史記 / 廉頗藺相如列伝
是歳,廉頗東攻齊,破其一軍。居二年,廉頗復伐齊幾,拔之。後三年,廉頗攻魏之防陵、安陽,拔之。後四年,藺相如將而攻齊,至平邑而罷。其明年,趙奢破秦軍閼與下。趙奢者,趙之田部吏也。收租稅而平原君家不肯出租,奢以法治之,殺平原君用事者九人。平原君怒,將殺奢。奢因説曰:「君於趙爲貴公子,今縱君家而不奉公則法削,法削則國弱,國弱則諸侯加兵,諸侯加兵是無趙也,君安得有此富乎?以君之貴,奉公如法則上下平,上下平則國彊,國彊則趙固,而君爲貴戚,豈輕於天下邪?」平原君以爲賢,言之於王。王用之治國賦,國賦大平,民富而府庫實。秦伐韓,軍於閼與。王召廉頗而問曰:「可救不?」對曰:「道遠險狹,難救。」又召樂乘而問焉,樂乘對如廉頗言。又召問趙奢,奢對曰:「其道遠險狹,譬之猶兩鼠鬥於穴中,將勇者勝。」王乃令趙奢將,救之。兵去邯鄲三十里,而令軍中曰:「有以軍事諫者死。」秦軍軍武安西,秦軍鼓譟勒兵,武安屋瓦盡振。軍中候有一人言急救武安,趙奢立斬之。堅壁,留二十八日不行,復益增壘。秦間來入,趙奢善食而遣之。間以報秦將,秦將大喜曰:「夫去國三十里而軍不行,乃增壘,閼與非趙地也。」
新字:是歳,廉頗東攻斉,破其一軍。居二年,廉頗復伐斉幾,抜之。後三年,廉頗攻魏之防陵、安陽,抜之。後四年,藺相如将而攻斉,至平邑而罷。其明年,趙奢破秦軍閼与下。趙奢者,趙之田部吏也。収租税而平原君家不肯出租,奢以法治之,殺平原君用事者九人。平原君怒,将殺奢。奢因説曰:「君於趙為貴公子,今縦君家而不奉公則法削,法削則国弱,国弱則諸侯加兵,諸侯加兵是無趙也,君安得有此富乎?以君之貴,奉公如法則上下平,上下平則国彊,国彊則趙固,而君為貴戚,豈軽於天下邪?」平原君以為賢,言之於王。王用之治国賦,国賦大平,民富而府庫実。秦伐韓,軍於閼与。王召廉頗而問曰:「可救不?」対曰:「道遠険狭,難救。」又召楽乗而問焉,楽乗対如廉頗言。又召問趙奢,奢対曰:「其道遠険狭,譬之猶両鼠鬥於穴中,将勇者勝。」王乃令趙奢将,救之。兵去邯鄲三十里,而令軍中曰:「有以軍事諫者死。」秦軍軍武安西,秦軍鼓譟勒兵,武安屋瓦尽振。軍中候有一人言急救武安,趙奢立斬之。堅壁,留二十八日不行,復益增塁。秦間来入,趙奢善食而遣之。間以報秦将,秦将大喜曰:「夫去国三十里而軍不行,乃增塁,閼与非趙地也。」
書き下し
是の歳、廉頗東のかた斉を攻め、その一軍を破る。居ること二年、廉頗また斉の幾を伐ち、これを抜く。後三年、廉頗魏の防陵・安陽を攻め、これを抜く。後四年、藺相如将として斉を攻め、平邑に至りて罷む。その明年、趙奢秦の軍を閼与の下に破る。趙奢は趙の田部の吏なり。租税を収むるに平原君の家租を出だすを肯んぜず、奢法を以てこれを治め、平原君の事を用ふる者九人を殺す。平原君怒り、将に奢を殺さんとす。奢因りて説きて曰く、「君は趙に於いて貴公子為り。今、君の家を縦にして公に奉ぜずんば則ち法削られ、法削らるれば則ち国弱く、国弱ければ則ち諸侯兵を加へ、諸侯兵を加ふれば是れ趙無きなり。君安んぞ此の富有るを得ん。君の貴きを以て、公に奉ずること法の如くせば則ち上下平らかに、上下平らかなれば則ち国彊く、国彊ければ則ち趙固く、而して君は貴戚為り、豈に天下に軽んぜられんや」と。平原君以て賢と為し、これを王に言ふ。王これを用ひて国賦を治めしむ、国賦大いに平らかに、民富みて府庫実つ。秦韓を伐ち、閼与に軍す。王、廉頗を召して問ひて曰く、「救ふべきや不や」と。対へて曰く、「道遠く険狭にして、救ひ難し」と。また楽乗を召してこれに問ふ、楽乗の対ふること廉頗の言の如し。また召して趙奢に問ふ、奢対へて曰く、「その道遠く険狭なるは、これを譬ふれば猶ほ両鼠の穴中に闘ふがごとし、将の勇なる者勝たん」と。