史記 / 楽毅列伝
臣聞古之君子、交絕不出惡聲、忠臣去國、不絜其名。臣雖不佞、數奉教於君子矣。恐侍御者之親左右之說、不察疏遠之行、故敢獻書以聞、唯君王之留意焉。於是燕王復以樂毅子樂閒為昌國君。而樂毅往來復通燕、燕趙以為客卿。樂毅卒於趙。
新字:臣聞古之君子、交絶不出悪声、忠臣去国、不絜其名。臣雖不佞、数奉教於君子矣。恐侍御者之親左右之説、不察疏遠之行、故敢献書以聞、唯君王之留意焉。於是燕王復以楽毅子楽閒為昌国君。而楽毅往来復通燕、燕趙以為客卿。楽毅卒於趙。
書き下し
臣聞く、古の君子は、交はり絶ゆるとも悪声を出さず、忠臣国を去るとも其の名を絜(きよ)くせず、と。臣不佞と雖も、数々君子に教を奉ず。侍御者の左右の説に親しみ、疏遠の行を察せざるを恐る、故に敢て書を献じて以て聞す、唯だ君王の留意せんことを。是に於いて燕王復た楽毅の子楽閒を以て昌国君と為す。而して楽毅往来して復た燕に通じ、燕趙以て客卿と為す。楽毅趙に卒す。
現代語訳
「私はこう聞いております。古の君子は、交わりが絶えても相手の悪口を言わず、忠臣は国を去っても自分の潔白を言い立てない、と。私は不才ではありますが、たびたび君子の教えを受けてまいりました。ただ、あなたのお側の者の言葉ばかりに親しまれ、遠く離れた者の行いをお察しにならないのではないかと恐れます。ですからあえて手紙を差し上げ、申し上げる次第です。どうか君王には、お心にお留めいただきたい」。そこで燕王はふたたび楽毅の子・楽閒を昌国君とした。楽毅もまた行き来してふたたび燕と交わり、燕と趙は彼を客卿とした。楽毅は趙で没した。
解説
「別れた相手を悪く言わない」——去り際の品格と、恨みを超えた成熟した態度が、断たれた関係をも修復する、名高い一段です。趙に亡命した楽毅は、自分を讒言で追った燕の新王への手紙を、こう締めくくります。『古の君子は、交わりが絶えても悪声を出さず(相手との縁が切れても、その相手を悪く言わない)、忠臣は国を去っても、自分の潔白を主張して(元の主君を貶めることで)自分の名を飾ろうとはしない』と。楽毅は、自分を裏切った燕王を恨んで罵ることも、自分の無実を声高に叫んで燕王を悪者にすることも、あえてしませんでした。むしろ、亡き先王への感謝を述べ、新王への配慮すら示しながら、静かに身を引いたのです。この気高い態度に、燕王は心を動かされます。楽毅を罰するどころか、楽毅の子・楽閒を昌国君に取り立て、楽毅自身も燕と趙の間を行き来して両国の客卿となり、断たれた関係が修復されました。楽毅は最後まで両国から敬われ、趙で天寿を全うしたのです。ここに、人間関係における深い知恵があります。第一に、去り際・別れ際の品格の大切さ。関係が壊れたとき、相手を罵り、恨みをぶちまけるのは簡単です。しかし楽毅は、断たれた縁の相手すら悪く言わなかった。この『交絶不出悪声』の態度は、その人の器の大きさを示し、周囲の敬意を集めます。第二に、恨みを超えることが、かえって関係を修復し、自分をも守るということ。楽毅が燕王を恨んで敵対していれば、両者の関係は完全に断絶し、楽毅の子も危うかったでしょう。しかし恨みを手放し、品位を保ったことで、燕王の心を動かし、一族の安泰と、両国からの敬意を得た。組織やキャリアで、退職・異動・決別の場面は必ず訪れます。そのとき、去る組織や相手を悪く言って恨みを撒き散らすのか、それとも品位を保って静かに去るのか——その態度が、その人の評判と、将来の可能性を大きく左右します。別れ際こそ、その人の真価が問われる。楽毅の去り際の美学は、恨みを超えた成熟が、人を守り、敬意を生むことを教えています。
この章句が説くこと
楽毅交絶不出悪声去り際の品格恨みを超える忠臣去国不絜其名別れ際の美学
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戦国策・昌國君樂毅為燕昭王合五國之兵而攻齊昌国君楽毅、燕の昭王の為に五国の兵を合して斉を攻め、七十余城を下し、尽く之を郡県として以て燕に属せしむ。三城未だ下らざるに、燕の昭王死す。恵王位に即き、斉人の反間を用い、楽毅を疑いて騎劫をして之に代わりて将たらしむ。楽毅趙に奔る、趙封じて以て望諸君と為す。斉の田単騎劫を欺詐し、卒に燕軍を敗り、復た七十城を収めて以て斉を復す。燕王悔い、趙の楽毅を用いて燕の弊に乗じて以て燕を伐たんことを懼る。