史記 / 春申君列伝
太史公曰、吾適楚、觀春申君故城、宮室盛矣哉。初、春申君之說秦昭王、及出身遣楚太子歸、何其智之明也。後制於李園、旄矣。語曰、當斷不斷、反受其亂。春申君失朱英之謂邪。
新字:太史公曰、吾適楚、観春申君故城、宮室盛矣哉。初、春申君之説秦昭王、及出身遣楚太子帰、何其智之明也。後制於李園、旄矣。語曰、当断不断、反受其乱。春申君失朱英之謂邪。
書き下し
太史公曰く、「吾楚に適き、春申君の故城を観るに、宮室盛んなるかな。初め、春申君の秦の昭王に説き、身を出だして楚の太子を遣り帰すに及び、何ぞ其の智の明らかなる。後李園に制せらるるは、旄(おいぼれ)たり。語に曰く、断ずべくして断ぜざれば、反りて其の乱を受く、と。春申君は朱英を失ふの謂か」と。
現代語訳
太史公は言う。「私は楚へ行き、春申君の旧城を見た。宮殿の壮麗なことよ。かつて春申君が秦の昭王を説き、身を投げ出して楚の太子を帰国させたときの智恵は、なんと冴えていたことか。それが後に李園に手玉に取られたのは、耄碌したというべきである。ことわざにこう言う。断ずべきときに断じなければ、かえってその乱れを受ける、と。春申君が朱英の言を用いなかったのは、まさにこれであろうか」。
解説
一人の傑物の「才知の絶頂」と「晩年の衰え・判断の鈍り」を対比し、決断の遅れがもたらす災いを説いた、司馬遷の結びの一段です。司馬遷は、楚を訪れて春申君の旧城の壮麗な宮殿を目にし、その往時の権勢を偲びます。そして、春申君の生涯を、はっきりと二つの時期に分けて評します。前半——秦の昭王を説いて楚を救い、自らの命を賭して楚の太子を脱出させたときの春申君は、「なんと明晰な知恵の持ち主だったことか」と絶賛します。まさに才知の絶頂でした。ところが後半——李園ごときの計略にやすやすと操られ、朱英の警告も退けて破滅した晩年の春申君を、司馬遷は『旄(おいぼれ、耄碌)』と、容赦なく評します。かつての明察はどこへやら、判断力が完全に鈍っていた、と。そして、あまりに有名な警句を引きます。『当断不断、反受其乱(断ずべきときに断じなければ、かえってその乱れ〈災い〉を受ける)』。決断すべき局面で、油断や情に流されて決断を先延ばしにすれば、その報いは自分に返ってくる。春申君は、朱英が李園を討つべしと進言したその決断の機会を逃した——それが命取りだった、と司馬遷は結びます。ここに、二つの深い教訓があります。第一に、過去の成功や才知は、未来を保証しないということ。若き日にどれほど明晰だった人物でも、油断・慢心・判断力の衰えによって、晩年に致命的な過ちを犯しうる。かつての栄光にあぐらをかかず、常に自分の判断力を研ぎ澄まし続ける必要があります。第二に、『当断不断、反受其乱』——決断の遅れ・先延ばしがもたらす災い。危険の兆候が見えているのに、「まさか」「相手は弱い」「今のままでいい」と決断を回避すると、事態は悪化し、最悪の結果を招く。リーダーには、断じるべきときに断じる決断力が不可欠です。組織やキャリアにおいて、過去の成功に安住せず判断力を保ち続けること、そして決断すべき局面で情や油断に流されず、断固として決断すること——この二つが、身を守り、晩節を全うする知恵だと、春申君の栄光と転落の対比を通して、司馬遷は教えています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
太史公評春申君才知の絶頂と晩年の衰え当断不断反受其乱決断の遅れの災い過去の成功に安住しない
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