史記 / 屈原賈生列伝
述迫之徒兮,或趨西東;大人不曲兮,億變齊同。拘士系俗兮,攌如囚拘;至人遺物兮,獨與道俱。眾人或或兮,好惡積意;真人淡漠兮,獨與道息。釋知遺形兮,超然自喪;寥廓忽荒兮,與道翺翔。乘流則逝兮,得坻則止;縱軀委命兮,不私與己。其生若浮兮,其死若休;澹乎若深淵之靜,氾乎若不系之舟。不以生故自寶兮,養空而浮;德人無累兮,知命不憂。細故遰葪兮,何足以疑!後歲餘,賈生徵見。孝文帝方受釐,坐宣室。上因感鬼神事,而問鬼神之本。賈生因具道所以然之狀。至夜半,文帝前席。既罷,曰:「吾久不見賈生,自以為過之,今不及也。」居頃之,拜賈生為梁懷王太傅。梁懷王,文帝之少子,愛,而好書,故令賈生傅之。文帝復封淮南厲王子四人皆為列侯。賈生諫,以為患之興自此起矣。賈生數上疏,言諸侯或連數郡,非古之制,可稍削之。文帝不聽。居數年,懷王騎,墮馬而死,無後。賈生自傷為傅無狀,哭泣歲餘,亦死。賈生之死時年三十三矣。及孝文崩,孝武皇帝立,舉賈生之孫二人至郡守,而賈嘉最好學,世其家,與余通書。至孝昭時,列為九卿。
新字:述迫之徒兮,或趨西東;大人不曲兮,億変斉同。拘士系俗兮,攌如囚拘;至人遺物兮,独与道倶。衆人或或兮,好悪積意;真人淡漠兮,独与道息。釈知遺形兮,超然自喪;寥廓忽荒兮,与道翺翔。乗流則逝兮,得坻則止;縦躯委命兮,不私与己。其生若浮兮,其死若休;澹乎若深淵之静,氾乎若不系之舟。不以生故自宝兮,養空而浮;徳人無累兮,知命不憂。細故遰葪兮,何足以疑!後歳余,賈生徴見。孝文帝方受釐,坐宣室。上因感鬼神事,而問鬼神之本。賈生因具道所以然之状。至夜半,文帝前席。既罷,曰:「吾久不見賈生,自以為過之,今不及也。」居頃之,拝賈生為梁懐王太傅。梁懐王,文帝之少子,愛,而好書,故令賈生傅之。文帝復封淮南厲王子四人皆為列侯。賈生諫,以為患之興自此起矣。賈生数上疏,言諸侯或連数郡,非古之制,可稍削之。文帝不聴。居数年,懐王騎,堕馬而死,無後。賈生自傷為傅無状,哭泣歳余,亦死。賈生之死時年三十三矣。及孝文崩,孝武皇帝立,舉賈生之孫二人至郡守,而賈嘉最好学,世其家,与余通書。至孝昭時,列為九卿。
書き下し
述迫の徒は、或いは西東に趨る。大人は曲がらず、億変も斉同なり。拘士は俗に系がれ、攌として囚拘の如し。至人は物を遺れ、独り道と倶にす。衆人は或或として、好悪意に積む。真人は淡漠として、独り道と息ふ。知を釈き形を遺れ、超然として自ら喪ふ。寥廓忽荒として、道と翺翔す。流れに乗れば則ち逝き、坻を得れば則ち止まる。軀を縦にし命に委ね、己に私せず。其の生くるや浮かぶが若く、其の死するや休むが若し。澹乎として深淵の静かなるが若く、氾乎として系がざるの舟の若し。生の故を以て自ら宝とせず、空を養ひて浮かぶ。徳人は累無く、命を知りて憂へず。細故遰葪、何ぞ以て疑ふに足らん、と。後歳余、賈生徴せられて見ゆ。孝文帝方に釐を受け、宣室に坐す。上因りて鬼神の事に感じ、而して鬼神の本を問ふ。賈生因りて具さに然る所以の状を道ふ。夜半に至り、文帝席を前む。既に罷めて曰く、「吾久しく賈生を見ず、自ら以為へらく之に過ぎたりと。今及ばざるなり」と。居ること頃之、賈生を拝して梁の懐王の太傅と為す。梁の懐王は、文帝の少子にして、愛せられ、而して書を好む。故に賈生をして之に傅たらしむ。文帝復た淮南厲王の子四人を封じて皆列侯と為す。賈生諫め、以為へらく患ひの興るは此より起こらんと。賈生数々疏を上り、諸侯或いは数郡を連ぬるは、古の制に非ず、稍く之を削るべしと言ふ。文帝聴かず。居ること数年、懐王騎して、馬より墮ちて死し、後無し。賈生自ら傅と為りて状無きを傷み、哭泣すること歳余、亦死す。賈生の死する時、年三十三なり。孝文崩じ、孝武皇帝立つに及び、賈生の孫二人を挙げて郡守に至らしむ。而して賈嘉最も学を好み、其の家を世ぎ、余と書を通ず。孝昭の時に至り、列して九卿と為る。