燕王乃ち人をして楽毅を譲めしめ、且つ之に謝して曰く、「先王国を挙げて将軍に委ね、将軍燕の為に斉を破り、先王の讎に報い、天下振動せざる莫し、寡人豈敢えて一日も将軍の功を忘れんや。会たま先王群臣を棄て、寡人新たに位に即き、左右寡人を誤れり。寡人の騎劫をして将軍に代わらしめし所以は、将軍の久しく外に暴露するが為、故に将軍を召して且く事を計るを休めしめんとすればなり。将軍過ちて聴き、以て寡人と郄有りとし、遂に燕を捐てて趙に帰す。将軍自ら計を為すは則ち可なり、而も亦何を以て先王の将軍を遇する所以の意に報いんや」と。 望諸君乃ち人をして書を献じて燕王に報ぜしめて曰く、「臣不佞にして、先王の教えを奉承し、以て左右の心に順う能わず、斧質の罪に抵れて以て先王の明を傷い、而も又足下の義を害せんことを恐れ、故に遁逃して趙に奔る。自ら不肖の罪を負う、故に敢えて辞説を為さず。今王使者をして之を数めしむ、臣侍御者の先王の臣を畜幸せし所以の理を察せずして、而も又臣の先王に事えし所以の心を白かにせざらんことを恐る、故に敢えて書を以て対う。 「臣聞く、賢聖の君は、禄を以て其の親を私せず、功多き者之を授く。官を以て其の愛に随わず、能く当たる者之に処る。故に能を察して官を授くる者は、成功の君なり。行いを論じて交わりを結ぶ者は、名を立つるの士なり。臣学ぶ所を以て之を観るに、先王の挙錯、世に高きの心有り、故に節を魏王に仮り、身を以て燕に察せらるるを得たり。先王過ちて挙げ、之を賓客の中より擢んで、之を群臣の上に立て、父兄に謀らずして、臣をして亜卿為らしめたり。臣自ら以為えらく、令を奉じ教えを承くれば、以て幸いに罪無かるべし、と、故に命を受けて辞せず。 「先王之に命じて曰く、『我斉に積怨深怒有り、軽弱を量らずして、斉を以て事と為さんと欲す』と。臣対えて曰く、『夫れ斉は霸国の余教にして、驟勝の遺事なり、兵甲に閑にして、戦攻に習う。王若し之を攻めんと欲せば、則ち必ず天下を挙げて之を図らん。天下を挙げて之を図るは、趙に結ぶより径なるは莫し。且つ又淮北・宋地は、楚・魏の同じく願う所なり。趙若し許さば、楚・魏を約し、宋力を尽くさば、四国之を攻め、斉大いに破るべし』と。先王曰く、『善し』と。臣乃ち口に令を受け、符節を具え、南のかた臣を趙に使わす。顧みて命に反り、兵を起こして隨いて斉を攻む。天の道、先王の霊を以て、河北の地、先王の挙に隨いて之を済上に有てり。済上の軍、令を奉じて斉を撃ち、大いに之に勝つ。軽卒鋭兵、長駆して国に至る。斉王逃遁して莒に走り、僅かに身を以て免る。珠玉財宝、車甲珍器、尽く収めて燕に入る。大呂は元英に陳ね、故鼎は暦室に反り、斉器は寧台に設く。薊丘の植は、汶皇に植う。五伯自り以来、功未だ先王に及ぶ者有らざるなり。先王以て其の志に愜うと為し、臣を以て命を頓かずと為し、故に地を裂きて之を封じ、小国の諸侯に比するを得しめたり。臣不佞にして、自ら以為えらく、令を奉じ教えを承くれば、以て幸いに罪無かるべし、と、故に命を受けて辞せず。 「臣聞く、賢明の君は、功立ちて廃せず、故に春秋に著る。蚤知の士は、名成りて毀れず、故に後世に称せらる。先王の怨に報い恥を雪ぎ、万乗の強国を夷らげ、八百年の蓄積を収め、群臣を棄つるの日に至りて、余令後嗣に詔ぐの遺義、政を執り事に任ずるの臣、能く法令に循い庶孽に順う所以の者、施して萌隸に及ぶが若きは、皆以て後世に教うべし。 「臣聞く、善く作す者は、必ずしも善く成さず。善く始むる者は、必ずしも善く終えず。昔者伍子胥説かれて闔閭に聴かれ、故に呉王遠く跡して郢に至る。夫差是とせず、之に鴟夷を賜いて江に浮かべたり。故に呉王夫差先論の以て功を立つべきを悟らず、故に子胥を沈めて悔いず。子胥主の量を同じくせざるを蚤く見ざりし、故に江に入りて改めず。夫れ身を免れ功を全うし、以て先王の跡を明らかにするは、臣の上計なり。毀辱の非に離れ、先王の名を堕とすは、臣の大いに恐るる所なり。不測の罪に臨みて、幸いを以て利と為すは、義の敢えて出ださざる所なり。 「臣聞く、古の君子は、交わり絶つとも悪声を出ださず。忠臣の去るや、其の名を潔くせず。臣不佞と雖も、数々君子に教えを奉れり。侍御者の左右の説に親しみて、疏遠の行いを察せざらんことを恐る。故に敢えて書を以て報ず、唯だ君の留意せんことを」と。

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