史記 / 呂不韋列伝
姬自匿有身,至大期時,生子政。子楚遂立姬為夫人。秦昭王五十年,使王齮圍邯鄲,急,趙欲殺子楚。子楚與呂不韋謀,行金六百斤予守者吏,得脫,亡赴秦軍,遂以得歸。趙欲殺子楚妻子,子楚夫人趙豪家女也,得匿,以故母子竟得活。秦昭王五十六年,薨,太子安國君立為王,華陽夫人為王后,子楚為太子。趙亦奉子楚夫人及子政歸秦。秦王立一年,薨,謚為孝文王。太子子楚代立,是為莊襄王。莊襄王所母華陽后為華陽太后,真母夏姬尊以為夏太后。莊襄王元年,以呂不韋為丞相,封為文信侯,食河南洛陽十萬戶。
新字:姫自匿有身,至大期時,生子政。子楚遂立姫為夫人。秦昭王五十年,使王齮囲邯鄲,急,趙欲殺子楚。子楚与呂不韋謀,行金六百斤予守者吏,得脱,亡赴秦軍,遂以得帰。趙欲殺子楚妻子,子楚夫人趙豪家女也,得匿,以故母子竟得活。秦昭王五十六年,薨,太子安国君立為王,華陽夫人為王后,子楚為太子。趙亦奉子楚夫人及子政帰秦。秦王立一年,薨,謚為孝文王。太子子楚代立,是為荘襄王。荘襄王所母華陽后為華陽太后,真母夏姫尊以為夏太后。荘襄王元年,以呂不韋為丞相,封為文信侯,食河南洛陽十万戸。
書き下し
姫自ら身有るを匿し、大期の時に至りて、子政を生む。子楚遂に姫を立てて夫人と為す。秦の昭王の五十年、王齮をして邯鄲を囲ましむ。急にして、趙子楚を殺さんと欲す。子楚、呂不韋と謀り、金六百斤を行りて守者の吏に予へ、脱るるを得て、亡げて秦軍に赴き、遂に以て帰るを得たり。趙、子楚の妻子を殺さんと欲す。子楚の夫人は趙の豪家の女なり。匿るるを得、故を以て母子竟に活くるを得たり。秦の昭王の五十六年、薨ず。太子安国君立ちて王と為り、華陽夫人を王后と為し、子楚を太子と為す。趙も亦子楚の夫人及び子政を奉じて秦に帰す。秦王立つこと一年にして薨ず。謚して孝文王と為す。太子子楚代りて立つ。是を荘襄王と為す。荘襄王の母とする所の華陽后を華陽太后と為し、真の母夏姫を尊びて以て夏太后と為す。荘襄王の元年、呂不韋を以て丞相と為し、封じて文信侯と為し、河南洛陽の十万戸を食ましむ。
現代語訳
その女は身ごもっていることを隠し、十二か月の出産の時期になって、男の子の政を生んだ。子楚はついにこの女を夫人に立てた。秦の昭王の五十年、秦は王齮に邯鄲を包囲させた。包囲が厳しくなり、趙は子楚を殺そうとした。子楚は呂不韋と相談し、金六百斤を見張りの役人に贈って脱出し、秦軍のもとへ逃げ込んで、ついに秦に帰ることができた。趙は子楚の妻子を殺そうとしたが、子楚の夫人は趙の有力な家の娘だったので、かくまわれることができ、そのため母子はついに生きのびた。秦の昭王は五十六年に亡くなり、太子の安国君が王となって、華陽夫人を王后とし、子楚を太子とした。趙もまた子楚の夫人と子の政を送り届けて秦に帰した。秦王(安国君)は即位してわずか一年で亡くなり、孝文王と諡された。太子の子楚が代わって即位した。これが荘襄王である。荘襄王は、母として仕えた華陽后を華陽太后とし、実の母の夏姫を尊んで夏太后とした。荘襄王の元年、呂不韋を丞相とし、文信侯に封じて、河南・洛陽の十万戸を領地として与えた。
解説
関連する章句
