史記 / 樗里子甘茂列伝
使甘茂擊之。斬首六萬,遂拔宜陽。韓襄王使公仲侈入謝,與秦平。武王竟至周,而卒於周。其弟立,為昭王。王母宣太后,楚女也。楚懷王怨前秦敗楚於丹陽而韓不救,乃以兵圍韓雍氏。韓使公仲侈告急於秦。秦昭王新立,太后楚人,不肯救。公仲因甘茂,茂為韓言於秦昭王曰:「公仲方有得秦救,故敢捍楚也。今雍氏圍,秦師不下殽,公仲且仰首而不朝,公叔且以國南合於楚。楚、韓為一,魏氏不敢不聽,然則伐秦之形成矣。不識坐而待伐孰與伐人之利?」秦王曰:「善。」乃下師於殽以救韓。楚兵去。秦使向壽平宜陽,而使樗里子、甘茂伐魏皮氏。向壽者,宣太后外族也,而與昭王少相長,故任用。向壽如楚,楚聞秦之貴向壽,而厚事向壽。向壽為秦守宜陽,將以伐韓。韓公仲使蘇代謂向壽曰:「禽困覆車。公破韓,辱公仲,公仲收國復事秦,自以為必可以封。今公與楚解口地,封小令尹以杜陽。秦楚合,復攻韓,韓必亡。韓亡,公仲且躬率其私徒以閼於秦。願公孰慮之也。」向壽曰:「吾合秦楚非以當韓也,子為壽謁之公仲,曰秦韓之交可合也。」蘇代對曰:「願有謁於公。人曰貴其所以貴者貴。王之愛習公也,不如公孫奭;其智能公也,不如甘茂。
新字:使甘茂撃之。斬首六万,遂抜宜陽。韓襄王使公仲侈入謝,与秦平。武王竟至周,而卒於周。其弟立,為昭王。王母宣太后,楚女也。楚懐王怨前秦敗楚於丹陽而韓不救,乃以兵囲韓雍氏。韓使公仲侈告急於秦。秦昭王新立,太后楚人,不肯救。公仲因甘茂,茂為韓言於秦昭王曰:「公仲方有得秦救,故敢捍楚也。今雍氏囲,秦師不下殽,公仲且仰首而不朝,公叔且以国南合於楚。楚、韓為一,魏氏不敢不聴,然則伐秦之形成矣。不識坐而待伐孰与伐人之利?」秦王曰:「善。」乃下師於殽以救韓。楚兵去。秦使向寿平宜陽,而使樗里子、甘茂伐魏皮氏。向寿者,宣太后外族也,而与昭王少相長,故任用。向寿如楚,楚聞秦之貴向寿,而厚事向寿。向寿為秦守宜陽,将以伐韓。韓公仲使蘇代謂向寿曰:「禽困覆車。公破韓,辱公仲,公仲収国復事秦,自以為必可以封。今公与楚解口地,封小令尹以杜陽。秦楚合,復攻韓,韓必亡。韓亡,公仲且躬率其私徒以閼於秦。願公孰慮之也。」向寿曰:「吾合秦楚非以当韓也,子為寿謁之公仲,曰秦韓之交可合也。」蘇代対曰:「願有謁於公。人曰貴其所以貴者貴。王之愛習公也,不如公孫奭;其智能公也,不如甘茂。
書き下し
甘茂をしてこれを撃たしむ。斬首六万、遂に宜陽を抜く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。武王竟に周に至りて、周に卒す。その弟立ち、昭王と為る。王の母宣太后は、楚の女なり。楚の懐王、前に秦の楚を丹陽に敗りて韓の救はざりしを怨み、乃ち兵を以て韓の雍氏を囲む。韓、公仲侈をして急を秦に告げしむ。秦の昭王新たに立ち、太后は楚人なれば、救ふを肯んぜず。公仲、甘茂に因る。茂、韓の為に秦の昭王に言ひて曰く、「公仲は方に秦の救ひを得る有らんとす、故に敢へて楚を捍ぐなり。今、雍氏囲まれ、秦の師殽を下らずんば、公仲且に首を仰ぎて朝せざらんとし、公叔且に国を以て南のかた楚に合せんとす。楚・韓一と為らば、魏氏敢へて聴かずんばあらず、然らば則ち秦を伐つの形成る。識らず、坐して伐たるるを待つと人を伐つの利といづれぞ」と。秦王曰く、「善し」と。乃ち師を殽に下して以て韓を救ふ。楚の兵去る。秦、向寿をして宜陽を平らげしめ、而して樗里子・甘茂をして魏の皮氏を伐たしむ。向寿は宣太后の外族なり、而して昭王と少くして相長ず、故に任用せらる。