史記 / 穰侯列伝
此臣之所聞於魏也,願君王之以是慮事也。《周書》曰『惟命不于常』,此言幸之不可數也。夫戰勝暴子,割八縣,此非兵力之精也,又非計之工也,天幸為多矣。今又走芒卯,入北宅,以攻大梁,是以天幸自為常也。智者不然。臣聞魏氏悉其百縣勝甲以上戍大梁,臣以為不下三十萬。以三十萬之眾守梁七仞之城,臣以為湯、武復生,不易攻也。夫輕背楚、趙之兵,陵七仞之城,戰三十萬之眾,而志必舉之,臣以為自天地始分以至于今,未嘗有者也。攻而不拔,秦兵必罷,陶邑必亡,則前功必棄矣。今魏氏方疑,可以少割收也。願君逮楚、趙之兵未至於梁,亟以少割收魏。魏方疑而得以少割為利,必欲之,則君得所欲矣。楚、趙怒於魏之先己也,必爭事秦,從以此散,而君後擇焉。且君之得地豈必以兵哉!邦晉國,秦兵不攻,而魏必效絳安邑。又為陶開兩道,幾盡故宋,衛必效單父。秦兵可全,而君制之,何索而不得,何為而不成!願君熟慮之而無行危。」穰侯曰:「善。」乃罷梁圍。明年,魏背秦,與齊從親。秦使穰侯伐魏,斬首四萬,走魏將暴鳶,得魏三縣。穰侯益封。
新字:此臣之所聞於魏也,願君王之以是慮事也。《周書》曰『惟命不于常』,此言幸之不可数也。夫戦勝暴子,割八県,此非兵力之精也,又非計之工也,天幸為多矣。今又走芒卯,入北宅,以攻大梁,是以天幸自為常也。智者不然。臣聞魏氏悉其百県勝甲以上戍大梁,臣以為不下三十万。以三十万之衆守梁七仞之城,臣以為湯、武復生,不易攻也。夫軽背楚、趙之兵,陵七仞之城,戦三十万之衆,而志必舉之,臣以為自天地始分以至于今,未嘗有者也。攻而不抜,秦兵必罷,陶邑必亡,則前功必棄矣。今魏氏方疑,可以少割収也。願君逮楚、趙之兵未至於梁,亟以少割収魏。魏方疑而得以少割為利,必欲之,則君得所欲矣。楚、趙怒於魏之先己也,必争事秦,従以此散,而君後択焉。且君之得地豈必以兵哉!邦晋国,秦兵不攻,而魏必効絳安邑。又為陶開両道,幾尽故宋,衛必効単父。秦兵可全,而君制之,何索而不得,何為而不成!願君熟慮之而無行危。」穰侯曰:「善。」乃罷梁囲。明年,魏背秦,与斉従親。秦使穰侯伐魏,斬首四万,走魏将暴鳶,得魏三県。穰侯益封。
書き下し
此れ臣の魏に聞く所なり、願はくは君[王]の是を以て事を慮らんことを。周書に曰く『惟れ命は常に于てせず』と。此れ幸ひの数々すべからざるを言ふなり。夫れ暴子に戦ひ勝ち、八県を割くは、此れ兵力の精なるに非ず、また計の工なるに非ず、天幸多しと為す。今また芒卯を走らせ、北宅に入り、以て大梁を攻むるは、是れ天幸を以て自ら常と為すなり。智者は然らず。臣聞く、魏氏はその百県の勝甲以上を悉くして以て大梁を戍る、臣以為へらく三十万を下らず。三十万の衆を以て梁の七仞の城を守らば、臣以為へらく湯・武また生まるとも、攻め易からず。夫れ軽々しく楚・趙の兵に背き、七仞の城を陵ぎ、三十万の衆と戦ひて、志必ずこれを挙げんとするは、臣以為へらく天地始めて分かれてより以て今に至るまで、未だ嘗て有らざる者なり。攻めて抜けずんば、秦の兵必ず罷れ、陶邑必ず亡び、則ち前功必ず棄てられん。今、魏氏方に疑ふ、少しく割くを以て収むべきなり。願はくは君、楚・趙の兵の未だ梁に至らざるに逮びて、亟やかに少しく割くを以て魏を収めよ。魏方に疑ひて少しく割くを以て利と為すを得ば、必ずこれを欲せん、則ち君欲する所を得ん。楚・趙は魏の己に先んずるを怒り、必ず秦に事ふることを争はん。従はこれを以て散じ、而して君後に択ばん。且つ君の地を得るは豈に必ずしも兵を以てせんや。晋国を邦して、秦の兵攻めずして、魏必ず絳・安邑を效さん。また陶の為に両道を開き、幾ど故宋を尽くさば、衛必ず単父を效さん。秦の兵全くして、君これを制す、何を索めてか得ざらん、何を為してか成らざらん。願はくは君これを熟慮して危ふきを行ふこと無かれ」と。穣侯曰く、「善し」と。乃ち梁の囲みを罷む。明年、魏、秦に背き、斉と従親す。秦、穣侯をして魏を伐たしめ、斬首四万、魏将暴鳶を走らせ、魏の三県を得。穣侯益々封ぜらる。
