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史記 / 楽毅列伝

樂閒居燕三十餘年,燕王喜用其相栗腹之計,欲攻趙,而問昌國君樂閒。樂閒曰:「趙,四戰之國也,其民習兵,伐之不可。」燕王不聽,遂伐趙。趙使廉頗擊之,大破栗腹之軍於鄗,禽栗腹、樂乘。樂乘者,樂閒之宗也。於是樂閒奔趙,趙遂圍燕。燕重割地以與趙和,趙乃解而去。燕王恨不用樂閒,樂閒既在趙,乃遺樂閒書曰:「紂之時,箕子不用,犯諫不怠,以冀其聽;商容不達,身祇辱焉,以冀其變。及民志不入,獄囚自出,然後二子退隱。故紂負桀暴之累,二子不失忠聖之名。何者?其憂患之盡矣。今寡人雖愚,不若紂之暴也;燕民雖亂,不若殷民之甚也。室有語,不相盡,以告鄰里。二者,寡人不為君取也。」樂閒、樂乘怨燕不聽其計,二人卒留趙。趙封樂乘為武襄君。其明年,樂乘、廉頗為趙圍燕,燕重禮以和,乃解。後五歲,趙孝成王卒。襄王使樂乘代廉頗。廉頗攻樂乘,樂乘走,廉頗亡入魏。其後十六年而秦滅趙。其後二十餘年,高帝過趙,問:「樂毅有後世乎?」對曰:「有樂叔。」高帝封之樂卿,號曰華成君。華成君,樂毅之孫也。而樂氏之族有樂瑕公、樂臣公,趙且為秦所滅,亡之齊高密。樂臣公善修黃帝、老子之言,顯聞於齊,稱賢師。

新字:楽閒居燕三十余年,燕王喜用其相栗腹之計,欲攻趙,而問昌国君楽閒。楽閒曰:「趙,四戦之国也,其民習兵,伐之不可。」燕王不聴,遂伐趙。趙使廉頗撃之,大破栗腹之軍於鄗,禽栗腹、楽乗。楽乗者,楽閒之宗也。於是楽閒奔趙,趙遂囲燕。燕重割地以与趙和,趙乃解而去。燕王恨不用楽閒,楽閒既在趙,乃遺楽閒書曰:「紂之時,箕子不用,犯諫不怠,以冀其聴;商容不達,身祇辱焉,以冀其変。及民志不入,獄囚自出,然後二子退隠。故紂負桀暴之累,二子不失忠聖之名。何者?其憂患之尽矣。今寡人雖愚,不若紂之暴也;燕民雖乱,不若殷民之甚也。室有語,不相尽,以告鄰里。二者,寡人不為君取也。」楽閒、楽乗怨燕不聴其計,二人卒留趙。趙封楽乗為武襄君。其明年,楽乗、廉頗為趙囲燕,燕重礼以和,乃解。後五歳,趙孝成王卒。襄王使楽乗代廉頗。廉頗攻楽乗,楽乗走,廉頗亡入魏。其後十六年而秦滅趙。其後二十余年,高帝過趙,問:「楽毅有後世乎?」対曰:「有楽叔。」高帝封之楽卿,号曰華成君。華成君,楽毅之孫也。而楽氏之族有楽瑕公、楽臣公,趙且為秦所滅,亡之斉高密。楽臣公善修黄帝、老子之言,顕聞於斉,称賢師。

書き下し

楽閒燕に居ること三十余年、燕王喜その相栗腹の計を用ひ、趙を攻めんと欲して、昌国君楽閒に問ふ。楽閒曰く、「趙は四戦の国なり、その民は兵に習ふ、これを伐つは不可なり」と。燕王聴かず、遂に趙を伐つ。趙、廉頗をしてこれを撃たしめ、大いに栗腹の軍を鄗に破り、栗腹・楽乗を禽にす。楽乗は楽閒の宗なり。是に於いて楽閒趙に奔り、趙遂に燕を囲む。燕重く地を割きて以て趙と和す、趙乃ち解きて去る。燕王、楽閒を用ひざりしを恨み、楽閒既に趙に在り、乃ち楽閒に書を遺りて曰く、「紂の時、箕子用ひられず、犯諫して怠らず、以てその聴かんことを冀ふ。商容達せず、身祇だ辱めらる、以てその変ぜんことを冀ふ。民の志入らず、獄囚自ら出づるに及び、然る後に二子退隠す。故に紂は桀暴の累を負ひ、二子は忠聖の名を失はず。何となれば、その憂患の尽くせばなり。今、寡人愚なりと雖も、紂の暴に若かざるなり。燕の民乱ると雖も、殷の民の甚だしきに若かざるなり。室に語有り、相尽くさずして、以て隣里に告ぐ。二者、寡人は君の為に取らざるなり」と。楽閒・楽乗、燕のその計を聴かざるを怨み、二人卒に趙に留まる。趙、楽乗を封じて武襄君と為す。その明年、楽乗・廉頗、趙の為に燕を囲む、燕、礼を重くして以て和し、乃ち解く。後五歳、趙の孝成王卒す。襄王、楽乗をして廉頗に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む、楽乗走り、廉頗亡げて魏に入る。その後十六年にして秦趙を滅ぼす。その後二十余年、高帝趙を過ぎ、問ふ、「楽毅に後世有るか」と。対へて曰く、「楽叔有り」と。高帝これを楽卿に封じ、号して華成君と曰ふ。華成君は楽毅の孫なり。而して楽氏の族に楽瑕公・楽臣公有り、趙且に秦の滅ぼす所と為らんとするや、亡げて斉の高密に之く。楽臣公は善く黄帝・老子の言を修め、斉に顕聞し、賢師と称せらる。

