史記 / 五宗世家
漢使者視憲王喪,梲自言憲王病時,王后、太子不侍,及薨,六日出舍,太子勃私姦,飲酒,博戲,擊筑,與女子載馳,環城過市,入牢視囚。天子遣大行騫驗王后及問王勃,請逮勃所與姦諸證左,王又匿之。吏求捕勃大急,使人致擊笞掠,擅出漢所疑囚者。有司請誅憲王後修及王勃。上以修素無行,使梲陷之罪,勃無良師傅,不忍誅。有司請廢王後修,徙王勃以家屬處房陵,上許之。勃王數月,遷于房陵,國絕。月餘,天子為最親,乃詔有司曰:「常山憲王蚤夭,后妾不和,適孽誣爭,陷于不義以滅國,朕甚閔焉。其封憲王子平三萬戶,為真定王;封子商三萬戶,為泗水王。」真定王平,元鼎四年用常山憲王子為真定王。泗水思王商,以元鼎四年用常山憲王子為泗水王。十一年卒,子哀王安世立。十一年卒,無子。於是上憐泗水王絕,乃立安世弟賀為泗水王。右四國本王皆王夫人兒姁子也。其後漢益封其支子為六安王、泗水王二國。凡兒姁子孫,於今為六王。太史公曰:高祖時諸侯皆賦,得自除內史以下,漢獨為置丞相,黃金印。諸侯自除御史、廷尉正、博士,擬於天子。自吳楚反後,五宗王世,漢為置二千石,去「丞相」曰「相」,銀印。諸侯獨得食租稅,奪之權。其後諸侯貧者或乘牛車也。
新字:漢使者視憲王喪,梲自言憲王病時,王后、太子不侍,及薨,六日出舎,太子勃私姦,飲酒,博戯,撃筑,与女子載馳,環城過市,入牢視囚。天子遣大行騫験王后及問王勃,請逮勃所与姦諸証左,王又匿之。吏求捕勃大急,使人致撃笞掠,擅出漢所疑囚者。有司請誅憲王後修及王勃。上以修素無行,使梲陥之罪,勃無良師傅,不忍誅。有司請廃王後修,徙王勃以家属処房陵,上許之。勃王数月,遷于房陵,国絶。月余,天子為最親,乃詔有司曰:「常山憲王蚤夭,后妾不和,適孽誣争,陥于不義以滅国,朕甚閔焉。其封憲王子平三万戸,為真定王;封子商三万戸,為泗水王。」真定王平,元鼎四年用常山憲王子為真定王。泗水思王商,以元鼎四年用常山憲王子為泗水王。十一年卒,子哀王安世立。十一年卒,無子。於是上憐泗水王絶,乃立安世弟賀為泗水王。右四国本王皆王夫人児姁子也。其後漢益封其支子為六安王、泗水王二国。凡児姁子孫,於今為六王。太史公曰:高祖時諸侯皆賦,得自除内史以下,漢独為置丞相,黄金印。諸侯自除御史、廷尉正、博士,擬於天子。自呉楚反後,五宗王世,漢為置二千石,去「丞相」曰「相」,銀印。諸侯独得食租税,奪之権。其後諸侯貧者或乗牛車也。
書き下し
漢の使者憲王の喪を視るに、梲自ら言ふ、憲王病む時、王后・太子侍せず、薨ずるに及び、六日にして舎を出で、太子勃私かに姦し、酒を飲み、博戯し、筑を撃ち、女子と載せて馳せ、城を環りて市を過ぎ、牢に入りて囚を視ると。天子大行騫を遣はして王后を験し及び王勃を問はしめ、勃の与に姦する所の諸々の証左を逮へんことを請ふに、王又之を匿す。吏勃を求め捕ふること大いに急なり、人をして致して撃笞掠せしめ、擅に漢の疑ふ所の囚者を出だす。有司憲王の後脩及び王勃を誅せんことを請ふ。上以為へらく脩は素より行無く、梲をして之を罪に陥れしむ、勃は良き師傅無しと、誅するに忍びず。有司王后脩を廃し、王勃を徙して家属を以て房陵に処らしめんことを請ふ、上之を許す。勃王たること数月にして、房陵に遷され、国絶ゆ。月余にして、天子最も親しきが為に、乃ち有司に詔して曰く、「常山の憲王蚤く夭し、后妾和せず、適孽誣争し、不義に陥りて以て国を滅す、朕甚だ閔む。其れ憲王の子平を封じて三万戸、真定王と為し、子商を封じて三万戸、泗水王と為せ」と。真定王平、元鼎四年を以て常山の憲王の子を用て真定王と為る。