史記 / 白起王翦列伝
四十六年,秦攻韓緱氏、藺,拔之。四十七年,秦使左庶長王齕攻韓,取上黨。上黨民走趙。趙軍長平,以按據上黨民。四月,齕因攻趙。趙使廉頗將。趙軍士卒犯秦斥兵,秦斥兵斬趙裨將茄。六月,陷趙軍,取二鄣四尉。七月,趙軍筑壘壁而守之。秦又攻其壘,取二尉,敗其陣,奪西壘壁。廉頗堅壁以待秦,秦數挑戰,趙兵不出。趙王數以為讓。而秦相應侯又使人行千金於趙為反閒,曰:「秦之所惡,獨畏馬服子趙括將耳,廉頗易與,且降矣。」趙王既怒廉頗軍多失亡,軍數敗,又反堅壁不敢戰,而又聞秦反閒之言,因使趙括代廉頗將以擊秦。秦聞馬服子將,乃陰使武安君白起為上將軍。而王齕為尉裨將,令軍中有敢泄武安君將者斬。趙括至,則出兵擊秦軍。秦軍詳敗而走,張二奇兵以劫之。趙軍逐勝,追造秦壁。壁堅拒不得入,而秦奇兵二萬五千人絕趙軍後,又一軍五千騎絕趙壁閒,趙軍分而為二,糧道絕。而秦出輕兵擊之。趙戰不利,因筑壁堅守,以待救至。秦王聞趙食道絕,王自之河內,賜民爵各一級,發年十五以上悉詣長平,遮絕趙救及糧食。至九月,趙卒不得食四十六日,皆內陰相殺食。來攻秦壘,欲出。為四隊,四五復之,不能出。
新字:四十六年,秦攻韓緱氏、藺,抜之。四十七年,秦使左庶長王齕攻韓,取上党。上党民走趙。趙軍長平,以按拠上党民。四月,齕因攻趙。趙使廉頗将。趙軍士卒犯秦斥兵,秦斥兵斬趙裨将茄。六月,陥趙軍,取二鄣四尉。七月,趙軍筑塁壁而守之。秦又攻其塁,取二尉,敗其陣,奪西塁壁。廉頗堅壁以待秦,秦数挑戦,趙兵不出。趙王数以為譲。而秦相応侯又使人行千金於趙為反閒,曰:「秦之所悪,独畏馬服子趙括将耳,廉頗易与,且降矣。」趙王既怒廉頗軍多失亡,軍数敗,又反堅壁不敢戦,而又聞秦反閒之言,因使趙括代廉頗将以撃秦。秦聞馬服子将,乃陰使武安君白起為上将軍。而王齕為尉裨将,令軍中有敢泄武安君将者斬。趙括至,則出兵撃秦軍。秦軍詳敗而走,張二奇兵以劫之。趙軍逐勝,追造秦壁。壁堅拒不得入,而秦奇兵二万五千人絶趙軍後,又一軍五千騎絶趙壁閒,趙軍分而為二,糧道絶。而秦出軽兵撃之。趙戦不利,因筑壁堅守,以待救至。秦王聞趙食道絶,王自之河内,賜民爵各一級,発年十五以上悉詣長平,遮絶趙救及糧食。至九月,趙卒不得食四十六日,皆内陰相殺食。来攻秦塁,欲出。為四隊,四五復之,不能出。
書き下し
四十六年、秦、韓の緱氏・藺を攻め、これを抜く。四十七年、秦、左庶長王齕をして韓を攻めしめ、上党を取る。上党の民趙に走る。趙、長平に軍し、以て上党の民を按拠す。四月、齕因りて趙を攻む。趙、廉頗をして将たらしむ。趙軍の士卒、秦の斥兵を犯す、秦の斥兵、趙の裨将茄を斬る。六月、趙軍を陥れ、二鄣・四尉を取る。七月、趙軍、塁壁を筑きてこれを守る。秦またその塁を攻め、二尉を取り、その陣を敗り、西の塁壁を奪ふ。廉頗、壁を堅くして以て秦を待つ。秦数々戦ひを挑むも、趙の兵出でず。趙王数々以て譲むることを為す。而して秦の相応侯、また人をして千金を趙に行ひて反閒を為さしめて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服子趙括の将たるを畏るるのみ。廉頗は与し易く、且に降らんとす」と。趙王既に廉頗の軍の失亡多く、軍数々敗れ、また反りて壁を堅くして敢へて戦はざるを怒り、而してまた秦の反閒の言を聞き、因りて趙括をして廉頗に代はり将として以て秦を撃たしむ。秦、馬服子の将たるを聞き、乃ち陰かに武安君白起をして上将軍と為さしむ。而して王齕を尉裨将と為し、軍中に令して敢へて武安君の将たるを泄らす者有らば斬らしむ。趙括至り、則ち兵を出だして秦軍を撃つ。秦軍詳り敗れて走り、二つの奇兵を張りて以てこれを劫かす。