史記 / 白起王翦列伝
其將軍趙括出銳卒自搏戰,秦軍射殺趙括。括軍敗,卒四十萬人降武安君。武安君計曰:「前秦已拔上黨,上黨民不樂為秦而歸趙。趙卒反覆。非盡殺之,恐為亂。」乃挾詐而盡阬殺之,遺其小者二百四十人歸趙。前後斬首虜四十五萬人。趙人大震。四十八年十月,秦復定上黨郡。秦分軍為二:王齕攻皮牢,拔之;司馬梗定太原。
新字:其将軍趙括出鋭卒自搏戦,秦軍射殺趙括。括軍敗,卒四十万人降武安君。武安君計曰:「前秦已抜上党,上党民不楽為秦而帰趙。趙卒反覆。非尽殺之,恐為乱。」乃挟詐而尽阬殺之,遺其小者二百四十人帰趙。前後斬首虜四十五万人。趙人大震。四十八年十月,秦復定上党郡。秦分軍為二:王齕攻皮牢,抜之;司馬梗定太原。
書き下し
その将軍趙括、鋭卒を出だして自ら搏戦す、秦軍趙括を射殺す。括の軍敗れ、卒四十万人武安君に降る。武安君計りて曰く、「前に秦已に上党を抜くも、上党の民は秦たるを楽しまずして趙に帰す。趙の卒は反覆す。尽くこれを殺すに非ずんば、恐らくは乱を為さん」と。乃ち詐りを挟みて尽くこれを阬殺し、その小なる者二百四十人を遺して趙に帰す。前後に斬首虜すること四十五万人。趙人大いに震ふ。四十八年十月、秦また上党郡を定む。秦、軍を分かちて二と為す。王齕は皮牢を攻め、これを抜く。司馬梗は太原を定む。
現代語訳
趙の将軍の趙括は精鋭を出して自ら奮戦したが、秦軍は趙括を射殺した。趙括の軍は敗れ、兵四十万人が武安君に降伏した。武安君は考えて言った。「以前、秦が上党を落としたときも、上党の民は秦の民になることを喜ばず、趙に身を寄せた。趙の兵は寝返りやすい。すべて殺してしまわなければ、反乱を起こすおそれがある。」そこで偽りの手を使って降兵をことごとく生き埋めにし、年少の者二百四十人だけを残して趙へ帰した。前後合わせて斬ったり捕らえたりした者は四十五万人に上った。趙の人々は大いに震え上がった。四十八年十月、秦は再び上党郡を平定した。秦は軍を二つに分けた。王齕は皮牢を攻めて落とし、司馬梗は太原を平定した。
解説
関連する章句
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史記 白起王翦列伝四十六年、秦、韓の緱氏・藺を攻め、これを抜く。四十七年、秦、左庶長王齕をして韓を攻めしめ、上党を取る。上党の民趙に走る。趙、長平に軍し、以て上党の民を按拠す。四月、齕因りて趙を攻む。趙、廉頗をして将たらしむ。趙軍の士卒、秦の斥兵を犯す、秦の斥兵、趙の裨将茄を斬る。六月、趙軍を陥れ、二鄣・四尉を取る。七月、趙軍、塁壁を筑きてこれを守る。秦またその塁を攻め、二尉を取り、その陣を敗り、西の塁壁を奪ふ。廉頗、壁を堅くして以て秦を待つ。秦数々戦ひを挑むも、趙の兵出でず。趙王数々以て譲むることを為す。而して秦の相応侯、また人をして千金を趙に行ひて反閒を為さしめて曰く、「秦の悪む所は、独り馬服子趙括の将たるを畏るるのみ。廉頗は与し易く、且に降らんとす」と。趙王既に廉頗の軍の失亡多く、軍数々敗れ、また反りて壁を堅くして敢へて戦はざるを怒り、而してまた秦の反閒の言を聞き、因りて趙括をして廉頗に代はり将として以て秦を撃たしむ。秦、馬服子の将たるを聞き、乃ち陰かに武安君白起をして上将軍と為さしむ。而して王齕を尉裨将と為し、軍中に令して敢へて武安君の将たるを泄らす者有らば斬らしむ。趙括至り、則ち兵を出だして秦軍を撃つ。秦軍詳り敗れて走り、二つの奇兵を張りて以てこれを劫かす。趙軍勝ちに逐ひ、追ひて秦の壁に造る。