向寿、楚に如く、楚は秦の向寿を貴ぶを聞きて、厚く向寿に事ふ。向寿、秦の為に宜陽を守り、将に以て韓を伐たんとす。韓の公仲、蘇代をして向寿に謂はしめて曰く、「禽も困しめば車を覆す。公、韓を破り、公仲を辱めしも、公仲は国を収めてまた秦に事へ、自ら以為へらく必ず封ぜらるべしと。今、公は楚と解口の地を与へ、小令尹を封ずるに杜陽を以てす。秦楚合してまた韓を攻めば、韓必ず亡びん。韓亡びば、公仲且に躬ら其の私徒を率ゐて以て秦を閼がんとす。願はくは公これを孰慮せよ」と。向寿曰く、「吾の秦楚を合するは以て韓に当たるに非ざるなり。子、寿の為にこれを公仲に謁げて、秦韓の交は合すべしと曰へ」と。蘇代対へて曰く、「願はくは公に謁ぐる有らん。人曰く、その貴ぶ所以の者を貴ぶ者は貴しと。王の公を愛習するや、公孫奭に如かず。その公を智能とするや、甘茂に如かず。
現代語訳
(武王は)甘茂にこれを攻撃させた。六万の首を斬り、ついに宜陽を落とした。韓の襄王は公仲侈を秦に遣わして詫びさせ、秦と和睦した。武王はついに周に至ったが、周で亡くなった。その弟が即位して昭王となった。昭王の母の宣太后は楚の出身であった。楚の懐王は、以前秦が楚を丹陽で破ったときに韓が救わなかったことを恨み、兵を出して韓の雍氏を包囲した。韓は公仲侈に命じて秦に急を告げさせた。秦の昭王は即位したばかりで、太后は楚の人であったため、救おうとしなかった。公仲は甘茂を頼った。甘茂は韓のために秦の昭王に言った。「公仲は秦の救援を当てにできると思えばこそ、あえて楚を防いでいるのだ。いま雍氏が囲まれているのに秦の軍が殽(殽山)を下らなければ、公仲は顔を上げたまま秦に朝見しなくなり、公叔(韓の親楚派)は国ごと南の楚と結ぶでしょう。楚と韓が一つになれば、魏もそれに従わないわけにはいかず、そうなれば秦を討つ形ができあがる。座して討たれるのを待つのと、こちらから人を討つのと、どちらが得でしょうか。」秦王は「よろしい」と言い、軍を殽から下して韓を救った。楚の兵は去った。秦は向寿に宜陽を治めさせ、樗里子と甘茂に魏の皮氏を討たせた。向寿は宣太后の母方の一族で、昭王とは幼いころから共に育ったので、任用されたのである。向寿が楚に行くと、楚は秦が向寿を重んじていると聞いて、手厚く向寿をもてなした。向寿は秦のために宜陽を守り、そこから韓を討とうとしていた。韓の公仲は蘇代に向寿へこう言わせた。「鳥獣も追い詰められれば車をひっくり返す。あなたは韓を破り、公仲に恥をかかせましたが、公仲は国をまとめて再び秦に仕え、きっと封地を得られるものと思っている。いまあなたは楚に解口の地を与え、楚の小令尹(令尹の次官)に杜陽を封じようとしている。秦と楚が組んで再び韓を攻めれば、韓は必ず滅ぶ。韓が滅びるとなれば、公仲は自ら手勢を率いて秦を防ぐでしょう。どうかよくよくお考えください。」向寿は言った。「私が秦と楚を結ばせるのは韓に当たるためではない。あなたは私のために公仲に伝えてくれ。秦と韓の交わりはまとまりうる、と。」蘇代は答えた。「あなたに申し上げたいことがある。人は言います、人が貴ばれる理由となっているものを貴ぶ者こそが貴ばれるのだ、と。王があなたを親しみ馴染んでいる点では、公孫奭に及びません。王があなたの知恵と才能を買っている点では、甘茂に及びません。
解説
関連する章句
