史記 / 白起王翦列伝
其九月,秦復發兵,使五大夫王陵攻趙邯鄲。
新字:其九月,秦復発兵,使五大夫王陵攻趙邯鄲。
書き下し
その九月、秦また兵を発し、五大夫王陵をして趙の邯鄲を攻めしむ。
現代語訳
その年の九月、秦は再び兵を起こし、五大夫(秦の爵位)の王陵に趙の都の邯鄲を攻めさせた。
解説
長平の戦いの翌年、昭王四十八年の九月に、秦が再び兵を起こして趙の都邯鄲を攻めたことを記した一文です。この年の正月に范雎の進言で韓・趙と和睦し兵を引いたばかりでしたが、趙が約束の六城を差し出さなかったことなどから、秦は改めて攻撃に出ました。このとき将に任じられたのは白起ではなく、五大夫の王陵でした。白起は病のため出陣できなかったと次の段で語られます。長平で趙軍を壊滅させた直後に攻めていれば落とせたかもしれない邯鄲を、和睦で時を置いたことで、趙は守りを立て直す時間を得ていました。好機を逃した後で改めて動いても、同じ成果は得られないということが、ここから続く苦戦で示されていきます。物事には攻めどきがあり、それを逃した後の立て直しがいかに難しいかを考えさせる短い一文です。
関連する章句
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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戦国策・昭王既息民繕兵昭王既に民を息め兵を繕い、復た趙を伐たんと欲す。武安君曰く、「不可なり」と。王曰く、「前年国虚しく民飢え、君百姓の力を量らずして、軍糧を益さんことを求めて趙を滅ぼさんとせり。今寡人民を息めて士を養い、糧食を蓄積し、三軍の俸前に倍する有り。而るに『不可』と曰うは、其の説何ぞや」と。武安君曰く、「長平の事、秦軍大いに剋ち、趙軍大いに破る。秦人歓喜し、趙人畏懼す。秦の民の死する者は厚く葬り、傷つく者は厚く養い、労する者は相饗し、飲食餔餽して、以て其の財を靡す。趙人の死する者は収むるを得ず、傷つく者は療するを得ず、涕泣相哀しみ、力を戮せて憂いを同じくし、田を耕し疾く作りて、以て其の財を生ず。今王軍を発し、其の前に倍すと雖も、臣趙国の守備を料るに、亦た以て十倍せん。趙は長平自り已来、君臣憂懼し、早朝晏退し、辞を卑くし幣を重くして、四面に出嫁し、燕・魏に結親し、斉・楚に連好し、慮を積み心を并せ、秦に備うるを務と為す。其の国内実し、其の交外成る。当今の時、趙未だ伐つ可からざるなり」と。王曰く、「寡人既に以て師を興せり」と。乃ち五校の大夫王陵をして将として趙を伐たしむ。陵戦いて利を失い、五校を亡う。王武安君をして将たらしめんと欲するも、武安君疾と称して行かず。王乃ち応侯をして往きて武安君に見えしめ、之を責めて曰く、「楚は地方五千里、戟を持つこと百万。君前に数万の衆を率いて楚に入り、鄢・郢を抜き、其の廟を焚き、東のかた竟陵に至り、楚人震恐し、東に徙りて敢えて西向かわず。韓・魏相率いて、兵を興すこと甚だ衆く、君将うる所の之に半ばする能わざるも、之と伊闕に戦いて、大いに二国の軍を破り、血を流して鹵を漂わし、首を斬ること二十四万。韓・魏是を以て今に至るまで東藩と称す。此れ君の功、天下聞かざる莫し。今趙卒の長平に死する者已に十に七、八、其の国虚弱なり、是を以て寡人大いに軍を発し、人数趙国の衆に倍す、君をして将たらしめんことを願う、必ず之を滅ぼさんと欲す。