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史記 / 廉頗藺相如列伝

趙奢既已遣秦間,巻甲而趨之,二日一夜至,今善射者去閼與五十裏而軍。軍壘成,秦人聞之,悉甲而至。軍士許暦請以軍事諫,趙奢曰:「内之。」許暦曰:「秦人不意趙師至此,其來氣盛,將軍必厚集其陣以待之。不然,必敗。」趙奢曰:「請受令。」許暦曰:「請就鈇質之誅。」趙奢曰:「胥後令邯鄲。」許暦復請諫,曰:「先據北山上者勝,後至者敗。」趙奢許諾,即發萬人趨之。秦兵後至,爭山不得上,趙奢縱兵撃之,大破秦軍。秦軍解而走,遂解閼與之圍而歸。趙惠文王賜奢號爲馬服君,以許暦爲國尉。趙奢於是與廉頗、藺相如同位。後四年,趙惠文王卒,子孝成王立。七年,秦與趙兵相距長平,時趙奢已死,而藺相如病篤,趙使廉頗將攻秦,秦數敗趙軍,趙軍固壁不戰。秦數挑戰,廉頗不肯。趙王信秦之間。秦之間言曰:「秦之所惡,獨畏馬服君趙奢之子趙括爲將耳。」趙王因以括爲將,代廉頗。藺相如曰:「王以名使括,若膠柱而鼓瑟耳。括徒能讀其父書傳,不知合變也。」趙王不聽,遂將之。

新字:趙奢既已遣秦間,巻甲而趨之,二日一夜至,今善射者去閼与五十裏而軍。軍塁成,秦人聞之,悉甲而至。軍士許暦請以軍事諫,趙奢曰:「内之。」許暦曰:「秦人不意趙師至此,其来気盛,将軍必厚集其陣以待之。不然,必敗。」趙奢曰:「請受令。」許暦曰:「請就鈇質之誅。」趙奢曰:「胥後令邯鄲。」許暦復請諫,曰:「先拠北山上者勝,後至者敗。」趙奢許諾,即発万人趨之。秦兵後至,争山不得上,趙奢縦兵撃之,大破秦軍。秦軍解而走,遂解閼与之囲而帰。趙恵文王賜奢号為馬服君,以許暦為国尉。趙奢於是与廉頗、藺相如同位。後四年,趙恵文王卒,子孝成王立。七年,秦与趙兵相距長平,時趙奢已死,而藺相如病篤,趙使廉頗将攻秦,秦数敗趙軍,趙軍固壁不戦。秦数挑戦,廉頗不肯。趙王信秦之間。秦之間言曰:「秦之所悪,独畏馬服君趙奢之子趙括為将耳。」趙王因以括為将,代廉頗。藺相如曰:「王以名使括,若膠柱而鼓瑟耳。括徒能読其父書伝,不知合変也。」趙王不聴,遂将之。

書き下し

趙奢既已に秦の間を遣り、甲を巻きてこれに趨く、二日一夜にして至り、善く射る者をして閼与を去ること五十里にして軍せしむ。軍塁成る、秦人これを聞き、甲を悉くして至る。軍士許歴、軍事を以て諫めんことを請ふ、趙奢曰く、「これを内れよ」と。許歴曰く、「秦人は趙の師の此に至るを意はず、その来たること気盛んなり、将軍必ずその陣を厚く集めて以てこれを待て。然らずんば、必ず敗れん」と。趙奢曰く、「請ふ令を受けん」と。許歴曰く、「請ふ鈇質の誅に就かん」と。趙奢曰く、「胥つて後に邯鄲に令せん」と。許歴また諫めんことを請ひて曰く、「先に北山の上に拠る者は勝ち、後れて至る者は敗る」と。趙奢許諾し、即ち万人を発してこれに趨かしむ。秦の兵後れて至り、山を争ひて上るを得ず、趙奢兵を縦にしてこれを撃ち、大いに秦の軍を破る。秦の軍解きて走り、遂に閼与の囲みを解きて帰る。趙の恵文王、奢に号を賜ひて馬服君と為し、許歴を以て国尉と為す。趙奢是に於いて廉頗・藺相如と位を同じくす。後四年、趙の恵文王卒し、子の孝成王立つ。七年、秦と趙と兵長平に相距ぐ。時に趙奢已に死し、而して藺相如病篤し、趙、廉頗をして将として秦を攻めしむ、秦数々趙の軍を敗る、趙の軍壁を固くして戦はず。秦数々戦ひを挑む、廉頗肯んぜず。趙王秦の間を信ず。秦の間言ひて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服君趙奢の子趙括の将と為るを畏るるのみ」と。趙王因りて括を以て将と為し、廉頗に代へんとす。藺相如曰く、「王、名を以て括を使ふは、柱に膠して瑟を鼓するが若きのみ。括は徒だ能くその父の書伝を読むのみにして、変に合するを知らざるなり」と。趙王聴かず、遂にこれを将とす。

