰く『物は大いに盛んなるを禁ず』と。夫れ斯は乃ち上蔡の布衣、閭巷の黔首なり。上其の駑下を知らず、遂に擢きて此に至る。当今人臣の位に臣の上に居る者無し。富貴極まれりと謂ふべし。物極まれば則ち衰ふ。吾未だ税駕する所を知らざるなり」と。始皇の三十七年十月、行きて出でて会稽に游び、海上に並ひて、北のかた琅邪に抵る。丞相斯・中車府令趙高の符璽令の事を兼ね行ふもの、皆従ふ。始皇に二十余子有り。長子扶蘇、数々直諫するを以て、上之をして兵を上郡に監せしめ、蒙恬将たり。少子胡亥愛せられ、従はんことを請ふ。上之を許す。余子従ふ莫し。其の年七月、始皇帝沙丘に至り、病甚だし。趙高をして書を為りて公子扶蘇に賜はしめて曰く、「兵を以て蒙恬に属し、喪と咸陽に会して葬れ」と。書已に封じ、未だ使者に授けずして、始皇崩ず。書及び璽皆趙高の所に在り。独り子胡亥・丞相李斯・趙高及び幸宦者五六人のみ始皇の崩ぜしを知り、余の群臣は皆知る莫きなり。李斯以為へらく、上外に在りて崩じ、真の太子無し、故に之を秘すと。始皇を轀輬車の中に置き、百官事を奏し食を上ること故の如し。宦者輒ち轀輬車の中より諸々の奏事を可とす。趙高因りて扶蘇に賜ふ所の璽書を留め、而して公子胡亥に謂ひて曰く、「上崩じ、諸子を王に封ずるの詔無くして独り長子に書を賜ふ。長子至らば、即ち立ちて皇帝と為り、而して子は尺寸の地無し。之を為すこと奈何」と。胡亥曰く、「固より也。

現代語訳

離宮や別館を造営して天下の至るところに置いた。翌年にはまた巡幸し、外では四方の異民族を撃ち払った。李斯はそのどれにも力を尽くした。李斯の長男の李由は三川郡の太守となり、息子たちはみな秦の皇女を妻に迎え、娘たちはすべて秦の公子たちに嫁いだ。三川太守の李由が休暇を得て咸陽に帰ってきたとき、李斯は家で酒宴を開いた。百官の長たちはみな進み出て長寿を祝い、門前や庭に集まった車騎は千を数えた。李斯は深くため息をついて嘆いた。「ああ、私は荀卿(荀子)から『物事はあまりに盛んになることを戒めよ』と教えられた。私はもともと上蔡の無位無官の者、村里の一庶民にすぎない。陛下は私の愚鈍さをご存じないまま、ついにここまで抜擢してくださった。いま人臣の位で私より上にいる者はいない。富貴を極めたと言ってよい。物事は極まれば衰える。私はどこで車を止めて馬を休めればよいのか、まだわからない」。始皇帝の三十七年十月、始皇帝は巡幸に出て会稽に行き、海沿いに進んで北の琅邪に至った。丞相の李斯と、中車府令で符璽令(割符と玉璽の管理役)を兼ねていた趙高が、ともに随行した。始皇帝には二十人余りの子がいた。長子の扶蘇はたびたび率直に諫めたので、始皇帝は彼に上郡で軍の監督をさせており、蒙恬が将軍であった。末子の胡亥は可愛がられていて、随行を願い出たので、始皇帝はこれを許した。ほかの子は誰も随行しなかった。その年の七月、始皇帝は沙丘に着いたところで病が重くなった。趙高に命じて公子扶蘇にあてた書を作らせ、「軍を蒙恬に委ね、咸陽で葬儀に合流して葬れ」と記した。書はすでに封をしたが、まだ使者に渡さないうちに、始皇帝は崩じた。書と玉璽はどちらも趙高の手元にあった。始皇帝の死を知っていたのは、子の胡亥、丞相李斯、趙高、それに寵愛された宦官五、六人だけで、ほかの群臣は誰も知らなかった。李斯は、皇帝が都の外で崩じ、正式な太子も立っていないので、死を伏せておくべきだと考えた。始皇帝の遺体を轀輬車(寝台車)の中に置き、百官が政務を奏上したり食事を差し上げたりするのは以前と同じようにさせ、宦官が轀輬車の中からそのつど奏上を裁可した。趙高はそこで扶蘇に与えるはずの玉璽を押した書を手元に留め、公子胡亥に言った。「陛下は崩じられたが、ほかの公子たちを王に封ずる詔はなく、長子にだけ書を与えられた。長子が到着すれば、すぐに即位して皇帝となり、あなたには一寸の土地もない。どうなさるおつもりか」。胡亥は言った。「それは当然のことだ。

解説

李斯の栄華の頂点と、秦の運命を変えた沙丘の変の始まりを描く段です。李斯の一族は皇室と縁を結び、息子の帰郷の祝宴には千の車騎が集まりました。その席で李斯は、師の荀子の「物は大いに盛んなるを禁ず」を思い出し、極まれば衰えると言いながら、どこで身を引けばよいかわからないと嘆きます。引き際を見失った者の不安がにじむ言葉です。紀元前210年、巡幸中の沙丘で始皇帝が病に倒れ、長子扶蘇に葬儀の采配を託す書を残して崩じました。書と玉璽は趙高の手にあり、死を知る者はわずか数人です。李斯は混乱を避けるため死を伏せましたが、その秘密の中で趙高が動き始めます。後継者を正式に定めていなかったことと、権限の要である書と玉璽が一人の手に集中していたことが、国家を揺るがす隙を生みました。承継の手続きの曖昧さは、いつの時代も最大の危機を招きます。

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