泗水の思王商、元鼎四年を以て常山の憲王の子を用て泗水王と為る。十一年にして卒し、子哀王安世立つ。十一年にして卒し、子無し。是に於いて上泗水王の絶ゆるを憐れみ、乃ち安世の弟賀を立てて泗水王と為す。右の四国の本王は皆王夫人児姁の子なり。其の後漢益々其の支子を封じて六安王・泗水王の二国と為す。凡そ児姁の子孫、今に於いて六王為り。太史公曰く、高祖の時諸侯は皆賦し、自ら内史以下を除するを得、漢独り為に丞相を置き、黄金の印なり。諸侯自ら御史・廷尉正・博士を除し、天子に擬す。呉楚反してより後、五宗の王の世、漢為に二千石を置き、丞相を去りて相と曰ひ、銀印なり。諸侯独り租税を食むを得て、之が権を奪ふ。其の後諸侯の貧しき者或いは牛車に乗るなり。
現代語訳
漢の使者が憲王の喪を見届けに来ると、梲は自ら訴えた。憲王が病んでいたとき王后と太子は看病せず、王が亡くなると六日で喪の仮屋を出て、太子勃はひそかに女と通じ、酒を飲み、博打をし、筑(弦楽器)を打ち鳴らし、女を車に乗せて走らせ、城を巡って市場を通り、牢獄に入って囚人を見物した、と。天子は大行(外交・儀礼の長官)の張騫(ちょうけん)を遣わして王后を取り調べ、王勃を尋問させ、勃と密通した者たちを証人として逮捕するよう求めたが、王はまた彼らをかくまった。役人が勃の身辺の者をきびしく捕らえようとすると、勃は人を使って役人を打ち叩かせ、漢が嫌疑をかけていた囚人を勝手に釈放した。担当官は憲王の后の脩と王勃を誅殺するよう求めた。帝は、脩はもともと素行が悪く、それで梲に罪を暴かれたのであり、勃には良い守り役がいなかったのだと考えて、誅殺するには忍びなかった。担当官は王后脩を廃し、王勃を家族とともに房陵に移すよう求め、帝はこれを許した。勃は王となって数か月で房陵に移され、国は絶えた。ひと月あまりして、天子は最も近い親族であることを思い、担当官に詔して言った。「常山の憲王は早世し、后と妾は不和で、嫡子と庶子が互いに誣告して争い、不義に陥って国を滅ぼした。わたしはこれを深く哀れむ。憲王の子の平を三万戸に封じて真定王とし、子の商を三万戸に封じて泗水王とせよ。」真定王平は元鼎四年に常山憲王の子として真定王となった。泗水の思王商は元鼎四年に常山憲王の子として泗水王となった。十一年で亡くなり、子の哀王安世が立った。安世は十一年で亡くなり、子がなかった。そこで帝は泗水王の家が絶えるのを哀れみ、安世の弟の賀を泗水王に立てた。以上の四国の初代の王は、みな王夫人児姁の子である。その後、漢はさらに王の支子を封じて六安王・泗水王の二国を立てた。児姁の子孫は、今では合わせて六人の王となっている。太史公は言う。高祖の時代、諸侯はみな領内から租税を取り、内史以下の官を自分で任命でき、漢はただ丞相だけを置き、黄金の印を与えていた。諸侯は御史・廷尉正・博士を自分で任命し、天子になぞらえていた。呉楚の反乱の後、五宗の王の時代になると、漢が諸侯国の二千石の官を置き、「丞相」を「相」と改めて銀印とした。諸侯はただ租税を受け取れるだけとなり、権力は奪われた。その後、諸侯の貧しい者の中には牛車に乗る者さえ出てきた。
解説
