史記 / 廉頗藺相如列伝
趙悼襄王元年,廉頗既亡入魏,趙使李牧攻燕,拔武遂、方城。居二年,龐暖破燕軍,殺劇辛。後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧爲大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧爲武安君。居三年,秦攻番吾,李牧撃破秦軍,南距韓、魏。趙王遷七年,秦使王翦攻趙,趙使李牧、司馬尚禦之。秦多與趙王寵臣郭開金,爲反間,言李牧、司馬尚欲反。趙王乃使趙蔥及齊將顏聚代李牧。李牧不受命,趙使人微捕得李牧,斬之。廢司馬尚。後三月,王翦因急撃趙,大破殺趙蔥,虜趙王遷及其將顏聚,遂滅趙。
新字:趙悼襄王元年,廉頗既亡入魏,趙使李牧攻燕,抜武遂、方城。居二年,龐暖破燕軍,殺劇辛。後七年,秦破殺趙将扈輒於武遂,斬首十万。趙乃以李牧為大将軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦将桓齮。封李牧為武安君。居三年,秦攻番吾,李牧撃破秦軍,南距韓、魏。趙王遷七年,秦使王翦攻趙,趙使李牧、司馬尚禦之。秦多与趙王寵臣郭開金,為反間,言李牧、司馬尚欲反。趙王乃使趙蔥及斉将顔聚代李牧。李牧不受命,趙使人微捕得李牧,斬之。廃司馬尚。後三月,王翦因急撃趙,大破殺趙蔥,虜趙王遷及其将顔聚,遂滅趙。
書き下し
趙の悼襄王の元年、廉頗既に亡げて魏に入り、趙、李牧をして燕を攻めしめ、武遂・方城を抜く。居ること二年、龐暖燕の軍を破り、劇辛を殺す。後七年、秦、趙の将扈輒を武遂に破り殺し、斬首十万。趙乃ち李牧を以て大将軍と為し、秦の軍を宜安に撃ち、大いに秦の軍を破り、秦の将桓齮を走らす。李牧を封じて武安君と為す。居ること三年、秦番吾を攻む、李牧秦の軍を撃破し、南のかた韓・魏を距ぐ。趙王遷の七年、秦、王翦をして趙を攻めしむ、趙、李牧・司馬尚をしてこれを禦がしむ。秦多く趙王の寵臣郭開に金を与へ、反間を為し、李牧・司馬尚反せんと欲すと言はしむ。趙王乃ち趙蔥及び斉の将顔聚をして李牧に代へしむ。李牧命を受けず、趙人をして微かに李牧を捕へ得しめ、これを斬る。司馬尚を廃す。後三月、王翦因りて急に趙を撃ち、大いに趙蔥を破り殺し、趙王遷及びその将顔聚を虜にし、遂に趙を滅ぼす。
現代語訳
趙の悼襄王の元年、廉頗はすでに魏に亡命していたので、趙は李牧に燕を攻めさせ、武遂と方城を落とした。二年後、龐暖が燕の軍を破り、燕の将劇辛を殺した。その七年後、秦は趙の将扈輒を武遂で破って殺し、十万の首を斬った。趙はそこで李牧を大将軍とし、宜安で秦軍を攻撃して大いに破り、秦の将桓齮を敗走させた。趙は李牧を武安君に封じた。三年後、秦が番吾を攻めると、李牧は秦軍を撃破し、南では韓・魏の侵攻を防いだ。趙王遷の七年、秦は王翦に趙を攻めさせ、趙は李牧と司馬尚にこれを防がせた。秦は趙王の寵臣郭開に多額の金を贈って離間工作をさせ、李牧と司馬尚が謀反を企てていると言いふらさせた。趙王はそこで趙葱と斉出身の将顔聚を李牧に代わらせようとした。李牧は命令を受け入れなかったので、趙は人をやってひそかに李牧を捕らえ、斬った。司馬尚は罷免された。三か月後、王翦はこれに乗じて趙を急襲し、趙葱を大いに破って殺し、趙王遷とその将顔聚を捕虜にして、ついに趙を滅ぼした。
解説
関連する章句
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戦国策・秦使王翦攻趙秦、王翦をして趙を攻めしむ、趙、李牧・司馬尚をして之を禦がしむ。李牧数(しばしば)秦軍を破り走らせ、秦の将桓齮を殺す。王翦之を悪(にく)み、乃ち多く趙王の寵臣郭開等に金を与え、反間を為さしめて曰わく、「李牧・司馬尚秦と与に趙に反き、以て多く封を秦に取らんと欲す。」趙王之を疑い、趙䓗及び顔冣をして代わりて将たらしめ、李牧を斬り、司馬尚を廃す。後三月、王翦因りて急に撃ち、大いに趙を破り、趙軍を殺し、趙王遷及び其の将顔聚を虜にし、遂に趙を滅ぼす。
