史記 / 春申君列伝
是歲也,秦始皇帝立九年矣。嫪毐亦為亂於秦,覺,夷其三族,而呂不韋廢。
新字:是歳也,秦始皇帝立九年矣。嫪毐亦為乱於秦,覚,夷其三族,而呂不韋廃。
書き下し
是の歳や、秦の始皇帝立ちて九年なり。嫪毐(ろうあい)もまた乱を秦に為す、覚られ、その三族を夷らげ、而して呂不韋廃せらる。
現代語訳
この年は、秦の始皇帝が即位して九年目であった。嫪毐もまた秦で反乱を起こしたが、発覚して、その三族を皆殺しにされ、呂不韋も罷免された。
解説
春申君が李園に殺された年に、秦でも起きていた政変を並べて記した一文です。春申君は考烈王の死後、朱英の警告どおり宮門で李園の刺客に殺され、一族も滅ぼされました(その場面は直前の章句にあります)。同じ年、秦では始皇帝の即位九年目に、太后の寵愛を受けた嫪毐が反乱を起こして一族皆殺しとなり、嫪毐を太后に近づけた呂不韋も罷免されました。司馬遷がわざわざこの一文を置いたのは、春申君と呂不韋の運命が驚くほど似ているからです。春申君は身ごもった女を王に差し出し、呂不韋も身ごもった趙姫を秦の子楚に差し出したと伝えられ、ともに王の後宮に絡む秘密に手を染め、同じ年に破滅しました。権力の中枢で、王の血筋という最も触れてはならない領域に手を出した者の末路を、二つの国の出来事で重ねて見せているのです。越えてはならない一線を越えた成功は、必ずどこかで清算を迫られるということを考えさせる結びです。
関連する章句
-
史記 呂不韋列伝始皇の九年、嫪毐実は宦者に非ず、常に太后と私乱し、子二人を生み、皆之を匿すと告ぐる有り。太后と謀りて曰く「王即し薨ぜば、子を以て後と為さん」と。是に於て秦王吏に下して治めしめ、具に情実を得たり。事は相国呂不韋に連なる。九月、嫪毐の三族を夷し、太后の生む所の両子を殺し、而して遂に太后を雍に遷す。諸々の嫪毐の舎人は皆其の家を没して之を蜀に遷す。王相国を誅せんと欲するも、其の先王に奉ずるの功大なる為、及び賓客弁士の為に游説する者衆く、王法を致すに忍びず。秦王の十年十月、相国呂不韋を免ず。斉人茅焦の秦王に説くに及び、秦王乃ち太后を雍に迎へ、帰りて咸陽に復せしめ、而して文信侯を出だして国の河南に就かしむ。歳余、諸侯の賓客使者、道に相望み、文信侯を請ふ。秦王其の変を為さんことを恐れ、乃ち文信侯に書を賜ひて曰く、「君何の功か秦に有る。秦は君を河南に封じ、十万戸を食ましむ。君何の親か秦に有る。号して仲父と称す。其れ家属と与に徙りて蜀に処れ」と。呂不韋自ら稍く侵さるるを度り、誅せられんことを恐れ、乃ち酖を飲みて死す。
-
史記 秦始皇本紀八年、王の弟長安君成蟜将軍として趙を撃ち、反き、屯留に死す。軍吏皆斬死せられ、其の民を臨洮に遷す。将軍壁死す。卒の屯留・蒲鶴反く。其の尸を戮す。河の魚大いに上り、軽車重馬東に食に就く。嫪毐封ぜられて長信侯と為る。之に山陽の地を予へ、毐をして之に居らしむ。宮室車馬衣服苑囿馳猟毐の恣にす。事小大と無く皆毐に決す。又河西の太原郡を以て更めて毐の国と為す。九年、彗星見え、或いは天を竟る。魏の垣・蒲陽を攻む。四月、上雍に宿す。己酉、王冠し、剣を帯ぶ。長信侯毐乱を作さんとして覚はる。王の御璽及び太后の璽を矯めて以て県卒及び衛卒・官騎・戎翟の君公・舎人を発し、将に蘄年宮を攻めて乱を為さんとす。王之を知り、相国昌平君・昌文君に令して卒を発して毐を攻めしむ。