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史記 / 穰侯列伝

穰侯封四歲,為秦將攻魏。魏獻河東方四百里。拔魏之河內,取城大小六十餘。昭王十九年,秦稱西帝,齊稱東帝。月餘,呂禮來,而齊、秦各復歸帝為王。魏冉復相秦,六歲而免。免二歲,復相秦。四歲,而使白起拔楚之郢,秦置南郡。乃封白起為武安君。白起者,穰侯之所任舉也,相善。於是穰侯之富,富於王室。昭王三十二年,穰侯為相國,將兵攻魏,走芒卯,入北宅,遂圍大梁。梁大夫須賈說穰侯曰:「臣聞魏之長吏謂魏王曰:『昔梁惠王伐趙,戰勝三梁,拔邯鄲;趙氏不割,而邯鄲復歸。齊人攻衛,拔故國,殺子良;衛人不割,而故地復反。衛、趙之所以國全兵勁而地不并於諸侯者,以其能忍難而重出地也。宋、中山數伐割地,而國隨以亡。臣以為衛、趙可法,而宋、中山可為戒也。秦,貪戾之國也,而毋親。蠶食魏氏,又盡晉國,戰勝暴子,割八縣,地未畢入,兵復出矣。夫秦何厭之有哉!今又走芒卯,入北宅,此非敢攻梁也,且劫王以求多割地。王必勿聽也。今王背楚、趙而講秦,楚、趙怒而去王,與王爭事秦,秦必受之。秦挾楚、趙之兵以復攻梁,則國求無亡不可得也。願王之必無講也。王若欲講,少割而有質;不然,必見欺。』

新字:穰侯封四歳,為秦将攻魏。魏献河東方四百里。抜魏之河内,取城大小六十余。昭王十九年,秦称西帝,斉称東帝。月余,呂礼来,而斉、秦各復帰帝為王。魏冉復相秦,六歳而免。免二歳,復相秦。四歳,而使白起抜楚之郢,秦置南郡。乃封白起為武安君。白起者,穰侯之所任舉也,相善。於是穰侯之富,富於王室。昭王三十二年,穰侯為相国,将兵攻魏,走芒卯,入北宅,遂囲大梁。梁大夫須賈説穰侯曰:「臣聞魏之長吏謂魏王曰:『昔梁恵王伐趙,戦勝三梁,抜邯鄲;趙氏不割,而邯鄲復帰。斉人攻衛,抜故国,殺子良;衛人不割,而故地復反。衛、趙之所以国全兵勁而地不并於諸侯者,以其能忍難而重出地也。宋、中山数伐割地,而国随以亡。臣以為衛、趙可法,而宋、中山可為戒也。秦,貪戻之国也,而毋親。蠶食魏氏,又尽晋国,戦勝暴子,割八県,地未畢入,兵復出矣。夫秦何厭之有哉!今又走芒卯,入北宅,此非敢攻梁也,且劫王以求多割地。王必勿聴也。今王背楚、趙而講秦,楚、趙怒而去王,与王争事秦,秦必受之。秦挟楚、趙之兵以復攻梁,則国求無亡不可得也。願王之必無講也。王若欲講,少割而有質;不然,必見欺。』

書き下し

穣侯封ぜらるること四歳、秦の将と為りて魏を攻む。魏、河東の方四百里を献ず。魏の河内を抜き、城の大小六十余を取る。昭王の十九年、秦は西帝と称し、斉は東帝と称す。月余にして、呂礼来たり、而して斉・秦各々また帝を帰して王と為る。魏冉また秦に相たり、六歳にして免ぜらる。免ぜらるること二歳にして、また秦に相たり。四歳にして、白起をして楚の郢を抜かしめ、秦は南郡を置く。乃ち白起を封じて武安君と為す。白起は穣侯の任挙する所なり、相善し。是に於いて穣侯の富は王室より富めり。昭王の三十二年、穣侯相国と為り、兵を将ゐて魏を攻め、芒卯を走らせ、北宅に入り、遂に大梁を囲む。梁の大夫須賈、穣侯に説きて曰く、「臣聞く、魏の長吏、魏王に謂ひて曰く、『昔、梁の恵王趙を伐ち、三梁に戦ひ勝ち、邯鄲を抜く。趙氏割かずして、邯鄲また帰る。斉人衛を攻め、故国を抜き、子良を殺す。衛人割かずして、故地また反る。衛・趙の国全く兵勁くして地の諸侯に并せられざる所以の者は、その能く難を忍びて地を出だすを重んずるを以てなり。宋・中山は数々伐たれて地を割き、国随ひて以て亡ぶ。臣以為へらく、衛・趙は法とすべく、宋・中山は戒めと為すべきなり。秦は貪戻の国なり、親しむこと毋かれ。魏氏を蚕食し、また晋国を尽くし、暴子に戦ひ勝ち、八県を割く。地未だ畢く入らずして、兵また出づ。夫れ秦何の厭くことかこれ有らんや。今また芒卯を走らせ、北宅に入る。此れ敢へて梁を攻むるに非ざるなり、且に王を劫かして以て多く地を割かんことを求めんとするなり。王必ず聴くこと勿かれ。今、王、楚・趙に背きて秦に講ぜば、楚・趙怒りて王を去り、王と秦に事ふることを争はん、秦必ずこれを受けん。秦、楚・趙の兵を挟みて以てまた梁を攻めば、則ち国亡ぶること無きを求むるも得べからざるなり。願はくは王の必ず講ずること無からんことを。王若し講ぜんと欲せば、少しく割きて質を有て。然らずんば、必ず欺かれん』と。