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史記 秦本紀其の秋、甘茂・庶長封をして宜陽を伐たしむ。四年、宜陽を抜き、首を斬ること六万。河を渉り、武遂に城く。魏の太子来朝す。武王力有りて戯を好む。力士任鄙・烏獲・孟説皆大官に至る。王孟説と鼎を挙げ、臏を絶つ。八月、武王死す。孟説を族す。武王魏の女を取りて后と為すも、子無し。異母弟を立つ。是を昭襄王と為す。昭襄の母は楚人にして、姓は羋氏、宣太后と号す。武王の死せし時、昭襄王燕に質為り。燕人送り帰し、立つを得たり。昭襄王の元年、厳君疾相と為る。甘茂出でて魏に之く。二年、彗星見る。庶長壮大臣・諸侯・公子と逆を為し、皆誅せらる。恵文后に及ぶまで皆良死を得ず。悼武王の后出でて魏に帰る。三年、王冠す。楚王と黄棘に会し、楚に上庸を与ふ。四年、蒲阪を取る。彗星見る。五年、魏王来たりて応亭に朝す。復た魏に蒲阪を与ふ。六年、蜀侯煇反き、司馬錯蜀を定む。庶長奐楚を伐ち、首を斬ること二万。涇陽君斉に質たり。日食し、昼晦し。七年、新城を抜く。樗里子卒す。八年、将軍羋戎をして楚を攻めしめ、新市を取る。斉は章子をして、魏は公孫喜をして、韓は暴鳶をして共に楚の方城を攻めしめ、唐眛を取る。趙中山を破り、其の君亡げ、竟に斉に死す。魏の公子勁・韓の公子長諸侯と為る。九年、孟嘗君薛文来たりて秦に相たり。奐楚を攻め、八城を取り、其の将景快を殺す。十年、楚の懐王入りて秦に朝す。秦之を留む。薛文金を以て免るるを受く。楼緩丞相と為る。十一年、斉・韓・魏・趙・宋・中山の五国共に秦を攻め、塩氏に至りて還る。秦韓・魏に河北及び封陵を与へて以て和す。彗星見る。楚の懐王走りて趙に之く。趙受けず、之を秦に還す。即ち死し、帰葬す。十二年、楼緩免ぜられ、穣侯魏冉相と為る。楚に粟五万石を予ふ。
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史記 樗里子甘茂列伝秦の武王の三年、甘茂に謂ひて曰く、「寡人、車を容れて三川に通じ、以て周室を窺はんと欲す、而して寡人死すとも朽ちざらん」と。甘茂曰く、「請ふ魏に之き、約して以て韓を伐たん、而して向寿をして輔け行かしめよ」と。甘茂至り、向寿に謂ひて曰く、「子帰りて、これを王に言ひて曰へ、『魏は臣に聴けり、然れども願はくは王伐つこと勿かれ』と。事成らば、尽く以て子の功と為さん」と。向寿帰りて、以て王に告ぐ。王、甘茂を息壌に迎ふ。甘茂至る、王その故を問ふ。対へて曰く、「宜陽は大県なり、上党・南陽これを積むこと久し。名づけて県と曰ふも、その実は郡なり。今、王、数険に倍き、千里を行きてこれを攻むるは難し。昔、曾参の費に処るや、魯人に曾参と姓名を同じくする者有りて人を殺す。人その母に告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、織ること自若たり。頃之くして、一人また告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母尚ほ織ること自若たり。頃くしてまた一人告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、杼を投じ機を下り、墻を踰えて走る。夫れ曾参の賢とその母のこれを信ずるとを以てするも、三人これを疑へば、その母懼る。今、臣の賢は曾参に若かず、王の臣を信ずることもまた曾参の母の曾参を信ずるに如かず、臣を疑ふ者は特に三人のみに非ず。臣は大王の杼を投ぜんことを恐る。始め張儀、西のかた巴蜀の地を并せ、北のかた西河の外を開き、南のかた上庸を取る。