王乃ち趙奢をして将たらしめ、これを救はしむ。兵邯鄲を去ること三十里にして、軍中に令して曰く、「軍事を以て諫むる者有らば死せん」と。秦の軍武安の西に軍す、秦の軍鼓譟して兵を勒し、武安の屋瓦尽く振ふ。軍中の候に一人有り、急ぎ武安を救はんと言ふ、趙奢立ちどころにこれを斬る。壁を堅くし、留まること二十八日にして行かず、また益々塁を増す。秦の間来たり入る、趙奢善く食はせてこれを遣る。間以て秦将に報ず、秦将大いに喜びて曰く、「夫れ国を去ること三十里にして軍行かず、乃ち塁を増す、閼与は趙の地に非ざるなり」と。
現代語訳
この年、廉頗は東の斉を攻め、その一軍を破った。二年後、廉頗は再び斉の幾を討って落とした。その三年後、廉頗は魏の防陵と安陽を攻めて落とした。その四年後、藺相如が将として斉を攻め、平邑まで進んで兵を引いた。その翌年、趙奢が閼与の城下で秦軍を破った。趙奢は趙の田部の吏(田租を取り立てる役人)であった。租税を取り立てるとき、平原君の家が租税を納めようとしなかったので、趙奢は法に従って処断し、平原君の家で事を取りしきっていた者九人を殺した。平原君は怒り、趙奢を殺そうとした。趙奢はそこで説いた。「あなたは趙で身分の高い公子だ。いまあなたの家に勝手をさせて公の務めを果たさせなければ、法は崩れる。法が崩れれば国は弱くなり、国が弱くなれば諸侯が攻めてくる。諸侯が攻めてくれば趙はなくなる。そうなれば、あなたはどうしてこの富を保てようか。あなたほど身分の高い方が、法のとおりに公の務めを果たせば、上下の秩序が保たれる。上下の秩序が保たれれば国は強くなり、国が強くなれば趙は安泰だ。そしてあなたは王の親族として、どうして天下に軽んじられることがあろうか。」平原君は趙奢を賢い人物だと思い、王に推薦した。王は趙奢に国の税を治めさせたところ、国の税は大いに公平になり、民は富み、国庫は満ちた。秦が韓を討ち、閼与に陣を敷いた。王は廉頗を呼んで尋ねた。「救えるか、どうか。」廉頗は答えた。「道が遠く、険しく狭いので、救うのは難しい。」また楽乗を呼んで尋ねたが、楽乗も廉頗と同じ答えだった。さらに趙奢を呼んで尋ねると、趙奢は答えた。「道が遠く険しく狭いのは、たとえれば二匹の鼠が穴の中で闘うようなもので、将が勇敢な方が勝つ。」王はそこで趙奢を将として救援に向かわせた。趙奢は兵が邯鄲から三十里進んだところで、軍中に命令した。「軍事について諫言する者は死刑とする。」秦軍は武安の西に陣を敷いており、太鼓を鳴らし喚声を上げて兵を整えたので、武安の家々の屋根瓦がことごとく震えた。趙軍の斥候の一人が、急いで武安を救うべきだと言うと、趙奢はすぐにその者を斬った。趙奢は陣地を固め、二十八日間とどまって進まず、さらに塁を増やした。秦の間者が陣中に入り込んできたが、趙奢はよい食事をふるまって帰らせた。間者はそれを秦の将に報告し、秦の将は大いに喜んで言った。「国都を出て三十里で軍が進まず、そのうえ塁を増やしている。閼与はもう趙のものではない(趙は救う気がない)。」
解説
関連する章句
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史記 廉頗藺相如列伝趙奢既已に秦の間を遣り、甲を巻きてこれに趨く、二日一夜にして至り、善く射る者をして閼与を去ること五十里にして軍せしむ。軍塁成る、秦人これを聞き、甲を悉くして至る。軍士許歴、軍事を以て諫めんことを請ふ、趙奢曰く、「これを内れよ」と。許歴曰く、「秦人は趙の師の此に至るを意はず、その来たること気盛んなり、将軍必ずその陣を厚く集めて以てこれを待て。然らずんば、必ず敗れん」と。趙奢曰く、「請ふ令を受けん」と。