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史記 趙世家泄鈞之が為に文信侯に謂ひて曰く、「春平君は、趙王甚だ之を愛して之を郎中とす。故に相与に謀りて曰く『春平君秦に入らば、秦必ず之を留めん』と。故に相与に謀りて之を秦に内るるなり。今君之を留むるは、是れ趙を絶ちて郎中の計中るなり。君春平君を遣りて平都を留むるに如かず。春平君は言行王に信ぜらる。王必ず厚く趙を割きて平都を贖はん」と。文信侯曰く、「善し」と。因りて之を遣る。韓皋に城く。三年、龐煖将として、燕を攻め、其の将劇辛を禽にす。四年、龐煖、趙・楚・魏・燕の鋭師に将として、秦の蕞を攻むるも、抜かず。移りて斉を攻め、饒安を取る。五年、傅抵将として、平邑に居る。慶舍、東陽河外の師に将として、河梁を守る。六年、長安君を封ずるに饒を以てす。魏趙に鄴を与ふ。九年、趙燕を攻め、貍・陽城を取る。兵未だ罷まず、秦鄴を攻め、之を抜く。悼襄王卒し、子幽繆王遷立つ。幽繆王遷元年、柏人に城く。二年、秦武城を攻む。扈輒師を率ゐて之を救ふも、軍敗れ、焉に死す。三年、秦赤麗・宜安を攻む。李牧師を率ゐて与に肥の下に戦ひ、之を卻く。牧を封じて武安君と為す。四年、秦番吾を攻む。李牧之と戦ひ、之を卻く。五年、代の地大いに動く。楽徐より以西、北は平陰に至るまで、台屋牆垣太半壊れ、地坼くること東西百三十歩。六年、大いに饑う。民訛言して曰く、「趙は号を為し、秦は笑ひを為す。以て信ぜずと為さば、地の毛を生ずるを視よ」と。七年、秦人趙を攻む。趙の大将李牧・将軍司馬尚将として、之を撃つ。李牧誅せられ、司馬尚免ぜらる。趙怱及び斉の将顔聚之に代はる。趙怱の軍破れ、顔聚亡げ去る。王遷を以て降る。八年十月、邯鄲秦と為る。太史公曰く、吾馮王孫に聞く、曰く、「趙王遷は、其の母倡なり。悼襄王に嬖せらる。悼襄王適子嘉を廃して遷を立つ。遷素より行ひ無く、讒を信ず。故に其の良将李牧を誅し、郭開を用ふ」と。豈に繆ならずや。秦既に遷を虜にす。趙の亡大夫共に嘉を立てて王と為す。代に王たること六歳、秦兵を進めて嘉を破り、遂に趙を滅ぼして以て郡と為す。
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史記 趙世家趙の将楽乗・慶舍、秦の信梁の軍を攻め、之を破る。太子死す。而して秦西周を攻め、之を抜く。徒父祺出づ。十一年、元氏に城き、上原を県とす。武陽君鄭安平死し、其の地を収む。十二年、邯鄲の廥焼く。十四年、平原君趙勝死す。十五年、尉文を以て相国廉頗を封じて信平君と為す。燕王、丞相栗腹をして驩を約し、五百金を以て趙王の酒を為さしむ。還り帰りて、燕王に報じて曰く、「趙氏の壮者は皆長平に死し、其の孤未だ壮ならず。伐つべきなり」と。王、昌国君楽閒を召して之に問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。之を伐つは不可なり」と。王曰く、「吾衆を以て寡を伐ち、二にして一を伐つ、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。王曰く、「吾即し五を以て一を伐たば、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王大いに怒る。群臣皆以て可と為す。燕卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗を攻め、卿秦将として代を攻む。廉頗趙の将と為り、栗腹を破り殺し、卿秦・楽閒を虜にす。十六年、廉頗燕を囲む。楽乗を以て武襄君と為す。十七年、仮相大将武襄君燕を攻め、其の国を囲む。十八年、延陵鈞、師を率ゐて相国信平君に従ひて魏を助けて燕を攻む。秦我が楡次三十七城を抜く。十九年、趙燕と土を易ふ。龍兌・汾門・臨楽を以て燕に与へ、燕は葛・武陽・平舒を以て趙に与ふ。二十年、秦王政初めて立つ。秦我が晋陽を抜く。二十一年、孝成王卒す。廉頗将として、繁陽を攻め、之を取る。楽乗をして之に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む。楽乗走る。廉頗亡げて魏に入る。子偃立つ、是を悼襄王と為す。悼襄王元年、大いに魏に備ふ。平邑・中牟の道を通ぜんと欲するも、成らず。二年、李牧将として、燕を攻め、武遂・方城を抜く。秦、春平君を召し、因りて之を留む。
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