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史記 五宗世家淮南王謀反する時、寄微かに其の事を聞き、私かに楼車鏃矢戦守の備へを作り、淮南の起こるを候ふ。吏淮南の事を治むるに及び、辞之を出だす。寄上に於いて最も親しく、意之を傷み、病を発して死す、敢へて後を置かず、是に於いて上聞く。寄に長子なる者有り名は賢、母寵無し。少子は名を慶、母愛幸せらる、寄常に之を立てんと欲するも、不次為り、過有るに因りて、遂に言ふ無し。上之を憐れみ、乃ち賢を以て膠東王と為して康王の嗣を奉ぜしめ、而して慶を故の衡山の地に封じ、六安王と為す。膠東王賢立つこと十四年にして卒し、謚して哀王と為す。子慶王と為る。六安王慶、元狩二年を以て膠東の康王の子を用て六安王と為る。清河の哀王乗、孝景の中三年を以て皇子を用て清河王と為る。十二年にして卒し、後無く、国除かれ、地は漢に入り、清河郡と為る。常山の憲王舜、孝景の中五年を以て皇子を用て常山王と為る。舜最も親しく、景帝の少子にして、驕怠多淫、数々禁を犯す、上常に寛く之を釈す。立つこと三十二年にして卒し、太子勃代はりて立ちて王と為る。初め、憲王舜に愛せざる所の姫有りて長男梲を生む。梲母の寵無きを以ての故に、亦王に幸せらるるを得ず。王后脩太子勃を生む。王の内多く、幸する所の姫子平・子商を生む、王后希に幸せらるるを得。憲王の病甚だしきに及び、諸幸姫常に病に侍す、故に王后も亦妒媢を以て常には病に侍せず、輒ち舎に帰る。医薬を進むるに、太子勃自ら薬を嘗めず、又宿留して病に侍せず。王薨ずるに及びて、王后・太子乃ち至る。憲王雅より長子梲を以て人数と為さず、薨ずるに及び、又財物を分与せず。郎或ひと太子・王后に説き、諸子をして長子梲と共に財物を分かたしめんとするも、太子・王后聴かず。太子代はりて立ち、又梲を収恤せず。梲王后・太子を怨む。
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史記 漢興以来諸侯王年表太史公曰く、殷より以前は尚し。周は五等を封ず、公・侯・伯・子・男。然れども伯禽・康叔を魯・衛に封じ、地各々四百里、親を親しむの義にして、有徳を褒むるなり。太公を斉に封じ、五侯の地を兼ぬるは、勤労を尊ぶなり。武王・成・康の封ずる所数百、而して同姓五十五、地は上は百里に過ぎず、下は三十里、以て王室を輔衛す。管・蔡・康叔・曹・鄭は、或いは過ぎ或いは損ず。厲・幽の後、王室欠け、侯伯の彊国興り、天子微にして、正す能はず。徳の純ならざるに非ず、形勢弱きなり。漢興りて、二等を序す。高祖の末年、劉氏に非ずして王たる者、若しくは功無くして上の置かざる所にして侯たる者は、天下共に之を誅せよとす。高祖の子弟同姓にして王たる者九国、独り長沙のみ異姓なりと雖も、而して功臣の侯たる者百有余人。雁門・太原より以東、遼陽に至るまでを燕・代国と為し、常山より以南、大行を左に転じ、河・済を度り、阿・甄より以東海に薄るまでを斉・趙国と為し、陳より以西、南は九疑に至り、東は江・淮・穀・泗を帯び、会稽に薄るまでを梁・楚・淮南・長沙国と為す。皆外は胡・越に接す。而して内地は北は山を距てて以東は尽く諸侯の地、大なる者は或いは五六郡、城を連ぬること数十、百官宮観を置き、天子に僭す。漢は独り三河・東郡・潁川・南陽、江陵より以西蜀に至るまで、北は雲中より隴西に至るまで、内史と凡そ十五郡を有し、而して公主列侯頗る其の中に食邑す。何となれば、天下初めて定まり、骨肉同姓少なし、故に広く庶孽を彊くし、以て四海を鎮撫し、用て天子を承衛するなり。漢定まりて百年の間、親属益々疏く、諸侯或いは驕奢にして、邪臣の計謀に忕れて淫乱を為し、大なる者は叛逆し、小なる者は法に軌はず、以て其の命を危ふくし、身を殞し国を亡ぼす。
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