天下は張子を多とせずして先王を賢とす。魏の文侯、楽羊をして将として中山を攻めしむ、三年にしてこれを抜く。楽羊返りて功を論ず、文侯これに謗書一篋を示す。楽羊再拝稽首して曰く、『此れ臣の功に非ざるなり、主君の力なり』と。今、臣は羈旅の臣なり。樗里子・公孫奭の二人の者、韓を挟みてこれを議せば、王必ずこれを聴かん。是れ王は魏王を欺きて、臣は公仲侈の怨みを受くるなり」と。王曰く、「寡人は聴かざるなり、請ふ子と盟はん」と。卒に丞相甘茂をして兵を将ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして抜けず、樗里子・公孫奭果たしてこれを争ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、「息壌は彼に在り」と。王曰く、「これ有り」と。因りて大いに悉く兵を起こし、
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史記 樗里子甘茂列伝今、二人の者皆秦の事に親しむを得ずして、公独り王と国に主断するは何ぞや。彼、以てこれを失ふ有ればなり。公孫奭は韓に党し、甘茂は魏に党す、故に王信ぜざるなり。今、秦楚彊を争ひて公は楚に党す、是れ公孫奭・甘茂と道を同じくするなり、公何を以てこれに異ならん。人皆楚の善く変ずるを言ふ、而るに公必ずこれに亡びば、是れ自ら責を為すなり。公は王とその変を謀り、韓を善くして以て楚に備ふるに如かず。此くの如くんば則ち患ひ無からん。韓氏は必ず先に国を以て公孫奭に従ひて後に国を甘茂に委ねん。韓は公の讎なり。今、公、韓を善くして以て楚に備へんと言ふ、是れ外に挙ぐるに讎を僻けざるなり」と。向寿曰く、「然り、吾甚だ韓の合せんことを欲す」と。対へて曰く、「甘茂は公仲に許すに武遂を以てし、宜陽の民を反す。今、公徒らにこれを収めんとするは、甚だ難し」と。向寿曰く、「然らば則ち奈何せん。武遂は終に得べからざるか」と。対へて曰く、「公奚ぞ秦を以て韓の為に潁川を楚に求めざる。此れ韓の寄地なり。公求めてこれを得ば、是れ令楚に行はれて、その地を以て韓に徳とせらるるなり。公求めて得ずんば、是れ韓楚の怨み解けずして、交々秦に走るなり。秦楚彊を争ひ、公徐ろに楚を過めて以て韓を収めば、此れ秦に利あり」と。向寿曰く、「柰何せん」と。対へて曰く、「此れ善き事なり。甘茂は魏を以て斉を取らんと欲し、公孫奭は韓を以て斉を取らんと欲す。今、公、宜陽を取りて以て功と為し、楚韓を収めて以てこれを安んじ、而して斉魏の罪を誅せば、是れ公孫奭・甘茂を以て事無からしむるなり」と。甘茂竟に秦の昭王に言ひ、武遂を以てまたこれを韓に帰す。向寿・公孫奭これを争ふも、得ること能はず。向寿・公孫奭これに由りて怨み、甘茂を讒す。茂懼れ、魏の蒲阪を伐つを輟めて、亡げ去る。樗里子、魏と講じ、兵を罷む。
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戦国策・楚圍雍氏五月楚、雍氏を圍むこと五月。韓、使者をして秦に救を求めしむるも、冠蓋相望むも、秦師殽を下らず。韓又尚靳をして秦に使いせしめ、秦王に謂いて曰く、「韓の秦に於けるや、居りては隱蔽と為り、出でては鴈行と為る。今韓已に病めり、秦師殽を下らず。臣之を聞く、脣揭がるれば其の齒寒しと。願わくは大王之を熟計せよ。」宣太后曰く、「使者來る者眾しと雖も、獨り尚子の言是なり。」