現代語訳
目先のことに追い立てられる者は、東へ西へと走り回る。大人物は心を曲げず、どれほど変化があっても同じように受け止める。俗にとらわれた者は世間に縛られ、囚人のように身動きがとれない。至人(道を極めた人)は物を忘れ、ただ道とともにある。人々は迷いに迷い、好き嫌いを胸に積み重ねる。真人は淡々として、ただ道とともに安らぐ。知恵を捨て身体を忘れ、超然として自分さえ失う。広々として果てしなく、道とともに空を舞う。流れに乗れば進み、中洲にぶつかれば止まる。身を任せ天命に委ね、自分のものだと思わない。生きることは水に浮かぶようなもの、死ぬことは休むようなもの。静かなことは深い淵のようで、漂うことはつながれていない舟のようだ。生きているからといって自分を宝のように惜しまず、心を空にして漂う。徳のある人はわずらいがなく、天命を知って憂えない。つまらぬこと、とるに足らぬことに、どうして思い悩む必要があろう」。それから一年余りして、賈生は召し出されて文帝に拝謁した。孝文帝はちょうど祭りの福を受ける儀式を終えて、宣室にいた。帝は祭祀のことから鬼神に思いが及び、鬼神の本質について問うた。賈生はそのわけを詳しく説明した。話は夜半に及び、文帝は思わず座席を前へ進めて聞き入った。話が終わると文帝は言った。「長いあいだ賈生に会わず、自分のほうが勝っていると思っていたが、今になってやはり及ばないとわかった」。しばらくして、賈生を梁の懐王の太傅に任じた。梁の懐王は文帝の末子で、帝に愛され、しかも書物を好んだので、賈生に守り役をさせたのである。文帝はまた淮南の厲王の子四人をみな列侯に封じた。賈生は諫め、災いが起こるのはここから始まるだろうと言った。賈生はたびたび上書して、諸侯のなかには数郡を連ねて領有する者がいるが、これは古の制度ではなく、少しずつ削るべきだと述べたが、文帝は聞き入れなかった。数年たって、懐王が馬に乗っていて落馬して死に、跡継ぎがなかった。賈生は守り役としての務めを果たせなかったと自らを責め、一年余り泣き続けて、自分も死んだ。賈生が死んだとき、年は三十三歳であった。孝文帝が崩じて孝武帝が即位すると、賈生の孫二人を取り立てて郡守にまで昇らせた。なかでも賈嘉は最も学問を好んで家学を継ぎ、私(司馬遷)と手紙をやりとりしていた。孝昭帝の時代になって、九卿の列に加わった。
解説
関連する章句
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史記 屈原賈生列伝賈生既に辞して往き行く。長沙の卑湿なるを聞き、自ら以へらく寿長きを得ずと。又適せられて去るを以て、意自ら得ず。湘水を渡るに及び、賦を為りて以て屈原を弔ふ。其の辞に曰く、嘉恵を共承して、罪を長沙に俟つ。側かに聞く屈原、自ら汨羅に沈むと。造りて湘流に託し、敬しんで先生を弔ふ。世の罔極なるに遭ひ、乃ち厥の身を隕す。嗚呼哀しいかな、時の不祥に逢ふ。鸞鳳は伏竄し、鴟梟は翺翔す。闒茸は尊顕にして、讒諛は志を得。賢聖は逆曳せられ、方正は倒植せらる。世は伯夷を貪と謂ひ、盗跖を廉と謂ふ。莫邪を頓と為し、鉛刀を銛と為す。于嗟嚜嚜として、生の故無し。周鼎を斡棄して康瓠を宝とし、罷牛に騰駕して蹇驢を驂とし、驥は両耳を垂れて塩車に服す。章甫を屨に薦く、漸く久しかるべからず。