君嘗て寡を以て衆を撃ちて、勝を取ること神の如し、況んや彊を以て弱を撃ち、衆を以て寡を撃つをや」と。武安君曰く、「是の時楚王其の国大なるを恃み、其の政を恤えず、群臣相妬みて功を以てし、諂諛事を用い、良臣斥け疏んぜられ、百姓心離れ、城池修めず、既に良臣無く、又た守備無し。故に起兵を引きて深く入り、多く城邑を倍し、梁を発し舟を焚きて以て民を専らにし、以て郊野に掠め、以て軍食を足らすを得たり。此の時に当たり、秦の中の士卒、軍中を以て家と為し、将帥を父母と為し、約せずして親しみ、謀らずして信じ、一心同功、死して踵を旋らさず。楚人自ら其の地に戦い、咸な其の家を顧み、各々散心有りて、闘志有る莫し。是を以て能く功有り。伊闕の戦い、韓は魏を孤顧して、先んじて其の衆を用いんと欲せず。魏は韓の鋭を恃み、推して以て鋒と為さんと欲す。二軍の便を争うの力同じからず、是を以て臣疑兵を設くるを得て、以て韓陣を待ち、軍を専らにし鋭を并せて、魏の意わざるに触る。魏軍既に敗れ、韓軍自ら潰え、勝に乗じて北を逐い、是の故を以て能く功を立つ。皆利形勢を計るは、自然の理なり、何の神か之れ有らんや。今秦趙軍を長平に破り、遂に時を以て其の振懼に乗じて之を滅ぼさず、畏れて之を釈き、耕稼して以て其の蓄積を益し、孤を養い幼を長じて以て其の衆を益し、兵甲を繕治して以て其の強を益し、城を増し池を浚いて以て其の固を益さしむ。主節を折りて以て其の臣に下り、臣体を推して以て死士に下る。平原君の属に至るまで、皆妻妾をして行伍の間に補縫せしむ。臣人一心、上下力を同じくすること、猶お勾践の会稽に困しむの時のごときなり。以て之を合わせ伐たば、趙必ず固く守らん。其の軍に挑みて戦わしめんとするも、必ず肯えて出でず。其の国都を囲むも、必ず剋つ可からず。其の列城を攻むるも、必ず未だ拔く可からず。其の郊野を掠むるも、必ず得る所無し。兵出でて功無く、諸侯心を生じ、外救必ず至らん。臣其の害を見て、未だ其の利を睹ず。又た病みて、未だ行く能わず」と。応侯慚じて退き、以て王に言う。王曰く、「白起微かりせば、吾趙を滅ぼす能わざるか」と。復た益々軍を発し、更に王齕をして王陵に代わりて趙を伐たしむ。邯鄲を囲むこと八、九月、死傷する者衆きも、下さず。趙王軽鋭を出だして其の後を寇し、秦数々利あらず。武安君曰く、「臣の計を聴かず、今果たして何如」と。王之を聞きて怒り、因りて武安君に見え、彊いて之を起こして曰く、「君病むと雖も、彊いて寡人の為に臥して之を将いよ。功有らば、寡人の願いなり、将に君に重きを加えんとす。如し君行かずんば、寡人君を恨まん」と。武安君頓首して曰く、「臣行くと雖も功無く、罪を免るるを得るを知る。行かずと雖も罪無く、誅を免るるを得ざらん。然れども惟だ願わくは大王臣の愚計を覧、趙を釈きて民を養い、以て諸侯の変を待たれよ。其の恐懼を撫し、其の憍慢を伐ち、無道を誅滅し、以て諸侯に令せば、天下定む可し、何ぞ必ずしも趙を以て先と為さんや。此れ所謂一臣が為に屈して天下に勝つなり。大王若し臣の愚計を察せずして、必ず心を趙に快くせんと欲し、以て臣に罪を致さば、此れ亦た所謂一臣に勝ちて天下の為に屈するなり。夫れ一臣に勝つの厳、孰か天下に勝つの威の大なるに若かんや。臣聞く、明主は其の国を愛し、忠臣は其の名を愛すと。国破るれば復た完うす可からず、死卒は復た生く可からず。臣寧ろ重誅を伏受して死すとも、忍びて辱軍の将為らず。願わくは大王之を察せよ」と。王答えずして去る。