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史記 秦始皇本紀秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子なり。荘襄王秦の為に趙に質子たりしとき、呂不韋の姫を見、悦びて之を取り、始皇を生む。秦の昭王の四十八年正月を以て邯鄲に生まる。生まるるに及び、名づけて政と為し、姓は趙氏なり。年十三歳にして、荘襄王死し、政代はりて立ちて秦王と為る。是の時に当たり、秦の地已に巴・蜀・漢中を并せ、宛を越えて郢を有ち、南郡を置けり。北は上郡以東を収め、河東・太原・上党郡を有つ。東は滎陽に至り、二周を滅ぼし、三川郡を置く。呂不韋相と為り、十万戸に封ぜられ、号して文信侯と曰ふ。賓客游士を招致し、以て天下を并せんと欲す。李斯舎人と為る。蒙驁・王齮・麃公等将軍と為る。王年少く、初めて位に即き、国事を大臣に委ぬ。晋陽反く。将軍蒙驁撃ちて之を定む。二年、麃公卒を将ゐて卷を攻め、首を斬ること三万。三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。王齮死す。十月、将軍蒙驁魏氏の暢・有詭を攻む。歳大いに饑う。四年、暢・有詭を抜く。三月、軍罷む。秦の質子趙より帰り、趙の太子出でて国に帰る。十月庚寅、蝗蟲東方より来たり、天を蔽ふ。天下疫す。百姓粟千石を内るれば、爵一級を拝す。五年、将軍驁魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城を定め、皆之を抜き、二十城を取る。初めて東郡を置く。冬雷あり。六年、韓・魏・趙・衛・楚共に秦を撃ち、寿陵を取る。秦兵を出だし、五国の兵罷む。衛を抜き、東郡に迫る。其の君角其の支属を率ゐて徙りて野王に居り、其の山を阻みて以て魏の河内を保つ。七年、彗星先づ東方に出で、北方に見え、五月西方に見る。将軍驁死す。以て龍・孤・慶都を攻め、還りて兵もて汲を攻む。彗星復た西方に見ゆること十六日。夏太后死す。
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史記 呂不韋列伝呂不韋乃ち五百金を以て子楚に与へ、進用と為し、賓客を結ばしむ。而して復た五百金を以て奇物玩好を買ひ、自ら奉じて西のかた秦に游び、華陽夫人の姊に見えんことを求め、而して皆其の物を以て華陽夫人に献ず。因りて子楚の賢智にして、諸侯の賓客と結ぶこと天下に遍く、常に曰ふ「楚や夫人を以て天と為し、日夜泣きて太子及び夫人を思ふ」と言ふ。夫人大いに喜ぶ。不韋因りて其の姊をして夫人に説かしめて曰く、「吾之を聞く、色を以て人に事ふる者は、色衰へて愛弛むと。今、夫人は太子に事へ、甚だ愛せらるれども子無し。此の時を以て蚤く自ら諸子の中の賢孝なる者に結び、挙げ立てて以て適と為して之を子とせずんば、夫在らば則ち重く尊ばれ、夫百歳の後、子とする所の者王と為り、終に勢を失はず。此れ所謂一言にして万世の利なり。繁華の時を以て本を樹てずんば、即ち色衰へ愛弛むの後、一語を開かんと欲すと雖も、尚ほ得べけんや。今、子楚は賢にして、自ら中男にして、次として適と為るを得ず、其の母又幸せらるるを得ざるを知り、自ら夫人に附く。夫人誠に此の時を以て抜きて以て適と為さば、夫人は則ち世を竟ふるまで秦に寵有らん」と。華陽夫人以て然りと為し、太子の閒を承け、従容として子楚の趙に質たる者の絶だ賢にして、来往する者皆之を称誉すと言ふ。乃ち因りて涕泣して曰く、「妾幸ひに後宮に充つるを得たるも、不幸にして子無し。願はくは子楚を得て立てて以て適嗣と為し、以て妾が身を託さん」と。安国君之を許し、乃ち夫人と玉符を刻し、約して以て適嗣と為す。安国君及び夫人因りて厚く子楚に餽遺し、而して呂不韋に請ひて之に傅たらしむ。子楚此を以て名誉益々諸侯に盛んなり。呂不韋、邯鄲の諸姫の絶好にして善く舞ふ者を取りて与に居り、身有るを知る。子楚不韋に従ひて飲み、見て之を説び、因りて起ちて寿を為し、之を請ふ。呂不韋怒るも、念ふに業已に家を破りて子楚の為にし、以て奇を釣らんと欲す。乃ち遂に其の姫を献ず。