嗟苦しいかな先生、独り此の咎に離ふ。訊に曰く、已んぬるかな、国其れ我を知る莫く、独り堙郁として其れ誰にか語らん。鳳は漂漂として其れ高く遰り、夫れ固より自ら縮みて遠く去る。九淵の神竜を襲ひ、沕として深く潜みて以て自ら珍とす。融爚を彌めて以て隠処す、夫れ豈に螘と蛭螾とに従はんや。貴ぶ所は聖人の神徳、濁世より遠ざかりて自ら蔵る。騏驥をして系羈するを得べからしめば、豈に犬羊に異なると云はんや。般紛紛として其れ此の尤に離ふは、亦夫子の辜なり。九州を瞝て其の君を相く、何ぞ必ずしも此の都を懐はんや。鳳皇は千仞の上に翔り、徳惪を覧て之に下る。細徳の険徴を見れば、増翮を揺かして逝きて之を去る。彼の尋常の汙瀆、豈に能く呑舟の魚を容れんや。江湖に横たはる鱣鱏も、固より将に蟻螻に制せられんとす、と。賈生長沙王の太傅と為ること三年、鴞有りて飛びて賈生の舎に入り、坐隅に止まる。楚人鴞を命けて服と曰ふ。
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史記 屈原賈生列伝賈生、名は誼、雒陽の人なり。年十八、能く詩を誦し書を属するを以て郡中に聞こゆ。呉廷尉、河南の守と為り、其の秀才なるを聞き、召して門下に置き、甚だ幸愛す。孝文皇帝初めて立ち、河南の守呉公の治平天下第一にして、故李斯と邑を同じくして常に学び事へたるを聞き、乃ち徴して廷尉と為す。廷尉乃ち言ふ、賈生年少なるも、頗る諸子百家の書に通ずと。文帝召して以て博士と為す。是の時賈生年二十余、最も少しと為す。詔令の議下る毎に、諸老先生言ふ能はず、賈生尽く之が対を為し、人人各々其の意の出ださんと欲する所の如し。諸生是に於て乃ち以て能くすと為し、及ばざるなり。孝文帝之を説び、超遷して、一歳中に太中大夫に至る。賈生以為へらく、漢興りて孝文に至るまで二十余年、天下和洽す、而して固より当に正朔を改め、服色を易へ、制度を法り、官名を定め、礼楽を興すべしと。乃ち悉く其の事の儀法を草具し、色は黄を尚び、数は五を用ひ、官名を為り、悉く秦の法を更む。孝文帝初めて位に即き、謙譲して未だ遑あらざるなり。諸律令の更定する所、及び列侯悉く国に就くは、其の説皆賈生より之を発す。是に於て天子議して以為へらく、賈生公卿の位に任ずべしと。絳・灌・東陽侯・馮敬の属尽く之を害し、乃ち賈生を短りて曰く、「雒陽の人、年少初学にして、専ら権を擅にせんと欲し、諸事を紛乱す」と。是に於て天子も後亦之を疏んじ、其の議を用ひず、乃ち賈生を以て長沙王の太傅と為す。
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史記 屈原賈生列伝賈生既に適せらるるを以て長沙に居る。長沙は卑湿にして、自ら以為へらく寿長きを得ずと。之を傷悼し、乃ち賦を為りて以て自ら広くす。其の辞に曰く、単閼の歳、四月孟夏、庚子日施く、服予が舎に集まり、坐隅に止まる、貌甚だ閒暇なり。異物来たり集まる、私かに其の故を怪しむ。書を発きて之を占ふ、筴其の度を言ふ。曰く、「野鳥入りて処る、主人将に去らんとす」と。請ひて服に問ふ、「予去りて何くにか之かん。吉ならば我に告げよ、凶ならば其の菑を言へ。淹数の度、予に其の期を語れ」と。服乃ち嘆息し、首を挙げ翼を奮ふ。口言ふ能はず、請ふ対ふるに意を以てせん。万物は変化し、固より休息無し。斡流して遷り、或いは推して還る。形気転続し、変化して嬗る。沕穆として窮まり無し、胡ぞ言ふに勝ふべけんや。禍は福の倚る所、福は禍の伏す所。憂喜は門に聚まり、吉凶は域を同じくす。彼の呉は彊大なるも、夫差以て敗る。