許歴曰く、「請ふ鈇質の誅に就かん」と。趙奢曰く、「胥つて後に邯鄲に令せん」と。許歴また諫めんことを請ひて曰く、「先に北山の上に拠る者は勝ち、後れて至る者は敗る」と。趙奢許諾し、即ち万人を発してこれに趨かしむ。秦の兵後れて至り、山を争ひて上るを得ず、趙奢兵を縦にしてこれを撃ち、大いに秦の軍を破る。秦の軍解きて走り、遂に閼与の囲みを解きて帰る。趙の恵文王、奢に号を賜ひて馬服君と為し、許歴を以て国尉と為す。趙奢是に於いて廉頗・藺相如と位を同じくす。後四年、趙の恵文王卒し、子の孝成王立つ。七年、秦と趙と兵長平に相距ぐ。時に趙奢已に死し、而して藺相如病篤し、趙、廉頗をして将として秦を攻めしむ、秦数々趙の軍を敗る、趙の軍壁を固くして戦はず。秦数々戦ひを挑む、廉頗肯んぜず。趙王秦の間を信ず。秦の間言ひて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服君趙奢の子趙括の将と為るを畏るるのみ」と。趙王因りて括を以て将と為し、廉頗に代へんとす。藺相如曰く、「王、名を以て括を使ふは、柱に膠して瑟を鼓するが若きのみ。括は徒だ能くその父の書伝を読むのみにして、変に合するを知らざるなり」と。趙王聴かず、遂にこれを将とす。
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史記 趙世家是に於て趙乃ち輟め、秦に謝して斉を撃たず。王燕王と遇ふ。廉頗将として、斉の昔陽を攻め、之を取る。十七年、楽毅趙の師に将として魏の伯陽を攻む。而して秦、趙の己と斉を撃たざるを怨み、趙を伐ち、我が両城を抜く。十八年、秦我が石城を抜く。王再び衛の東陽に之き、河水を決し、魏氏を伐つ。大いに潦し、漳水出づ。魏冉来りて趙に相たり。十九年、秦我が二城を取る。趙魏に伯陽を与ふ。趙奢将として、斉の麦丘を攻め、之を取る。二十年、廉頗将として斉を攻む。王秦の昭王と西河の外に遇ふ。二十一年、趙漳水を武平の西に徙す。二十二年、大いに疫す。公子丹を置きて太子と為す。二十三年、楼昌将として、魏の幾を攻むるも、取ること能はず。十二月、廉頗将として、幾を攻め、之を取る。二十四年、廉頗将として、魏の房子を攻め、之を抜き、因りて城きて還る。又安陽を攻め、之を取る。二十五年、燕周将として、昌城・高唐を攻め、之を取る。魏と共に秦を撃つ。秦の将白起我を華陽に破り、一将軍を得たり。二十六年、東胡の代を欧ひし地を取る。二十七年、漳水を武平の南に徙す。趙豹を封じて平陽君と為す。河水出で、大いに潦す。二十八年、藺相如斉を伐ち、平邑に至る。城北の九門の大城を罷む。燕の将成安君公孫操其の王を弑す。二十九年、秦・韓相攻めて、閼与を囲む。趙、趙奢をして将として秦を撃たしめ、大いに秦軍を閼与の下に破り、号を賜ひて馬服君と為す。三十三年、恵文王卒し、太子丹立つ、是を孝成王と為す。孝成王元年、秦我を伐ち、三城を抜く。趙王新たに立ち、太后事を用ふ。秦急に之を攻む。趙氏救ひを斉に求む。斉曰く、「必ず長安君を以て質と為さば、兵乃ち出でん」と。太后肯ぜず。大臣彊く諫む。
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史記 趙世家趙の将楽乗・慶舍、秦の信梁の軍を攻め、之を破る。太子死す。而して秦西周を攻め、之を抜く。徒父祺出づ。十一年、元氏に城き、上原を県とす。武陽君鄭安平死し、其の地を収む。十二年、邯鄲の廥焼く。十四年、平原君趙勝死す。十五年、尉文を以て相国廉頗を封じて信平君と為す。燕王、丞相栗腹をして驩を約し、五百金を以て趙王の酒を為さしむ。還り帰りて、燕王に報じて曰く、「趙氏の壮者は皆長平に死し、其の孤未だ壮ならず。