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戦国策・濮陽人呂不韋賈於邯鄲濮陽の人呂不韋、邯鄲に賈す。秦の質子異人を見て、歸りて父に謂ひて曰く、「田を耕すの利は幾倍ぞ。」曰く、「十倍。」「珠玉の贏は幾倍ぞ。」曰く、「百倍。」「國家の主を立つるの贏は幾倍ぞ。」曰く、「數ふる無し。」曰く、「今力田疾作するも、煖衣餘食を得ず。今國を建て君を立つれば、澤以て世に遺すべし。願はくは往きて之に事へん。」秦の子異人、趙に質たり、〈戶夘〉城に處る。故に往きて之に說きて曰く、「子傒に國を承くるの業有り、又母中に在り有り。今子中に母無く、外は不可知の國に託せらる。一日約に倍かば、身糞土と爲らん。今子吾が計事を聽きて歸るを求めば、以て秦國を有つべし。吾子の爲に秦に使ひして、必ず來りて子を請はん。」乃ち秦の王后の弟陽泉君に說きて曰く、「君の罪死に至る、君之を知るか。君の門下高尊の位に居らざる無く、太子の門下貴き者無し。君の府藏の珍珠寶玉、君の駿馬外廄に盈ち、美女後庭に充つ。王の春秋高く、一日山陵崩ぜば、太子事を用ゐ、君累卵より危ふく、朝生よりも壽ならず。說くこと一切を以て君をして富貴千萬歲ならしむべき有り、其れ太山四維よりも寧んじ、必ず危亡の患無からん。」陽泉君席を避けて、其の說を聞かんことを請ふ。不韋曰く、「王年高し。王后子無し。子傒に國を承くるの業有り、士倉又之を輔く。王一日山陵崩ぜば、子傒立ちて士倉事を用ゐ、王后の門必ず蓬蒿を生ぜん。子異人賢材なるに、棄てられて趙に在り、中に母無く、引領して西望し、一たび歸るを得んことを願ふ。王后誠に請ひて之を立てば、是れ子異人國無くして國有り、王后子無くして子有るなり。」陽泉君曰く、「然り。」入りて王后に說く。王后乃ち趙に請ひて之を歸せしむ。趙未だ之を遣らず。不韋趙に說きて曰く、「子異人は秦の寵子なり、中に母無く、王后取りて之を子とせんと欲す。秦をして趙を屠らんと欲せしめば、一子を顧みずして計を留めん、是れ空質を抱くなり。若し子異人をして歸りて立つを得しめば、趙厚く之を送遣し、是れ敢へて德に倍き施を畔かず、是れ自ら德の講と爲すなり。秦王老いたり、一日晏駕せば、子異人有りと雖も、以て秦を結ぶに足らず。」趙乃ち之を遣る。異人至る。不韋楚服を使ひて見えしむ。王后其の狀を悅び、其の知を高しとし、曰く、「吾は楚人なり。」而して自ら之を子とし、乃ち其の名を變じて楚と曰ふ。王子をして誦せしむ。子曰く、「少くして棄捐せられて外に在り、嘗て師傅の教學する所無く、誦に習はず。」王之を罷む、乃ち留止す。間に曰く、「陛下嘗て趙に軔車せり。趙の豪桀、名を知られたる者少なからず。今大王反國して、皆西面して望む。大王一介の使も以て之を存する無くば、臣恐らくは其れ皆怨心有らん。邊境をして早く閉ぢ晚く開かしめん。」王以て然りとし、其の計を奇とす。王后立つるを勸む。王乃ち相を召し、之に令して曰く、「寡人の子は楚に若く莫し。」立てて以て太子と爲す。子楚立ち、不韋を以て相と爲し、號して文信侯と曰ひ、藍田十二縣を食む。王后華陽太后と爲り、諸侯皆な秦に邑を致す。