尚子を召して入らしむ。宣太后尚子に謂いて曰く、「妾先王に事うるや、先王其の髀を以て妾の身に加うるも、妾困しみて疲れず。盡く其の身を妾の上に置くも、妾重しとせず。何ぞや。其の少しく利有るを以てなり。今韓を佐くるに、兵眾からず、糧多からざれば、則ち以て韓を救うに足らず。夫れ韓の危を救うは、日に千金を費やす。獨り妾をして少しく利有らしむ可からざるか。」尚靳歸りて書もて韓王に報ず。韓王張翠を遣わす。張翠病と稱し、日に一縣を行く。張翠至るや、甘茂曰く、「韓急なり、先生病みて來れり。」張翠曰く、「韓未だ急ならざるなり、且に急ならんとす。」甘茂曰く、「秦は重國にして王を知る、韓の急緩知らざる莫し。今先生急ならずと言う、可ならんや。」張翠曰く、「韓急ならば則ち折れて楚に入らん、臣安んぞ敢えて來らんや。」甘茂曰く、「先生復た言う毋かれ。」甘茂入りて秦王に言いて曰く、「公仲柄秦師を得たり、故に敢えて楚に捍る。今雍氏圍まれて、秦師殽を下らざれば、是れ韓無きなり。公仲且に首を抑えて朝せざらんとし、公叔且に國を以て南のかた楚に合せんとす。楚・韓一と為らば、魏氏敢えて聽かざる莫からん、是れ楚三國を以て秦を謀るなり。此くの如くんば則ち秦を伐つの形成る。坐して伐たるるを待つと、人を伐つの利と孰與れぞ。」秦王曰く、「善し。」果たして師を殽に下して以て韓を救う。
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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史記 韓世家王楚の虚名を恃みて、軽々しく彊秦の敵を絶たば、王必ず天下の大笑と為らん。且つ楚・韓は兄弟の国に非ざるなり。又素より約して秦を伐たんと謀るに非ざるなり。已に伐つの形有り、因りて兵を発して韓を救ふと言ふ。此れ必ず陳軫の謀なり。且つ王已に人をして秦に報ぜしむ。今行かざるは、是れ秦を欺くなり。夫れ軽々しく彊秦を欺きて楚の謀臣を信ぜば、恐らくは王必ず之を悔いん」と。韓王聴かず、遂に秦に絶つ。秦因りて大いに怒り、甲を益して韓を伐ち、大いに戦ふ。楚の救ひ韓に至らず。十九年、大いに我を岸門に破る。太子倉秦に質となりて以て和す。二十一年、秦と共に楚を攻め、楚の将屈丐を敗り、首を斬ること八万を丹陽に於てす。是の歳、宣恵王卒し、太子倉立つ、是を襄王と為す。襄王四年、秦の武王と臨晋に会す。其の秋、秦甘茂をして我が宜陽を攻めしむ。五年、秦我が宜陽を抜き、首を斬ること六万。秦の武王卒す。六年、秦復た我に武遂を与ふ。九年、秦復た我が武遂を取る。十年、太子嬰秦に朝して帰る。十一年、秦我を伐ち、穣を取る。秦と楚を伐ち、楚の将唐眛を敗る。十二年、太子嬰死す。公子咎・公子蟣蝨争ひて太子と為らんとす。時に蟣蝨楚に質たり。蘇代、韓咎に謂ひて曰く、「蟣蝨亡げて楚に在り。楚王之を内れんと欲すること甚だし。今楚の兵十余万方城の外に在り。公何ぞ楚王をして万室の都を雍氏の旁に築かしめざる。韓必ず兵を起こして以て之を救はん。公必ず将たらん。公因りて韓・楚の兵を以て蟣蝨を奉じて之を内れよ。其の公に聴くこと必せり。必ず楚・韓を以て公を封ぜん」と。韓咎其の計に従ふ。楚雍氏を囲む。韓救ひを秦に求む。秦未だ為に発せず。公孫昧をして韓に入らしむ。公仲曰く、「子秦を以て且に韓を救はんとすと為すか」と。
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