現代語訳

趙奢は秦の間者を帰らせると、鎧を巻いて身軽にして急行し、二日一晩で到着し、弓の上手な者に閼与から五十里のところに陣を構えさせた。陣地ができあがると、秦はそれを聞いて全軍でやって来た。兵士の許歴が軍事について諫言したいと願い出た。趙奢は「入れよ」と言った。許歴は言った。「秦は趙軍がここまで来るとは思っていなかったので、勢い盛んに攻めてくるだろう。将軍は必ず陣を厚く固めて迎え撃つべきだ。そうしなければ必ず敗れる。」趙奢は言った。「その意見を受け入れよう。」許歴は言った。「(諫言した者は死刑という命令に従い)どうか斧で斬られる刑に就かせてほしい。」趙奢は言った。「その処分は後で、邯鄲に帰ってから命じよう。」許歴はさらに諫言したいと願い出て言った。「先に北の山の上を占めた者が勝ち、後れて着いた者が負ける。」趙奢は承知し、ただちに一万人を出して山に向かわせた。秦の兵は後れて到着し、山を奪おうとしても登れなかった。趙奢は兵を放って攻撃し、秦軍を大いに破った。秦軍は包囲を解いて逃げ、趙奢はこうして閼与の包囲を解いて帰還した。趙の恵文王は趙奢に馬服君の称号を与え、許歴を国尉(軍事の長官)とした。趙奢はこうして廉頗・藺相如と同じ位になった。四年後、趙の恵文王が亡くなり、子の孝成王が即位した。七年、秦と趙の兵が長平で対峙した。このとき趙奢はすでに亡くなり、藺相如は病が重かった。趙は廉頗を将として秦を攻めさせたが、秦はたびたび趙軍を破り、趙軍は陣地を固めて戦わなかった。秦はたびたび戦いを挑んだが、廉頗は応じなかった。趙王は秦の間者の流した噂を信じた。秦の間者は言いふらしていた。「秦が嫌がり恐れているのは、ただ馬服君趙奢の子の趙括が将になることだけだ。」趙王はそこで趙括を将として廉頗に代えようとした。藺相如は言った。「王が名声だけで趙括をお使いになるのは、瑟の琴柱を膠で固めて弾くようなもの(融通がきかない)だ。趙括はただ父の兵法書を読めるだけで、状況の変化に応じることを知らない。」趙王は聞き入れず、とうとう趙括を将にした。

解説

趙奢の閼与の戦いの勝利と、長平の戦いでの趙括の起用を描いた段です。敵を油断させた趙奢は、一気に二日一晩で急行して閼与の近くに陣を築きました。兵士の許歴が「陣を厚くせよ」「北の山を先に取れ」と進言すると、趙奢は「諫める者は死刑」という自らの命令があるにもかかわらず意見を採り、処分は「邯鄲に帰ってから」と先延ばしにしました。結果、北山を取って秦軍を大破し、許歴は罰どころか国尉に取り立てられます。命令の厳しさで規律を保ちつつ、正しい意見には耳を傾けた柔軟さが勝因でした。後半は長平の戦いで、秦の間者の噂を信じた趙王が、廉頗に代えて趙奢の子趙括を将にしようとします。病床の藺相如は「琴柱を膠で固めて瑟を弾くようなもの。父の書を読めるだけで変化に応じられない」と反対しましたが、聞き入れられませんでした。知識だけで現場を知らない人を肩書や家柄で起用する危うさは、今の人事でもよく議論されることです。

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