壁堅く拒みて入るを得ず。而して秦の奇兵二万五千人、趙軍の後を絶ち、また一軍五千騎、趙の壁の閒を絶つ。趙軍分かれて二と為り、糧道絶ゆ。而して秦、軽兵を出だしてこれを撃つ。趙戦ひて利あらず、因りて壁を筑きて堅守し、以て救ひの至るを待つ。秦王、趙の食道絶ゆるを聞き、王自ら河内に之き、民に爵各々一級を賜ひ、年十五以上を発して悉く長平に詣らしめ、趙の救ひ及び糧食を遮絶す。九月に至り、趙の卒食を得ざること四十六日、皆内に陰かに相殺して食らふ。来たりて秦の塁を攻め、出でんと欲す。四隊を為り、四五たびこれを復するも、出づる能はず。
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史記 廉頗藺相如列伝奇兵を縦ち、詳りて敗走し、而してその糧道を絶ち、その軍を分断して二と為す、士卒心を離す。四十余日、軍餓う、趙括鋭卒を出だして自ら博戦す、秦の軍趙括を射殺す。括の軍敗れ、数十万の衆遂に秦に降る、秦悉くこれを阬にす。趙の前後に亡ふ所凡そ四十五万。明年、秦の兵遂に邯鄲を囲む、歳余にして、幾ど脱るるを得ず。楚・魏の諸侯来たり救ふに頼りて、乃ち邯鄲の囲みを解くを得たり。趙王もまた括の母の先言を以て、竟に誅せざるなり。邯鄲の囲み解けてより五年、而して燕、栗腹の謀を用ふ、曰く「趙の壮者は長平に尽き、その孤未だ壮ならず」と。兵を挙げて趙を撃つ。趙、廉頗をして将たらしめ、撃ちて、大いに燕の軍を鄗に破り、栗腹を殺し、遂に燕を囲む。燕五城を割きて和を請ふ、乃ちこれを聴す。趙、尉文を以て廉頗を封じて信平君と為し、仮の相国と為す。
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史記 趙世家秦其の労に服して趙其の利を受く。彊大と雖も之を小弱に得ること能はず。小弱顧って能く之を彊大に得んや。豈に無故の利に非ずと謂ふべけんや。且つ夫れ秦は牛田の水を以て糧を通じて蚕食し、上乗倍戦する者、上国の地を裂く。其の政行はる、与に難を為すべからず。必ず受くる勿かれ」と。王曰く、「今百万の軍を発して攻むるも、年を踰え歳を歴て未だ一城をも得ず。今城市邑十七を以て吾が国に幣す。此れ大利なり」と。趙豹出づ。王、平原君と趙禹とを召して之に告ぐ。対へて曰く、「百万の軍を発して攻むるも、歳を踰えて未だ一城をも得ず。今坐して城市邑十七を受く。此れ大利なり、失ふべからざるなり」と。王曰く、「善し」と。乃ち趙勝をして地を受けしめ、馮亭に告げて曰く、「敝国の使者臣勝、敝国の君勝をして命を致さしむ。万戸の都三を以て太守を封じ、千戸の都三をもて県令を封じ、皆世世侯と為さん。吏民皆爵三級を益し、吏民能く相安んずれば、皆之に六金を賜はん」と。馮亭涕を垂れて使者に見えずして曰く、「吾は三不義に処らざるなり。主の為に地を守りて、死固すること能はざるは、不義の一なり。之を秦に入れよとあるに、主の令を聴かざるは、不義の二なり。主の地を売りて之を食むは、不義の三なり」と。趙遂に兵を発して上党を取る。廉頗将軍、長平に軍す。七月、廉頗免ぜられて趙括代はりて将たり。秦人趙括を囲む。趙括軍を以て降る。卒四十余万皆之を阬にす。王、趙豹の計を聴かざりしを悔ゆ。故に長平の禍有り。王還り、秦に聴かず。秦邯鄲を囲む。武垣の令傅豹・王容・蘇射、燕の衆を率ゐて燕の地に反す。趙、霊丘を以て楚の相春申君を封ず。八年、平原君楚に如きて救ひを請ふ。還りて、楚来り救ひ、及び魏の公子無忌も亦来り救ふ。秦の邯鄲を囲むこと乃ち解く。十年、燕昌壮を攻め、五月之を抜く。