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『長短経』七雄略〔武安君、趙の長平の軍を破り、其の卒四十余万を降し、皆之を坑にす。進みて邯鄲を囲むも、軍糧属かず。乃ち衛先生を遣わして秦の昭王に言わしめて曰く「趙国は右に常山の険を倍にし、左に河漳の阻を帯び、代馬車騎の利有り。民人気勇にして、好んで兵戦を習い、常に諸侯を会して一たび約して之が縦長と為る。秦弱からざれば則ち六国必ず滅ぶことを明らかにす。秦の未だ志を天下に得ざる所以の者は、趙之が患いを為せばなり。今、大王の霊に頼りて、趙軍長平に破れ、其の信臣鋭卒、畢く死せざるは莫し。邯鄲空虚にして、百郡震怖し、士民咸な其の主を怨む。誠に此の時を以て転輸を遣わし、軍糧を給足せば、趙を滅ぼすこと必せり。趙を滅ぼして以て諸侯を威さば、天下定むべくして、王業成らん」と。秦王之を許さんと欲す。応侯、其の功を妬みて成さしむるを欲せず、秦王に言いて曰く「秦は趙軍を破ると雖も、士卒の死傷も亦た衆く、百姓は遠輸に疲れ、国内空虚なり。楚・魏、虚に乗じて変を為さば、将に以て自ら守ること無からんとす。宜しく且く兵を罷むべし」と。王之に従う。
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『長短経』七雄略後三年、復た白起を将として趙を伐たんと欲するも、起肯んぜず。王乃ち応侯をして之を責めしめて曰く「楚は地方五千里、戟を持つもの百万。君、前に数万の衆を率いて楚に入り、鄢郢を抜き、其の郊廟を焚く。楚人震恐し、東に徙りて敢えて西に向かわず。韓・魏相率いて兵を興すこと甚だ衆きも、君の将いる所は半ばにも能わず、而して之を伊闕に破り、流血、櫓を漂わす。韓・魏已に服し、今に至るまで東藩と称す。此れ君の功にして、天下聞かざるは莫し。今、趙卒の長平に死する者、已に十に七八。是を以て寡君、君をして将たらしめ、必ず之を滅ぼさんと欲す。君は常に寡を以て衆を撃ち、勝を取ること神の如し。況んや強を以て弱を撃ち、衆を以て寡を撃つをや」と。
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『長短経』七雄略今、秦軍は趙軍を長平に破るも、時を以て遂げず。其の振懼に乗じて之を滅ぼさず、畏れて之を釈き、耕稼して以て蓄積を益すことを得しむ。孤を養い幼を長じて以て其の衆を益し、兵甲を繕理して以て其の強を益し、城池を増浚して以て其の固きを益す。主は節を折りて以て其の臣に下り、臣は体を推して以て死士に下る。平原の属に至るまで、皆妻妾をして行伍の間に補縫せしむ。臣民心を一にし、上下力を同じくすること、猶お句践の会稽に困しめる時のごときなり。今を以て之を伐たば、趙は必ず固守せん。其の軍に挑みて戦わんとするも、必ず肯えて出でず。其の国都を囲むも、必ず克つべからず。其の列城を攻むるも、必ず抜くべからず。郊野に掠むるも、必ず得る所無し。兵久しくして功無くんば、諸侯心を生じ、外救必ず至らん。臣は其の害を見て、未だ其の利を覩ず。又た病みて行くこと能わず」と。応侯慚じて退く。秦乃ち王齕をして将として趙を伐たしむ。楚・魏果たして之を救うなり。〕
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