趙軍勝ちに逐ひ、追ひて秦の壁に造る。壁堅く拒みて入るを得ず。而して秦の奇兵二万五千人、趙軍の後を絶ち、また一軍五千騎、趙の壁の閒を絶つ。趙軍分かれて二と為り、糧道絶ゆ。而して秦、軽兵を出だしてこれを撃つ。趙戦ひて利あらず、因りて壁を筑きて堅守し、以て救ひの至るを待つ。秦王、趙の食道絶ゆるを聞き、王自ら河内に之き、民に爵各々一級を賜ひ、年十五以上を発して悉く長平に詣らしめ、趙の救ひ及び糧食を遮絶す。九月に至り、趙の卒食を得ざること四十六日、皆内に陰かに相殺して食らふ。来たりて秦の塁を攻め、出でんと欲す。四隊を為り、四五たびこれを復するも、出づる能はず。
現代語訳
四十六年、秦は韓の緱氏と藺を攻めて落とした。四十七年、秦は左庶長の王齕に韓を攻めさせ、上党を取った。上党の民は趙へ逃げた。趙は長平に陣を敷き、上党の民を守り抑えた。四月、王齕はそのまま趙を攻めた。趙は廉頗を将とした。趙軍の兵が秦の斥候部隊を攻めると、秦の斥候部隊は趙の副将の茄を斬った。六月、秦は趙軍を打ち破り、二つの砦と四人の尉(部隊長)を取った。七月、趙軍は土塁と城壁を築いて守りを固めた。秦はさらにその土塁を攻め、二人の尉を取り、その陣を破って西の塁壁を奪った。廉頗は守りを固めて秦軍を待ち受けた。秦はたびたび戦いを挑んだが、趙の兵は出てこなかった。趙王はたびたび廉頗を責めた。そこへ秦の宰相の応侯(范雎)が、人に千金を持たせて趙で離間工作をさせ、こう言いふらさせた。「秦が恐れているのは、ただ馬服子の趙括が将となることだけだ。廉頗は相手にしやすく、もうすぐ降伏するだろう。」趙王は、廉頗の軍が多くの兵を失い、たびたび敗れたうえ、かえって守りを固めて戦おうとしないことにすでに腹を立てていた。そこへ秦の離間の噂を聞いたので、趙括を廉頗に代わる将として秦を攻撃させた。秦は馬服子が将になったと聞くと、ひそかに武安君白起を上将軍とした。そして王齕を尉裨将(副将)とし、軍中に、武安君が将であることを漏らした者は斬ると命じた。趙括は着任するとすぐに兵を出して秦軍を攻撃した。秦軍は負けたふりをして逃げ、二隊の奇兵を伏せて趙軍を待ち受けた。趙軍は勝ちに乗じて追撃し、秦の塁壁にまで迫った。しかし塁壁は堅く守られていて入れなかった。そこへ秦の奇兵二万五千人が趙軍の背後を断ち、さらに別の一軍五千騎が趙の塁壁との間を断ち切った。趙軍は二つに分断され、兵糧の道も断たれた。そこへ秦は身軽な兵を出して攻撃した。趙は戦って不利となり、塁壁を築いて固く守り、救援を待った。秦王は趙の兵糧の道が断たれたと聞くと、自ら河内に出向き、民に爵位を一級ずつ与え、十五歳以上の者をことごとく動員して長平に向かわせ、趙の救援と食糧を遮断した。九月になると、趙の兵は食べ物を得られないこと四十六日に及び、陣内でひそかに殺し合って人肉を食べるありさまになった。趙軍は秦の塁に攻めかかって包囲を抜け出そうとした。四隊に分かれて四、五回繰り返し突撃したが、抜け出せなかった。
解説
関連する章句
-
史記 白起王翦列伝その将軍趙括、鋭卒を出だして自ら搏戦す、秦軍趙括を射殺す。括の軍敗れ、卒四十万人武安君に降る。武安君計りて曰く、「前に秦已に上党を抜くも、上党の民は秦たるを楽しまずして趙に帰す。趙の卒は反覆す。尽くこれを殺すに非ずんば、恐らくは乱を為さん」と。乃ち詐りを挟みて尽くこれを阬殺し、その小なる者二百四十人を遺して趙に帰す。前後に斬首虜すること四十五万人。趙人大いに震ふ。四十八年十月、秦また上党郡を定む。秦、軍を分かちて二と為す。王齕は皮牢を攻め、これを抜く。司馬梗は太原を定む。
-