現代語訳
「これが私が魏で聞いたことだ。どうか君(穣侯)はこのことを踏まえて事を考えてほしい。『周書』に『天命は一定のところにとどまらない』とある。これは幸運は何度も続かないということを言っているのだ。そもそも暴子に勝って八県を割き取ったのは、兵力が優れていたからでも、計略が巧みだったからでもなく、天の幸いによるところが大きかった。いままた芒卯を敗走させ、北宅に入って大梁を攻めようとするのは、天の幸いをいつものことと思い込むことだ。知恵ある者はそうはしない。私の聞くところでは、魏は百の県から武器を取れる者を残らず集めて大梁を守らせており、その数は三十万を下らないと私は見ている。三十万の兵で七仞(一仞は約七、八尺)の高さの大梁の城を守れば、殷の湯王や周の武王がよみがえっても、たやすくは攻められないだろう。楚・趙の兵を軽んじて背後に置いたまま、七仞の城壁をよじ登り、三十万の兵と戦って、必ず落とそうと思うなど、天と地が分かれてから今日まで、いまだかつてなかったことだと私は思う。攻めて落とせなければ、秦の兵は必ず疲れ果て、(あなたの領地の)陶邑は必ず失われ、これまでの功績もすべて無駄になるだろう。いま魏はちょうど迷っているところだから、少しの割譲で手を打てる。どうか楚・趙の兵がまだ大梁に着かないうちに、急いで少しの割譲で魏と和を結んでほしい。魏は迷っているところへ少しの割譲ですむという利益を得れば、必ずそれを望むだろう。そうすればあなたは望むものを手に入れられる。楚・趙は魏が自分たちより先に秦と結んだことに怒り、必ず競って秦に仕えようとするだろう。合従(諸国の対秦同盟)はこれで崩れ、あなたはその後でゆっくり相手を選べばよい。それに、あなたが土地を得るのに、どうして兵を使う必要があろう。晋の旧領を分け取れば、秦の兵が攻めなくても、魏は必ず絳と安邑を差し出すだろう。また陶のために二本の道を開き、旧宋の地をほぼ手に入れれば、衛は必ず単父を差し出すだろう。秦の兵を損なわずに保ち、あなたがこれを采配すれば、何を求めて得られないことがあろう、何をして成し遂げられないことがあろう。どうかあなたはよくよく考えて、危ういことをしないでほしい。」穣侯は「よろしい」と言って、大梁の包囲を解いた。翌年、魏は秦に背き、斉と合従して親しんだ。秦は穣侯に魏を討たせ、穣侯は四万の首を斬り、魏の将暴鳶を敗走させて、魏の三つの県を得た。穣侯はさらに封地を加えられた。
解説
関連する章句
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戦国策・秦敗魏於華走芒卯而圍大梁秦魏を華に敗り、芒卯を走らせて大梁を囲む。須賈魏の為に穰侯に謂いて曰く、「臣聞く、魏氏の大臣父兄皆魏王に謂いて曰く、『初め時に惠王趙を伐ち、三梁に戦い勝ち、十万の軍もて邯鄲を抜くも、趙氏割かず、而して邯鄲復た帰す。齊人燕を攻め、子之を殺し、故国を破るも、燕割かず、而して燕国復た帰す。燕・趙の国全く兵勁(つよ)くして、地の諸侯に并(あ)わされざる所以の者は、其の能く難を忍びて重ねて地を出だすを以てなり。宋・中山数々伐たれ数々割き、而して随いて以て亡ぶ。臣以為(おも)えらく燕・趙は法とす可く、宋・中山は為す無かる可し。