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史記 / 五宗世家

淮南王謀反時,寄微聞其事,私作樓車鏃矢戰守備,候淮南之起。及吏治淮南之事,辭出之。寄於上最親,意傷之,發病而死,不敢置後,於是上聞。寄有長子者名賢,母無寵;少子名慶,母愛幸,寄常欲立之,為不次,因有過,遂無言。上憐之,乃以賢為膠東王奉康王嗣,而封慶於故衡山地,為六安王。膠東王賢立十四年卒,謚為哀王。子慶為王。六安王慶,以元狩二年用膠東康王子為六安王。清河哀王乘,以孝景中三年用皇子為清河王。十二年卒,無後,國除,地入于漢,為清河郡。常山憲王舜,以孝景中五年用皇子為常山王。舜最親,景帝少子,驕怠多淫,數犯禁,上常寬釋之。立三十二年卒,太子勃代立為王。初,憲王舜有所不愛姬生長男梲。梲以母無寵故,亦不得幸於王。王後修生太子勃。王內多,所幸姬生子平、子商,王后希得幸。及憲王病甚,諸幸姬常侍病,故王后亦以妒媢不常侍病,輒歸舍。醫進藥,太子勃不自嘗藥,又不宿留侍病。及王薨,王后、太子乃至。憲王雅不以長子梲為人數,及薨,又不分與財物。郎或說太子、王后,令諸子與長子梲共分財物,太子、王后不聽。太子代立,又不收恤梲。梲怨王后、太子。

新字:淮南王謀反時,寄微聞其事,私作楼車鏃矢戦守備,候淮南之起。及吏治淮南之事,辞出之。寄於上最親,意傷之,発病而死,不敢置後,於是上聞。寄有長子者名賢,母無寵;少子名慶,母愛幸,寄常欲立之,為不次,因有過,遂無言。上憐之,乃以賢為膠東王奉康王嗣,而封慶於故衡山地,為六安王。膠東王賢立十四年卒,謚為哀王。子慶為王。六安王慶,以元狩二年用膠東康王子為六安王。清河哀王乗,以孝景中三年用皇子為清河王。十二年卒,無後,国除,地入于漢,為清河郡。常山憲王舜,以孝景中五年用皇子為常山王。舜最親,景帝少子,驕怠多淫,数犯禁,上常寛釈之。立三十二年卒,太子勃代立為王。初,憲王舜有所不愛姫生長男梲。梲以母無寵故,亦不得幸於王。王後修生太子勃。王内多,所幸姫生子平、子商,王后希得幸。及憲王病甚,諸幸姫常侍病,故王后亦以妬媢不常侍病,輒帰舎。医進薬,太子勃不自嘗薬,又不宿留侍病。及王薨,王后、太子乃至。憲王雅不以長子梲為人数,及薨,又不分与財物。郎或説太子、王后,令諸子与長子梲共分財物,太子、王后不聴。太子代立,又不収恤梲。梲怨王后、太子。

書き下し

淮南王謀反する時、寄微かに其の事を聞き、私かに楼車鏃矢戦守の備へを作り、淮南の起こるを候ふ。吏淮南の事を治むるに及び、辞之を出だす。寄上に於いて最も親しく、意之を傷み、病を発して死す、敢へて後を置かず、是に於いて上聞く。寄に長子なる者有り名は賢、母寵無し。少子は名を慶、母愛幸せらる、寄常に之を立てんと欲するも、不次為り、過有るに因りて、遂に言ふ無し。上之を憐れみ、乃ち賢を以て膠東王と為して康王の嗣を奉ぜしめ、而して慶を故の衡山の地に封じ、六安王と為す。膠東王賢立つこと十四年にして卒し、謚して哀王と為す。子慶王と為る。六安王慶、元狩二年を以て膠東の康王の子を用て六安王と為る。清河の哀王乗、孝景の中三年を以て皇子を用て清河王と為る。十二年にして卒し、後無く、国除かれ、地は漢に入り、清河郡と為る。常山の憲王舜、孝景の中五年を以て皇子を用て常山王と為る。舜最も親しく、景帝の少子にして、驕怠多淫、数々禁を犯す、上常に寛く之を釈す。立つこと三十二年にして卒し、太子勃代はりて立ちて王と為る。初め、憲王舜に愛せざる所の姫有りて長男梲を生む。梲母の寵無きを以ての故に、亦王に幸せらるるを得ず。王后脩太子勃を生む。王の内多く、幸する所の姫子平・子商を生む、王后希に幸せらるるを得。憲王の病甚だしきに及び、諸幸姫常に病に侍す、故に王后も亦妒媢を以て常には病に侍せず、輒ち舎に帰る。医薬を進むるに、太子勃自ら薬を嘗めず、又宿留して病に侍せず。王薨ずるに及びて、王后・太子乃ち至る。憲王雅より長子梲を以て人数と為さず、薨ずるに及び、又財物を分与せず。郎或ひと太子・王后に説き、諸子をして長子梲と共に財物を分かたしめんとするも、太子・王后聴かず。太子代はりて立ち、又梲を収恤せず。梲王后・太子を怨む。

