史記 / 呂不韋列伝
始皇九年,有告嫪毐實非宦者,常與太后私亂,生子二人,皆匿之。與太后謀曰「王即薨,以子為後」。於是秦王下吏治,具得情實,事連相國呂不韋。九月,夷嫪毐三族,殺太后所生兩子,而遂遷太后於雍。諸嫪毐舍人皆沒其家而遷之蜀。王欲誅相國,為其奉先王功大,及賓客辯士為游說者眾,王不忍致法。秦王十年十月,免相國呂不韋。及齊人茅焦說秦王,秦王乃迎太后於雍,歸復咸陽,而出文信侯就國河南。歲餘,諸侯賓客使者相望於道,請文信侯。秦王恐其為變,乃賜文信侯書曰:「君何功於秦?秦封君河南,食十萬戶。君何親於秦?號稱仲父。其與家屬徙處蜀!」呂不韋自度稍侵,恐誅,乃飲酖而死。
新字:始皇九年,有告嫪毐実非宦者,常与太后私乱,生子二人,皆匿之。与太后謀曰「王即薨,以子為後」。於是秦王下吏治,具得情実,事連相国呂不韋。九月,夷嫪毐三族,殺太后所生両子,而遂遷太后於雍。諸嫪毐舎人皆没其家而遷之蜀。王欲誅相国,為其奉先王功大,及賓客弁士為游説者衆,王不忍致法。秦王十年十月,免相国呂不韋。及斉人茅焦説秦王,秦王乃迎太后於雍,帰復咸陽,而出文信侯就国河南。歳余,諸侯賓客使者相望於道,請文信侯。秦王恐其為変,乃賜文信侯書曰:「君何功於秦?秦封君河南,食十万戸。君何親於秦?号称仲父。其与家属徙処蜀!」呂不韋自度稍侵,恐誅,乃飲酖而死。
書き下し
始皇の九年、嫪毐実は宦者に非ず、常に太后と私乱し、子二人を生み、皆之を匿すと告ぐる有り。太后と謀りて曰く「王即し薨ぜば、子を以て後と為さん」と。是に於て秦王吏に下して治めしめ、具に情実を得たり。事は相国呂不韋に連なる。九月、嫪毐の三族を夷し、太后の生む所の両子を殺し、而して遂に太后を雍に遷す。諸々の嫪毐の舎人は皆其の家を没して之を蜀に遷す。王相国を誅せんと欲するも、其の先王に奉ずるの功大なる為、及び賓客弁士の為に游説する者衆く、王法を致すに忍びず。秦王の十年十月、相国呂不韋を免ず。斉人茅焦の秦王に説くに及び、秦王乃ち太后を雍に迎へ、帰りて咸陽に復せしめ、而して文信侯を出だして国の河南に就かしむ。歳余、諸侯の賓客使者、道に相望み、文信侯を請ふ。秦王其の変を為さんことを恐れ、乃ち文信侯に書を賜ひて曰く、「君何の功か秦に有る。秦は君を河南に封じ、十万戸を食ましむ。君何の親か秦に有る。号して仲父と称す。其れ家属と与に徙りて蜀に処れ」と。呂不韋自ら稍く侵さるるを度り、誅せられんことを恐れ、乃ち酖を飲みて死す。
現代語訳
始皇帝の九年、ある者が告発した。嫪毐は実は宦官ではなく、常に太后と密通して子を二人もうけ、どちらも隠している。しかも太后と「王がもし亡くなったら、この子を跡継ぎにしよう」と謀っている、と。そこで秦王は役人に取り調べさせ、事の真相をすべてつかんだ。その件は相国の呂不韋にも及んだ。九月、嫪毐の三族を皆殺しにし、太后が生んだ二人の子を殺し、太后を雍に移した。嫪毐の家来たちはみな家財を没収されて蜀に移された。秦王は相国を誅殺しようとしたが、先王に仕えた功績が大きく、また賓客や弁舌の士で呂不韋のためにとりなす者が多かったので、法に照らして処罰するに忍びなかった。秦王の十年十月、相国の呂不韋を罷免した。斉の人茅焦が秦王を説得すると、秦王はようやく太后を雍から迎えて咸陽に戻し、文信侯(呂不韋)を都から出して、領地の河南へ行かせた。一年余りのあいだ、諸侯の賓客や使者が道に列をなして文信侯のもとを訪れ、招こうとした。秦王は呂不韋が反乱を起こすことを恐れ、文信侯に書を与えてこう言った。「そなたは秦にどんな功績があって、秦はそなたを河南に封じて十万戸を与えたのか。そなたは秦とどんな血縁があって、仲父と呼ばれているのか。家族とともに蜀へ移り住め」。呂不韋は、自分がしだいに追い詰められていると悟り、誅殺されることを恐れて、毒酒を飲んで死んだ。
解説
この章句が説くこと
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葉隠・聞書第一方々(ほうぼう)招請(しょうせい)に参られ心入(こころい)れになり、話など致され候由(そうろうよし)。この前(まえ)数年(すうねん)の内も、人の為になることばかりを楽(たの)しみ、極々(ごくごく)の奉公好(ほうこうず)きなり。それゆゑ一(ひと)かど御用(ごよう)には立たれ候。人は得意な方に老耄する者なれば、奉公老耄(ほうこうろうもう)、人の為になりても老耄はあぶなきなり。老人は他出せぬが重(おも)くして、しまりよきなり。
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