夫れ秦は貪戾の国にして親無く、魏を蠶食(さんしょく)して、晉国を尽くさんとし、睪子(こうし)に戦い勝ち、八県を割くも、地未だ畢(ことごと)く入らずして兵復た出づ。夫れ秦何の厭(あ)くこと有らんや。今又芒卯を走らせ、北地に入る、此れ但(ただ)に梁を攻むるのみに非ず、且つ王を劫(おびやか)して以て多く割かしめんとするなり、王必ず聴く勿かれ。今王楚・趙に循(したが)いて講ぜば、楚・趙怒りて王と与に秦に事うるを争わば、秦必ず之を受けん。秦楚・趙の兵を挟みて以て復た攻めば、則ち国救亡す可からざるなり。願わくは王の必ず講ずる無からんことを。王若し講ぜんと欲せば、必ず少しく割きて質有らしめよ、然らずんば必ず欺かれん』と。是れ臣の魏に聞く所なり、願わくは君の是を以て事を慮らんことを。「周書に曰く、『命常に于(お)けらず』と。此れ幸(さいわ)いの数(しばしば)す可からざるを言うなり。夫れ睪子に戦い勝ちて、八県を割くは、此れ兵力の精なるに非ず、計の工(たく)みなるに非ず、天幸多しと為すなり。今又芒卯を走らせ、北地に入り、以て大梁を攻む、是れ天幸を以て自ら常と為すなり。知者は然らず。「臣聞く魏氏悉く其の百県の勝兵を以て、止まりて大梁を戍(まも)る、臣以為えらく卅万を下らず。卅万の衆を以て、十仞の城を守れば、臣以為えらく湯・武復び生ずと雖も、易く攻めざるなり。夫れ軽々しく楚・趙の兵を信じて、十仞の城を陵(しの)ぎ、卅万の衆を戴きて、志必ず之を挙げんとするは、臣以為えらく天下の始めて分かれてより以て今に至るまで、未だ嘗て之有らざるなり。攻めて拔く能わざれば、秦兵必ず罷れ、陰必ず亡びん、則ち前功必ず棄てられん。今魏方(まさ)に疑う、少しく割きて収む可し。願わくは楚・趙の兵未だ大梁に任ぜざるに及びて、亟(すみ)やかに少しく割きて収めよ。魏方に疑い、而して少しく割きて和と為すを得れば、必ず之を欲せば、則ち君欲する所を得ん。楚・趙魏の己に先んじて講ずるに怒り、必ず争いて秦に事えん。是れより以て散じ、而して君後に択ばん。且つ君の嘗て晉国を割きて地を取るや、何ぞ必ずしも兵を以てせんや。夫れ兵用いずして、魏絳・安邑を効し、又陰に両機を啓(ひら)き、故宋を尽くし、衛効すること尤も憚(はばか)る。秦兵已に令せられ、而して君之を制せば、何を求めて得ざらん、何を為して成らざらん。臣願わくは君の熟計して危きを行う無からんことを」と。穰侯曰く、「善し」と。乃ち梁の囲みを罷(や)む。
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史記 穰侯列伝穣侯封ぜらるること四歳、秦の将と為りて魏を攻む。魏、河東の方四百里を献ず。魏の河内を抜き、城の大小六十余を取る。昭王の十九年、秦は西帝と称し、斉は東帝と称す。月余にして、呂礼来たり、而して斉・秦各々また帝を帰して王と為る。魏冉また秦に相たり、六歳にして免ぜらる。免ぜらるること二歳にして、また秦に相たり。四歳にして、白起をして楚の郢を抜かしめ、秦は南郡を置く。乃ち白起を封じて武安君と為す。白起は穣侯の任挙する所なり、相善し。是に於いて穣侯の富は王室より富めり。昭王の三十二年、穣侯相国と為り、兵を将ゐて魏を攻め、芒卯を走らせ、北宅に入り、遂に大梁を囲む。梁の大夫須賈、穣侯に説きて曰く、「臣聞く、魏の長吏、魏王に謂ひて曰く、『昔、梁の恵王趙を伐ち、三梁に戦ひ勝ち、邯鄲を抜く。趙氏割かずして、邯鄲また帰る。斉人衛を攻め、故国を抜き、子良を殺す。衛人割かずして、故地また反る。