現代語訳

穣侯は封ぜられて四年目に秦の将となって魏を攻めた。魏は河東の四百里四方の地を献上した。秦は魏の河内を落とし、大小六十あまりの城を取った。昭王の十九年、秦は西帝と称し、斉は東帝と称した。一か月あまりたって呂礼がやって来て、斉と秦はそれぞれ帝号を返上して王に戻った。魏冉は再び秦の宰相となり、六年して罷免された。罷免されて二年でまた秦の宰相となった。その四年後、白起に楚の都の郢を落とさせ、秦は南郡を置いた。そこで白起を封じて武安君とした。白起は穣侯が推挙して任用した人物で、二人は仲がよかった。こうして穣侯の富は王室をしのぐほどになった。昭王の三十二年、穣侯は相国となり、兵を率いて魏を攻め、魏の将芒卯を敗走させ、北宅に攻め入り、ついに魏の都の大梁を包囲した。魏の大夫須賈が穣侯に説いた。「私はこう聞いている。魏の重臣が魏王にこう言ったそうだ。『昔、梁の恵王が趙を討って三梁で勝ち、邯鄲を落としたが、趙は土地を割かずにいて、邯鄲はやがて戻ってきた。斉が衛を攻めて旧都を落とし、子良を殺したが、衛は土地を割かずにいて、旧領はやがて戻ってきた。衛と趙が国を保ち、兵も強く、土地を諸侯に併合されずにすんだのは、苦難に耐えて、土地を差し出すことを重く慎んだからだ。宋と中山はたびたび攻められて土地を割き、国もそれにつれて滅んだ。私は、衛と趙を手本とし、宋と中山を戒めとすべきだと思う。秦は貪欲で道理に外れた国で、親しんではならない。魏を蚕が桑を食べるように侵し、また晋の旧領を奪い尽くし、暴子(韓の将暴鳶)に勝って八つの県を割き取った。その土地がまだすっかり引き渡されないうちに、また兵を出してきた。秦に飽きるということがあろうか。いままた芒卯を敗走させて北宅に入った。これは本気で大梁を攻めようというのではなく、王を脅して多くの土地を割かせようとしているのだ。王は決して聞き入れてはならない。いま王が楚・趙に背いて秦と講和すれば、楚・趙は怒って王から離れ、王と競って秦に仕えようとし、秦は必ずそれを受け入れるだろう。秦が楚・趙の兵を従えて再び大梁を攻めれば、国が滅びないようにと願ってもかなわないだろう。どうか王は決して講和なさらないように。もし講和したいのなら、割く土地は少なくし、人質を取っておくことだ。そうしなければ必ず欺かれる』と。

解説

穣侯魏冉の全盛期と、魏の大夫須賈による説得の前半を描く段です。穣に封ぜられた魏冉は魏から河東・河内を奪い、推挙した白起に楚の郢を落とさせて南郡を置き、その富は王室をしのぐまでになりました。昭王十九年には秦と斉が一時「西帝」「東帝」を名乗るという事件もありました。昭王三十二年、魏冉が魏の都大梁を囲むと、須賈はまず「魏の重臣が王にこう言っている」という形で、魏の側の覚悟を伝えます。土地を割かずに耐えた衛・趙は国を保ち、割いた宋・中山は滅んだ、秦は際限なく求めてくるから講和するな、という内容です。自分の意見を直接ぶつけず、相手国の内部の声として聞かせる話法は、相手に冷静に聞いてもらうための工夫です。要求に応じ続けると要求は止まらないという教訓は、取引や交渉の現場でも通じるものです。

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