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史記 呂不韋列伝始皇帝益々壮なり。太后の淫止まず。呂不韋、覚られて禍の己に及ばんことを恐れ、乃ち私かに大陰人嫪毐を求めて以て舎人と為す。時に倡楽を縦にし、毐をして其の陰を以て桐輪を闕けて行かしめ、太后をして之を聞かしめ、以て太后を啗はしむ。太后聞き、果して私かに之を得んと欲す。呂不韋乃ち嫪毐を進め、詐りて人をして腐罪を以て之を告げしむ。不韋又陰かに太后に謂ひて曰く、「詐りて腐を事とせしむべし。則ち給事中を得ん」と。太后乃ち陰かに厚く主腐者の吏に賜ひ、詐りて之を論じ、其の須眉を抜きて宦者と為し、遂に太后に侍するを得たり。太后私かに与に通じ、絶だ之を愛す。身有り。太后人の之を知らんことを恐れ、詐りて卜ふに時を避くべしとし、宮を徙して雍に居る。嫪毐常に従ひ、賞賜甚だ厚く、事皆嫪毐に決す。嫪毐の家僮数千人、諸客の宦を求めて嫪毐の舎人と為る者千余人。始皇の七年、荘襄王の母夏太后薨ず。孝文王の后を華陽太后と曰ひ、孝文王と寿陵に会葬す。夏太后の子荘襄王は芷陽に葬らる。故に夏太后独り別に杜の東に葬られ、曰く「東のかた吾が子を望み、西のかた吾が夫を望む。後百年、旁らに当に万家の邑有るべし」と。
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史記 呂不韋列伝呂不韋は、陽翟の大賈人なり。往来して賤きを販ひ貴きを売り、家千金を累ぬ。秦の昭王の四十年、太子死す。其の四十二年、其の次子安国君を以て太子と為す。安国君に子二十余人有り。安国君に甚だ愛する所の姫有り、立てて以て正夫人と為し、号して華陽夫人と曰ふ。華陽夫人子無し。安国君の中男を子楚と名づく。子楚の母を夏姫と曰ひ、愛せらるる毋し。子楚は秦の質子と為りて趙に於てす。秦数々趙を攻む。趙甚だしくは子楚を礼せず。子楚は秦の諸庶孽の孫にして、諸侯に質となり、車乗進用饒かならず、居処困しみ、意を得ず。呂不韋邯鄲に賈し、見て之を憐みて曰く、「此れ奇貨居くべし」と。乃ち往きて子楚に見え、説きて曰く、「吾能く子の門を大にせん」と。子楚笑ひて曰く、「且く自ら君の門を大にして、而る後に乃ち吾が門を大にせよ」と。呂不韋曰く、「子は知らざるなり。吾が門は子の門を待ちて大なり」と。子楚心に謂ふ所を知り、乃ち引きて与に坐し、
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史記 呂不韋列伝深く語る。呂不韋曰く、「秦王老いたり。安国君太子と為るを得たり。竊かに聞く、安国君は華陽夫人を愛幸す。華陽夫人子無し。能く適嗣を立つる者は独り華陽夫人のみと。今、子の兄弟二十余人、子又中に居り、甚だしくは幸せられず、久しく諸侯に質たり。即し大王薨じ、安国君立ちて王と為らば、則ち子は長子及び諸子の旦暮前に在る者と太子を争ふを得る幾毋し」と。子楚曰く、「然り。之を為すこと柰何」と。呂不韋曰く、「子は貧しく、此に客たり。以て親に奉献し及び賓客を結ぶ有るに非ざるなり。不韋貧しと雖も、請ふ千金を以て子の為に西游し、安国君及び華陽夫人に事へ、子を立てて適嗣と為さん」と。子楚乃ち頓首して曰く、「必ず君の策の如くならば、請ふ秦国を分かちて君と之を共にせん」と。
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