現代語訳

淮南王が謀反を企てたとき、寄はうすうすその事を聞き知り、ひそかに物見櫓の車や矢じりなど攻守の備えを作り、淮南の挙兵を待ち構えていた。役人が淮南の事件を取り調べると、その供述から寄のことが出てきた。寄は帝(武帝)と最も親しい間柄であったので、心を痛め、病を発して死んだ。自ら後継ぎを定めようとしなかったので、そこで事の次第が帝の耳に入った。寄には長子の賢がいたが、その母は寵愛されていなかった。末子の慶の母は寵愛されており、寄はいつも慶を立てたいと思っていたが、順序に反するうえ、自分に過ちがあったので、ついに言い出さなかった。帝は寄を哀れみ、賢を膠東王として康王の跡を継がせ、慶を旧衡山国の地に封じて六安王とした。膠東王賢は王となって十四年で亡くなり、哀王と諡された。子の慶が王となった。六安王慶は、元狩二年に膠東康王の子として六安王となった。清河の哀王乗は、孝景帝の中元三年に皇子として清河王となった。十二年で亡くなり、跡継ぎがなかったので国は廃され、領地は漢に編入されて清河郡となった。常山の憲王舜は、孝景帝の中元五年に皇子として常山王となった。舜は帝と最も近い親族で、景帝の末子であり、驕り怠けて女色にふけり、たびたび禁令を犯したが、帝はいつも寛大に許した。王となって三十二年で亡くなり、太子の勃が代わって立って王となった。これより先、憲王舜には愛さない姫がいて、長男の梲(せつ)を生んだ。梲は母が寵愛されていなかったので、自分も王にかわいがられなかった。王后の脩(しゅう)が太子の勃を生んだ。王には女性が多く、寵愛する姫が子の平と子の商を生み、王后はめったに寵愛を受けなかった。憲王の病が重くなると、寵愛された姫たちがいつも看病に付き添ったので、王后は嫉妬のあまりいつもは看病に付かず、すぐに自分の住まいに帰ってしまった。医者が薬を差し上げても、太子勃は自ら毒見をせず、泊まり込んで看病することもしなかった。王が亡くなって、ようやく王后と太子がやって来た。憲王は日ごろから長子の梲を人並みに扱わず、亡くなったときも財産を分け与えなかった。ある郎官が太子と王后に、諸子と長子梲とで財産を分けるよう説いたが、太子と王后は聞き入れなかった。太子は代わって王となってからも、梲を引き取って面倒を見なかった。梲は王后と太子を恨んだ。

解説

王夫人児姁の子、膠東康王、清河哀王、常山憲王の話です。膠東康王は淮南王の謀反に備えて武具を作っていたことが露見し、帝との近い間柄を思って心を痛めて病死しました。寵姫の子を後継ぎにしたい気持ちを抑えて口にしなかった点は、筋を守った例と言えます。常山憲王は放縦で、寵愛の偏りから家庭が崩れていました。王后は嫉妬から看病せず、太子も薬の毒見すらせず、冷遇された長男梲には遺産も分けません。郎官が公平に分けるよう進言しても聞き入れませんでした。父の偏愛、母の嫉妬、子の冷淡が重なり、次の段で国そのものを失う伏線になります。家族経営や後継ぎ問題で、親の偏りがいかに子どもたちの関係を壊すかを示す典型例です。

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