衛・趙の国全く兵勁くして地の諸侯に并せられざる所以の者は、その能く難を忍びて地を出だすを重んずるを以てなり。宋・中山は数々伐たれて地を割き、国随ひて以て亡ぶ。臣以為へらく、衛・趙は法とすべく、宋・中山は戒めと為すべきなり。秦は貪戻の国なり、親しむこと毋かれ。魏氏を蚕食し、また晋国を尽くし、暴子に戦ひ勝ち、八県を割く。地未だ畢く入らずして、兵また出づ。夫れ秦何の厭くことかこれ有らんや。今また芒卯を走らせ、北宅に入る。此れ敢へて梁を攻むるに非ざるなり、且に王を劫かして以て多く地を割かんことを求めんとするなり。王必ず聴くこと勿かれ。今、王、楚・趙に背きて秦に講ぜば、楚・趙怒りて王を去り、王と秦に事ふることを争はん、秦必ずこれを受けん。秦、楚・趙の兵を挟みて以てまた梁を攻めば、則ち国亡ぶること無きを求むるも得べからざるなり。願はくは王の必ず講ずること無からんことを。王若し講ぜんと欲せば、少しく割きて質を有て。然らずんば、必ず欺かれん』と。
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戦国策・穰侯攻大梁穰侯大梁を攻め、北郢に乗じ、魏王且に従わんとす。穰侯に謂いて曰く、「君楚を攻めて宛・穰を得て以て陶を広め、斉を攻めて剛・博を得て以て陶を広め、許・鄢陵を得て以て陶を広むるに、秦王問わざるは何ぞや。大梁の未だ亡びざるを以てなり。今日大梁亡べば、許・鄢陵必ず議せん、議すれば則ち君必ず窮せん。君の為に計る者は、攻めざるを便とす。」
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史記 穰侯列伝明年、穣侯、白起・客卿胡陽と復た趙・韓・魏を攻め、芒卯を華陽の下に破り、斬首十万、魏の巻・蔡陽・長社、趙氏の観津を取る。且つ趙に観津を与へ、趙に益すに兵を以てし、斉を伐たんとす。斉の襄王懼れ、蘇代をして斉の為に陰かに穣侯に書を遺らしめて曰く、「臣、往来する者の言ふを聞くに曰く『秦将に趙に甲四万を益して以て斉を伐たんとす』と。臣竊かにこれを敝邑の王に必して曰く『秦王は明にして計に熟し、穣侯は智にして事に習ふ、必ず趙に甲四万を益して以て斉を伐たざらん』と。是れ何ぞや。夫れ三晋の相与するや、秦の深讎なり。百たび相背き、百たび相欺くも、不信と為さず、無行と為さず。今、斉を破りて以て趙を肥やす。趙は秦の深讎なり、秦に利あらず。此れ一なり。秦の謀る者は必ず曰はん『斉を破り、晋・楚を獘れしめて、而る後に晋・楚の勝を制せん』と。夫れ斉は罷国なり、天下を以て斉を攻むるは、千鈞の弩を以て潰癕を決するが如し、必ず死せん、安んぞ能く晋・楚を獘れしめん。此れ二なり。秦少しく兵を出だせば、則ち晋・楚信ぜざるなり。多く兵を出だせば、則ち晋・楚は秦に制せらると為す。斉恐れて、秦に走らずんば、必ず晋・楚に走らん。此れ三なり。秦、斉を割きて以て晋・楚に啖はせ、晋・楚これを案ずるに兵を以てせば、秦反りて敵を受けん。此れ四なり。是れ晋・楚は秦を以て斉を謀り、斉を以て秦を謀るなり。何ぞ晋・楚の智にして秦・斉の愚なるや。此れ五なり。故に安邑を得て以てこれに善く事ふれば、また必ず患ひ無からん。秦安邑を有たば、韓氏必ず上党無からん。天下の腸胃を取ると、兵を出だしてその反らざるを懼るると、孰れか利ある。臣故に曰く、秦王は明にして計に熟し、穣侯は智にして事に習ふ、必ず趙に甲四万を益して以て斉を代たざらんと」と。是に於いて穣侯行かず、兵を引きて帰る。
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