咸陽に戦ひ、首を斬ること数百、皆爵を拝す。宦者の皆戦中に在るに及ぶまで、亦爵一級を拝す。毐等敗走す。即ち国中に令す、毐を生け得る有らば、銭百万を賜ひ、之を殺さば、五十万と。尽く毐等を得たり。衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉等二十人皆梟首せらる。車裂して以て徇へ、其の宗を滅ぼす。其の舎人に及ぶまで、軽き者は鬼薪と為す。及び爵を奪ひて蜀に遷すこと四千余家、房陵に家せしむ。是の月寒凍し、死する者有り。楊端和衍氏を攻む。彗星西方に見え、又北方に見え、斗より以南八十日。十年、相国呂不韋嫪毐に坐して免ぜらる。桓齮将軍と為る。斉・趙来たりて酒を置く。斉人茅焦秦王に説きて曰く、「秦方に天下を以て事と為す。而るに大王母太后を遷すの名有り。恐らくは諸侯之を聞き、此に由りて秦に倍かん」と。秦王乃ち太后を雍に迎へて咸陽に入れ、復た甘泉宮に居らしむ。
-
史記 呂不韋列伝太史公曰く、「不韋及び嫪毐貴く、封じて文信侯と号す。人の嫪毐を告ぐるや、毐之を聞く。秦王左右を験するも、未だ発せず。上雍郊に之く。毐禍の起こるを恐れ、乃ち党と謀り、太后の璽を矯りて卒を発して以て蘄年宮に反す。吏を発して毐を攻む。毐敗れ亡げ走る。之を好畤に追斬し、遂に其の宗を滅ぼす。而して呂不韋此に由りて絀けらる。孔子の所謂『聞』なる者は、其れ呂子か」と。
-
史記 呂不韋列伝始皇帝益々壮なり。太后の淫止まず。呂不韋、覚られて禍の己に及ばんことを恐れ、乃ち私かに大陰人嫪毐を求めて以て舎人と為す。時に倡楽を縦にし、毐をして其の陰を以て桐輪を闕けて行かしめ、太后をして之を聞かしめ、以て太后を啗はしむ。太后聞き、果して私かに之を得んと欲す。呂不韋乃ち嫪毐を進め、詐りて人をして腐罪を以て之を告げしむ。不韋又陰かに太后に謂ひて曰く、「詐りて腐を事とせしむべし。則ち給事中を得ん」と。太后乃ち陰かに厚く主腐者の吏に賜ひ、詐りて之を論じ、其の須眉を抜きて宦者と為し、遂に太后に侍するを得たり。太后私かに与に通じ、絶だ之を愛す。身有り。太后人の之を知らんことを恐れ、詐りて卜ふに時を避くべしとし、宮を徙して雍に居る。嫪毐常に従ひ、賞賜甚だ厚く、事皆嫪毐に決す。嫪毐の家僮数千人、諸客の宦を求めて嫪毐の舎人と為る者千余人。始皇の七年、荘襄王の母夏太后薨ず。孝文王の后を華陽太后と曰ひ、孝文王と寿陵に会葬す。夏太后の子荘襄王は芷陽に葬らる。故に夏太后独り別に杜の東に葬られ、曰く「東のかた吾が子を望み、西のかた吾が夫を望む。後百年、旁らに当に万家の邑有るべし」と。
-
史記 呂不韋列伝秦王の怒りを加ふる所の呂不韋・嫪毐皆已に死す。乃ち皆嫪毐の舎人の蜀に遷されし者を復帰せしむ。始皇の十九年、太后薨ず。謚して帝太后と為し、荘襄王と茝陽に会葬す。
-
史記 春申君列伝後十七日、楚の考烈王卒し、李園果たして先づ入り、死士を棘門の内に伏す。春申君棘門に入るや、園の死士春申君を俠刺し、其の頭を斬りて、之を棘門の外に投ず。是に於いて遂に吏をして尽く春申君の家を滅ぼさしむ。而して李園の女弟初め春申君に幸せられ身有りて之を王に入れて生む所の子遂に立つ、是を楚の幽王と為す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る