史記 廉頗藺相如列伝奇兵を縦ち、詳りて敗走し、而してその糧道を絶ち、その軍を分断して二と為す、士卒心を離す。四十余日、軍餓う、趙括鋭卒を出だして自ら博戦す、秦の軍趙括を射殺す。括の軍敗れ、数十万の衆遂に秦に降る、秦悉くこれを阬にす。趙の前後に亡ふ所凡そ四十五万。明年、秦の兵遂に邯鄲を囲む、歳余にして、幾ど脱るるを得ず。楚・魏の諸侯来たり救ふに頼りて、乃ち邯鄲の囲みを解くを得たり。趙王もまた括の母の先言を以て、竟に誅せざるなり。邯鄲の囲み解けてより五年、而して燕、栗腹の謀を用ふ、曰く「趙の壮者は長平に尽き、その孤未だ壮ならず」と。兵を挙げて趙を撃つ。趙、廉頗をして将たらしめ、撃ちて、大いに燕の軍を鄗に破り、栗腹を殺し、遂に燕を囲む。燕五城を割きて和を請ふ、乃ちこれを聴す。趙、尉文を以て廉頗を封じて信平君と為し、仮の相国と為す。
-
史記 趙世家秦其の労に服して趙其の利を受く。彊大と雖も之を小弱に得ること能はず。小弱顧って能く之を彊大に得んや。豈に無故の利に非ずと謂ふべけんや。且つ夫れ秦は牛田の水を以て糧を通じて蚕食し、上乗倍戦する者、上国の地を裂く。其の政行はる、与に難を為すべからず。必ず受くる勿かれ」と。王曰く、「今百万の軍を発して攻むるも、年を踰え歳を歴て未だ一城をも得ず。今城市邑十七を以て吾が国に幣す。此れ大利なり」と。趙豹出づ。王、平原君と趙禹とを召して之に告ぐ。対へて曰く、「百万の軍を発して攻むるも、歳を踰えて未だ一城をも得ず。今坐して城市邑十七を受く。此れ大利なり、失ふべからざるなり」と。王曰く、「善し」と。乃ち趙勝をして地を受けしめ、馮亭に告げて曰く、「敝国の使者臣勝、敝国の君勝をして命を致さしむ。万戸の都三を以て太守を封じ、千戸の都三をもて県令を封じ、皆世世侯と為さん。吏民皆爵三級を益し、吏民能く相安んずれば、皆之に六金を賜はん」と。馮亭涕を垂れて使者に見えずして曰く、「吾は三不義に処らざるなり。主の為に地を守りて、死固すること能はざるは、不義の一なり。之を秦に入れよとあるに、主の令を聴かざるは、不義の二なり。主の地を売りて之を食むは、不義の三なり」と。趙遂に兵を発して上党を取る。廉頗将軍、長平に軍す。七月、廉頗免ぜられて趙括代はりて将たり。秦人趙括を囲む。趙括軍を以て降る。卒四十余万皆之を阬にす。王、趙豹の計を聴かざりしを悔ゆ。故に長平の禍有り。王還り、秦に聴かず。秦邯鄲を囲む。武垣の令傅豹・王容・蘇射、燕の衆を率ゐて燕の地に反す。趙、霊丘を以て楚の相春申君を封ず。八年、平原君楚に如きて救ひを請ふ。還りて、楚来り救ひ、及び魏の公子無忌も亦来り救ふ。秦の邯鄲を囲むこと乃ち解く。十年、燕昌壮を攻め、五月之を抜く。
-
史記 秦本紀二十九年、大良造白起楚を攻め、郢を取りて南郡と為す。楚王走る。周君来たる。王楚王と襄陵に会す。白起武安君と為る。三十年、蜀の守若楚を伐ち、巫郡及び江南を取りて黔中郡と為す。三十一年、白起魏を伐ち、両城を取る。楚人我が江南に反く。三十二年、相の穣侯魏を攻め、大梁に至り、暴鳶を破り、首を斬ること四万。鳶走る。魏三県を入れて和を請ふ。三十三年、客卿胡陽魏の卷・蔡陽・長社を攻め、之を取る。芒卯を華陽に撃ち、之を破り、首を斬ること十五万。魏南陽を入れて以て和す。三十四年、秦魏・韓の上庸の地を与にして一郡と為し、南陽の免臣遷りて之に居る。三十五年、韓・魏・楚を佐けて燕を伐つ。初めて南陽郡を置く。三十六年、客卿灶斉を攻め、剛・寿を取り、穣侯に予ふ。三十八年、中更胡陽趙の閼与を攻むるも、取る能はず。四十年、悼太子魏に死し、帰りて芷陽に葬る。四十一年夏、魏を攻め、邢丘・懐を取る。四十二年、安国君太子と為る。十月、宣太后薨じ、芷陽の酈山に葬る。