越は会稽に棲むも、句践世に霸たり。斯は游びて遂に成るも、卒に五刑を被る。傅説は胥靡なるも、乃ち武丁に相たり。夫れ禍の福と、何ぞ糾纆に異ならん。命は説くべからず、孰か其の極を知らん。水激すれば則ち旱く、矢激すれば則ち遠し。万物回薄し、振蕩して相転ず。雲蒸し雨降り、錯繆して相紛る。大専物を槃め、坱軋として垠無し。天は与に慮るべからず、道は与に謀るべからず。遅数命有り、悪くんぞ其の時を識らん。且つ夫れ天地を鑪と為し、造化を工と為す。陰陽を炭と為し、万物を銅と為す。合散消息、安くんぞ常則有らん。千変万化、未だ始めより極り有らず。忽然として人と為る、何ぞ控摶するに足らん。化して異物と為る、又何ぞ患ふるに足らん。小知は自ら私し、彼を賤しみ我を貴ぶ。通人は大観し、物として可ならざる無し。貪夫は財に徇ひ、烈士は名に徇ふ。夸者は権に死し、品庶は生に馮る。
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史記 屈原賈生列伝太史公曰く、「余、離騒・天問・招魂・哀郢を読み、其の志を悲しむ。長沙に適き、屈原の自沈する所の淵を観て、未だ嘗て涕を垂れずんばあらず、其の為人を想見す。賈生の之を弔ふを見るに及びて、又屈原の彼の其の材を以て、諸侯に游ばば、何の国か容れざらん、而も自ら是くの若くならしむるを怪しむ。服烏の賦を読み、死生を同じくし去就を軽んずるに、又爽然として自失す」と。
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史記 屈原賈生列伝是に於て石を懐きて遂に自ら汨羅に沈みて以て死す。屈原既に死するの後、楚に宋玉・唐勒・景差の徒なる者有り。皆辞を好みて賦を以て称せらる。然れども皆屈原の従容たる辞令を祖とし、終に敢て直諫する莫し。其の後楚は日に以て削られ、数十年にして竟に秦の滅ぼす所と為る。屈原の汨羅に沈みし後より百有余年、漢に賈生有り。長沙王の太傅と為り、湘水を過ぎ、書を投じて以て屈原を弔ふ。
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史記 屈原賈生列伝長子頃襄王立ち、其の弟子蘭を以て令尹と為す。楚人既に子蘭の懐王に秦に入るを勧めて反らざるを咎む。屈平既に之を嫉み、放流せらると雖も、楚国を睠顧し、心を懐王に系け、反らんと欲するを忘れず。君の一たび悟り、俗の一たび改まらんことを冀幸す。其の君を存し国を興して之を反覆せんと欲すること、一篇の中に三たび志を致す。然れども終に奈何ともすべき無し。故に以て反るべからず。卒に此を以て懐王の終に悟らざるを見るなり。人君は愚智賢不肖と無く、忠を求めて以て自ら為し、賢を挙げて以て自ら佐けんと欲せざる莫し。然れども亡国破家相隨属し、而して聖君の国を治むること累世にして見えざる者は、其の所謂忠なる者は忠ならず、而して所謂賢なる者は賢ならざればなり。懐王は忠臣の分を知らざるを以て、故に内は鄭袖に惑ひ、外は張儀に欺かれ、屈平を疏んじて上官大夫・令尹子蘭を信ず。兵挫け地削られ、其の六郡を亡ひ、身は秦に客死し、天下の笑と為る。此れ人を知らざるの禍なり。易に曰く、「井渫へども食はれず、我が心の惻みを為す。以て汲むべし。王明らかなれば、并びに其の福を受けん」と。王の明らかならざる、豈に福に足らんや。令尹子蘭之を聞きて大いに怒り、卒に上官大夫をして屈原を頃襄王に短らしむ。頃襄王怒りて之を遷す。
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