伐つべきなり」と。王、昌国君楽閒を召して之に問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。之を伐つは不可なり」と。王曰く、「吾衆を以て寡を伐ち、二にして一を伐つ、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。王曰く、「吾即し五を以て一を伐たば、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王大いに怒る。群臣皆以て可と為す。燕卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗を攻め、卿秦将として代を攻む。廉頗趙の将と為り、栗腹を破り殺し、卿秦・楽閒を虜にす。十六年、廉頗燕を囲む。楽乗を以て武襄君と為す。十七年、仮相大将武襄君燕を攻め、其の国を囲む。十八年、延陵鈞、師を率ゐて相国信平君に従ひて魏を助けて燕を攻む。秦我が楡次三十七城を抜く。十九年、趙燕と土を易ふ。龍兌・汾門・臨楽を以て燕に与へ、燕は葛・武陽・平舒を以て趙に与ふ。二十年、秦王政初めて立つ。秦我が晋陽を抜く。二十一年、孝成王卒す。廉頗将として、繁陽を攻め、之を取る。楽乗をして之に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む。楽乗走る。廉頗亡げて魏に入る。子偃立つ、是を悼襄王と為す。悼襄王元年、大いに魏に備ふ。平邑・中牟の道を通ぜんと欲するも、成らず。二年、李牧将として、燕を攻め、武遂・方城を抜く。秦、春平君を召し、因りて之を留む。
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戦国策・秦攻趙藺離石祁拔秦、趙を攻め、藺・離石・祁抜かる。趙、公子郚を以て秦に質と為し、焦・黎・牛狐の城を内れんことを請いて、以て藺・離石・祁を趙に易えんとす。趙、秦に背き、焦・黎・牛狐を予えず。秦王怒りて、公子繒をして地を請わしむ。趙王乃ち鄭朱をして対えしめて曰く、「夫れ藺・離石・祁の地は、趙に曠遠にして、大国に近し。先王の明と先臣の力有り、故に能く之を有てり。今寡人逮ばず、其の社稷をも恤うる能わず、安んぞ能く藺・離石・祁を収め恤えんや。寡人に不令の臣有り、実に此の事を為す、寡人の敢えて知る所に非ず」と。卒に秦に倍く。秦王大いに怒りて、衛胡易をして趙を伐たしめ、閼與を攻めしむ。趙奢将に之を救わんとす。魏、公子咎をして鋭師を以て安邑に居らしめ、以て秦を挟ましむ。秦、閼與に敗れ、反りて魏の幾を攻む。廉頗、幾を救い、大いに秦師を敗る。
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史記 廉頗藺相如列伝廉頗は、趙の良将なり。趙の恵文王の十六年、廉頗趙の将と為りて斉を伐ち、大いにこれを破り、陽晋を取り、拝して上卿と為る、勇気を以て諸侯に聞こゆ。藺相如は、趙人なり、趙の宦者令繆賢の舎人為り。趙の恵文王の時、楚の和氏の璧を得たり。秦の昭王これを聞き、人をして趙王に書を遺らしめ、原(ねが)はくは十五城を以て璧に易へんことを請ふ。趙王、大将軍廉頗・諸大臣と謀る。秦に予へんと欲すれば、秦の城恐らくは得べからず、徒らに欺かれん。予ふること勿からんと欲すれば、即ち秦の兵の来たらんことを患ふ。計未だ定まらず、人の秦に報ぜしむべき者を求むるも、未だ得ず。宦者令繆賢曰く、「臣の舎人藺相如使はすべし」と。王問ふ、「何を以てこれを知る」と。対へて曰く、「臣嘗て罪有り、竊かに計りて亡げて燕に走らんと欲す。