現代語訳

楽閒(楽毅の子)は燕に三十年余りいた。燕王喜は宰相栗腹の計略を用いて趙を攻めようとし、昌国君楽閒に尋ねた。楽閒は言った。「趙は四方を敵に囲まれて戦い続けてきた国で、その民は戦いに慣れている。討ってはならない。」燕王は聞き入れず、そのまま趙を討った。趙は廉頗に迎え撃たせ、鄗で栗腹の軍を大いに破り、栗腹と楽乗を捕らえた。楽乗は楽閒の一族である。そこで楽閒は趙へ逃げ、趙はそのまま燕を包囲した。燕は多くの土地を割いて趙と和睦し、趙はようやく包囲を解いて去った。燕王は楽閒の意見を用いなかったことを悔やんだが、楽閒はすでに趙にいたので、楽閒に手紙を送った。「殷の紂王の時代、箕子は用いられなかったが、なおも諫言を怠らず、王が聞き入れることを願った。商容は意見が通らず、ただ辱めを受けるばかりだったが、それでも王が改めることを願った。民の心が離れ、牢獄の囚人が勝手に逃げ出すほどになって、ようやく二人は退いて隠れた。だから紂王は夏の桀王のような暴君の汚名を負い、二人は忠臣・聖人の名を失わなかったのだ。なぜなら、二人は憂いを尽くし、できることをすべてし尽くしたからである。いまわしは愚かではあるが、紂王ほど暴虐ではない。燕の民は乱れてはいるが、殷の民ほどひどくはない。家の中に言い分があれば、家の中で話し尽くさずに隣近所に言いふらすようなものだ。その二つ(諫め尽くさずに去ることと、国外に出て恨みを言うこと)は、わしはあなたのために取らない。」楽閒と楽乗は、燕が自分たちの計略を聞き入れなかったことを恨み、二人とも結局趙にとどまった。趙は楽乗を武襄君に封じた。その翌年、楽乗と廉頗は趙のために燕を包囲し、燕は手厚い礼物を贈って和睦し、趙は包囲を解いた。五年後、趙の孝成王が亡くなった。悼襄王は楽乗を廉頗に代わる将とした。廉頗は楽乗を攻め、楽乗は逃げ、廉頗は魏に亡命した。その十六年後、秦は趙を滅ぼした。それから二十年余り後、漢の高帝が趙を通りかかったとき、「楽毅には子孫がいるか」と尋ねた。「楽叔がいる」と答えると、高帝は楽卿に彼を封じ、華成君と称させた。華成君は楽毅の孫である。また楽氏の一族に楽瑕公と楽臣公がいて、趙が秦に滅ぼされようとしたとき、斉の高密へ逃れた。楽臣公は黄帝・老子の学をよく修めて斉で名を知られ、賢師と称された。

解説

楽毅の子楽閒ら楽氏一族のその後を記した段です。楽閒は燕に三十年余り仕えましたが、燕王喜が宰相栗腹の策で趙を攻めようとしたとき、「趙は四方で戦い続けてきた国で、民は戦に慣れている」と反対しました。燕王は聞かずに出兵し、廉頗に大敗して一族の楽乗まで捕らえられ、楽閒は趙へ逃れます。燕王は後悔して、殷の箕子と商容は紂王に諫め尽くしてから去った、家の中の言い分を隣近所に言いふらすようなまねはするな、と手紙で責めましたが、楽閒は戻りませんでした。父の楽毅が恵王に疑われて趙へ去った出来事が、子の代でも繰り返されたのです。後に漢の高祖は楽毅の孫を探し出して封じ、一族の楽臣公は黄老の学で斉に名を残しました。この楽臣公の学統は、後に漢の宰相曹参にまでつながったと伝えられます。同じ過ちが親子二代にわたって繰り返される姿は、組織が過去の人事の失敗から学ぶことの難しさを考えさせます。

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