九月、穣侯出でて陶に之く。四十三年、武安君白起韓を攻め、九城を抜き、首を斬ること五万。四十四年、韓の南陽を攻め、之を取る。四十五年、五大夫賁韓を攻め、十城を取る。葉陽君悝出でて国に之き、未だ至らずして死す。四十七年、秦韓の上党を攻む。上党趙に降る。秦因りて趙を攻む。趙兵を発して秦を撃ち、相距ぐ。秦武安君白起をして撃たしめ、大いに趙を長平に破り、四十余万尽く之を殺す。四十八年十月、韓垣雍を献ず。秦の軍分かれて三軍と為る。武安君帰る。王齕将として趙の皮牢を伐ち、之を抜く。司馬梗北のかた太原を定め、尽く韓の上党を有つ。正月、兵罷め、復た上党を守る。
-
史記 廉頗藺相如列伝趙奢既已に秦の間を遣り、甲を巻きてこれに趨く、二日一夜にして至り、善く射る者をして閼与を去ること五十里にして軍せしむ。軍塁成る、秦人これを聞き、甲を悉くして至る。軍士許歴、軍事を以て諫めんことを請ふ、趙奢曰く、「これを内れよ」と。許歴曰く、「秦人は趙の師の此に至るを意はず、その来たること気盛んなり、将軍必ずその陣を厚く集めて以てこれを待て。然らずんば、必ず敗れん」と。趙奢曰く、「請ふ令を受けん」と。許歴曰く、「請ふ鈇質の誅に就かん」と。趙奢曰く、「胥つて後に邯鄲に令せん」と。許歴また諫めんことを請ひて曰く、「先に北山の上に拠る者は勝ち、後れて至る者は敗る」と。趙奢許諾し、即ち万人を発してこれに趨かしむ。秦の兵後れて至り、山を争ひて上るを得ず、趙奢兵を縦にしてこれを撃ち、大いに秦の軍を破る。秦の軍解きて走り、遂に閼与の囲みを解きて帰る。趙の恵文王、奢に号を賜ひて馬服君と為し、許歴を以て国尉と為す。趙奢是に於いて廉頗・藺相如と位を同じくす。後四年、趙の恵文王卒し、子の孝成王立つ。七年、秦と趙と兵長平に相距ぐ。時に趙奢已に死し、而して藺相如病篤し、趙、廉頗をして将として秦を攻めしむ、秦数々趙の軍を敗る、趙の軍壁を固くして戦はず。秦数々戦ひを挑む、廉頗肯んぜず。趙王秦の間を信ず。秦の間言ひて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服君趙奢の子趙括の将と為るを畏るるのみ」と。趙王因りて括を以て将と為し、廉頗に代へんとす。藺相如曰く、「王、名を以て括を使ふは、柱に膠して瑟を鼓するが若きのみ。括は徒だ能くその父の書伝を読むのみにして、変に合するを知らざるなり」と。趙王聴かず、遂にこれを将とす。
-
『長短経』七雄略〔武安君、趙の長平の軍を破り、其の卒四十余万を降し、皆之を坑にす。進みて邯鄲を囲むも、軍糧属かず。乃ち衛先生を遣わして秦の昭王に言わしめて曰く「趙国は右に常山の険を倍にし、左に河漳の阻を帯び、代馬車騎の利有り。民人気勇にして、好んで兵戦を習い、常に諸侯を会して一たび約して之が縦長と為る。秦弱からざれば則ち六国必ず滅ぶことを明らかにす。秦の未だ志を天下に得ざる所以の者は、趙之が患いを為せばなり。今、大王の霊に頼りて、趙軍長平に破れ、其の信臣鋭卒、畢く死せざるは莫し。邯鄲空虚にして、百郡震怖し、士民咸な其の主を怨む。誠に此の時を以て転輸を遣わし、軍糧を給足せば、趙を滅ぼすこと必せり。趙を滅ぼして以て諸侯を威さば、天下定むべくして、王業成らん」と。秦王之を許さんと欲す。応侯、其の功を妬みて成さしむるを欲せず、秦王に言いて曰く「秦は趙軍を破ると雖も、士卒の死傷も亦た衆く、百姓は遠輸に疲れ、国内空虚なり。楚・魏、虚に乗じて変を為さば、将に以て自ら守ること無からんとす。宜しく且く兵を罷むべし」と。王之に従う。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る