臣の舎人相如臣を止めて曰く、『君何を以て燕王を知る』と。臣語りて曰く、『臣嘗て大王に従ひて燕王と境上に会す、燕王私かに臣の手を握りて曰く「願はくは友を結ばん」と。此を以てこれを知る、故に往かんと欲す』と。相如臣に謂ひて曰く、『夫れ趙は彊くして燕は弱し、而して君は趙王に幸せらる、故に燕王君に結ばんと欲す。今、君乃ち趙を亡げて燕に走らば、燕は趙を畏れ、その勢ひ必ず敢へて君を留めずして、君を束ねて趙に帰さん。君は肉袒して斧質に伏して罪を請ふに如かず、則ち幸ひに脱るるを得ん』と。臣その計に従ふ、大王もまた幸ひに臣を赦せり。臣竊かに以為へらく、その人は勇士にして、智謀有り、宜しく使はすべし」と。是に於いて王召見し、藺相如に問ひて曰く、「秦王、十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ、予ふべきや不や」と。相如曰く、「秦は彊くして趙は弱し、許さざるべからず」と。王曰く、「吾が璧を取りて、我に城を予へずんば、奈何」と。相如曰く、「秦、城を以て璧を求めて趙許さずんば、曲は趙に在り。趙、璧を予へて秦趙に城を予へずんば、曲は秦に在り。これが二策を均しくするに、甯ろ許して以て秦に曲を負はしめん」と。王曰く、「誰か使はすべき者ぞ」と。相如曰く、「王必ず人無くんば、臣願はくは璧を奉じて往きて使ひせん。
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史記 白起王翦列伝四十六年、秦、韓の緱氏・藺を攻め、これを抜く。四十七年、秦、左庶長王齕をして韓を攻めしめ、上党を取る。上党の民趙に走る。趙、長平に軍し、以て上党の民を按拠す。四月、齕因りて趙を攻む。趙、廉頗をして将たらしむ。趙軍の士卒、秦の斥兵を犯す、秦の斥兵、趙の裨将茄を斬る。六月、趙軍を陥れ、二鄣・四尉を取る。七月、趙軍、塁壁を筑きてこれを守る。秦またその塁を攻め、二尉を取り、その陣を敗り、西の塁壁を奪ふ。廉頗、壁を堅くして以て秦を待つ。秦数々戦ひを挑むも、趙の兵出でず。趙王数々以て譲むることを為す。而して秦の相応侯、また人をして千金を趙に行ひて反閒を為さしめて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服子趙括の将たるを畏るるのみ。廉頗は与し易く、且に降らんとす」と。趙王既に廉頗の軍の失亡多く、軍数々敗れ、また反りて壁を堅くして敢へて戦はざるを怒り、而してまた秦の反閒の言を聞き、因りて趙括をして廉頗に代はり将として以て秦を撃たしむ。秦、馬服子の将たるを聞き、乃ち陰かに武安君白起をして上将軍と為さしむ。而して王齕を尉裨将と為し、軍中に令して敢へて武安君の将たるを泄らす者有らば斬らしむ。趙括至り、則ち兵を出だして秦軍を撃つ。秦軍詳り敗れて走り、二つの奇兵を張りて以てこれを劫かす。趙軍勝ちに逐ひ、追ひて秦の壁に造る。壁堅く拒みて入るを得ず。而して秦の奇兵二万五千人、趙軍の後を絶ち、また一軍五千騎、趙の壁の閒を絶つ。趙軍分かれて二と為り、糧道絶ゆ。而して秦、軽兵を出だしてこれを撃つ。趙戦ひて利あらず、因りて壁を筑きて堅守し、以て救ひの至るを待つ。秦王、趙の食道絶ゆるを聞き、王自ら河内に之き、民に爵各々一級を賜ひ、年十五以上を発して悉く長平に詣らしめ、趙の救ひ及び糧食を遮絶す。九月に至り、趙の卒食を得ざること四十六日、皆内に陰かに相殺して食らふ。来たりて秦の塁を攻め、出でんと欲す。四隊を為り、四五たびこれを復するも、出づる能はず。
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