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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史記 白起王翦列伝白起は郿の人なり。善く兵を用ひ、秦の昭王に事ふ。昭王の十三年、而して白起左庶長と為り、将として韓の新城を撃つ。是の歳、穣侯秦に相たり、任鄙を挙げて以て漢中の守と為す。その明年、白起左更と為り、韓・魏を伊闕に攻め、斬首二十四万、またその将公孫喜を虜にし、五城を抜く。起遷りて国尉と為る。河を渉りて韓の安邑以東を取り、乾河に到る。明年、白起大良造と為る。魏を攻めてこれを抜き、城の小大六十一を取る。明年、起、客卿錯と垣城を攻め、これを抜く。後五年、白起趙を攻め、光狼城を抜く。後七年、白起楚を攻め、鄢・鄧の五城を抜く。その明年、楚を攻め、郢を抜き、夷陵を焼き、遂に東して竟陵に至る。楚王亡げて郢を去り、東に走りて陳に徙る。秦、郢を以て南郡と為す。白起遷りて武安君と為る。武安君因りて楚を取り、巫・黔中郡を定む。昭王の三十四年、白起魏を攻め、華陽を抜き、芒卯を走らせ、而して三晋の将を虜にし、斬首十三万。趙将賈偃と戦ひ、その卒二万人を河中に沈む。昭王の四十三年、白起韓の陘城を攻め、五城を抜き、斬首五万。四十四年、白起南陽の太行道を攻め、これを絶つ。四十五年、韓の野王を伐つ。野王秦に降り、上党の道絶ゆ。その守馮亭、民と謀りて曰く、「鄭の道已に絶ゆ、韓必ず得て民と為すべからず。秦の兵日に進み、韓応ずる能はず。上党を以て趙に帰するに如かず。趙若し我を受けば、秦怒りて必ず趙を攻めん。趙兵を被らば、必ず韓に親しまん。韓趙一と為らば、則ち以て秦に当たるべし」と。因りて人をして趙に報ぜしむ。趙の孝成王、平陽君・平原君とこれを計る。平陽君曰く、「受くること勿きに如かず。これを受けば、禍は得る所より大ならん」と。平原君曰く、「故無くして一郡を得、これを受くるは便なり」と。趙これを受け、因りて馮亭を封じて華陽君と為す。
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『長短経』七雄略〔武安君、趙の長平の軍を破り、其の卒四十余万を降し、皆之を坑にす。進みて邯鄲を囲むも、軍糧属かず。乃ち衛先生を遣わして秦の昭王に言わしめて曰く「趙国は右に常山の険を倍にし、左に河漳の阻を帯び、代馬車騎の利有り。民人気勇にして、好んで兵戦を習い、常に諸侯を会して一たび約して之が縦長と為る。秦弱からざれば則ち六国必ず滅ぶことを明らかにす。秦の未だ志を天下に得ざる所以の者は、趙之が患いを為せばなり。今、大王の霊に頼りて、趙軍長平に破れ、其の信臣鋭卒、畢く死せざるは莫し。邯鄲空虚にして、百郡震怖し、士民咸な其の主を怨む。誠に此の時を以て転輸を遣わし、軍糧を給足せば、趙を滅ぼすこと必せり。趙を滅ぼして以て諸侯を威さば、天下定むべくして、王業成らん」と。秦王之を許さんと欲す。応侯、其の功を妬みて成さしむるを欲せず、秦王に言いて曰く「秦は趙軍を破ると雖も、士卒の死傷も亦た衆く、百姓は遠輸に疲れ、国内空虚なり。楚・魏、虚に乗じて変を為さば、将に以て自ら守ること無からんとす。宜しく且く兵を罷むべし」と。王之に従う。
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