折たく柴の記 / 『折たく柴の記』新井家の家族と母君の出自
我が父の、母にておはしましし人をむかへ給ひしは、四十にははるかに餘り給ひしほどの事なるべし。初に女子二人までおはせしに、二人ながら三歳にもたらずしてうせたまひ。(第一女はおまつ君、承應二年三月廿九日にうせ給ひ、第二女はおよね君、承應三年十二月廿三日にうせ給ふ)其の次も女子にて、十九歳にでうせ給ひしなり。(おてい君、寛文十一年正月十七日にうせ給ひぬ。)我が妹一人ありしも、十八歳にてうせにき。(おまてといふ。延寶五年五月八日にうせたりき。)我生れし事は、父は五十七歳、母は四十二歳になり給ひし時の事なり。(明曆三年丁酉二月なり。)我が母にておはせし人は、いかなる人の子にておはしけるにや、さだかならず。あねいもと二人おはしたりき。我ものごゝろをわきまへしより折にふれて外祖の御事をとひまゐらせしかど、人の親の、わが子につゝむ事あるべしやは。しらせ參らすべき事ならねばこそ、あらはし聞え侍らね。昔のやむでとなき人も、すぢなきものゝ腹にやどり給ふためしはいにしへも今も多かるものを、母の父母の御事しり給はぬとも、なにかはづかしき事あるべき。されど、年たけ給ひしのちは、思ひあはせ給ふ事もあるべければ、よしなき身なれども申すなり。みづからがおやおほぢの御事は、世にはしり給はぬ人もあらじ、信長記といふ者にも、うづもれぬ名のみ殘り給へりしか。又母かたのおほぢの、高麗の城を攻めとられし事をも、ある人の語りしを、よそながら聞きし事もこそありつれと、なきくどき給ひし事ありき。丹羽の宰相のむすめの、よめいられし時に、小上臈といふものになされて、淺野の家にゆき給ひしが、後には長生院といふあまぜの、陸奥の二本松といふ所におはしけるが、そのもとに歸り住み給ひしを、我が父のもとにむかへられしと聞えし。かのあまぜは、宰相のいもうとにて、古田大膳大夫の後室にておはせし。我いとけなき比も、その世におはせしほどは、おとづれのたえずありしを覺えたりき。我が母の兄御のかき給ひしものを、うせ給ひし後に、人の得させしなりとて、秘藏せさせ給ひしふみに、みづからの名を、坂上とばかりしるされたり。今はめづらしきほどの手かきにておはせし。よく我が母のかゝせ給ひしものに似給へり。殊に秘藏せさせ給ひしものなれは、母のかきおかせ給ひしものどもとおなじく今もあるなり。
新字:我が父の、母にておはしましし人をむかへ給ひしは、四十にははるかに余り給ひしほどの事なるべし。初に女子二人までおはせしに、二人ながら三歳にもたらずしてうせたまひ。(第一女はおまつ君、承応二年三月廿九日にうせ給ひ、第二女はおよね君、承応三年十二月廿三日にうせ給ふ)其の次も女子にて、十九歳にでうせ給ひしなり。(おてい君、寛文十一年正月十七日にうせ給ひぬ。)我が妹一人ありしも、十八歳にてうせにき。(おまてといふ。延宝五年五月八日にうせたりき。)我生れし事は、父は五十七歳、母は四十二歳になり給ひし時の事なり。(明暦三年丁酉二月なり。)我が母にておはせし人は、いかなる人の子にておはしけるにや、さだかならず。あねいもと二人おはしたりき。我ものごゝろをわきまへしより折にふれて外祖の御事をとひまゐらせしかど、人の親の、わが子につゝむ事あるべしやは。しらせ参らすべき事ならねばこそ、あらはし聞え侍らね。昔のやむでとなき人も、すぢなきものゝ腹にやどり給ふためしはいにしへも今も多かるものを、母の父母の御事しり給はぬとも、なにかはづかしき事あるべき。されど、年たけ給ひしのちは、思ひあはせ給ふ事もあるべければ、よしなき身なれども申すなり。みづからがおやおほぢの御事は、世にはしり給はぬ人もあらじ、信長記といふ者にも、うづもれぬ名のみ残り給へりしか。又母かたのおほぢの、高麗の城を攻めとられし事をも、ある人の語りしを、よそながら聞きし事もこそありつれと、なきくどき給ひし事ありき。丹羽の宰相のむすめの、よめいられし時に、小上臈といふものになされて、浅野の家にゆき給ひしが、後には長生院といふあまぜの、陸奥の二本松といふ所におはしけるが、そのもとに帰り住み給ひしを、我が父のもとにむかへられしと聞えし。かのあまぜは、宰相のいもうとにて、古田大膳大夫の後室にておはせし。我いとけなき比も、その世におはせしほどは、おとづれのたえずありしを覚えたりき。我が母の兄御のかき給ひしものを、うせ給ひし後に、人の得させしなりとて、秘蔵せさせ給ひしふみに、みづからの名を、坂上とばかりしるされたり。今はめづらしきほどの手かきにておはせし。よく我が母のかゝせ給ひしものに似給へり。殊に秘蔵せさせ給ひしものなれは、母のかきおかせ給ひしものどもとおなじく今もあるなり。
書き下し
我が父の、母にておはしましし人をむかへ給ひしは、四十にははるかに餘り給ひしほどの事なるべし。初に女子二人までおはせしに、二人ながら三歳にもたらずしてうせたまひ。(第一女はおまつ君、承應二年三月廿九日にうせ給ひ、第二女はおよね君、承應三年十二月廿三日にうせ給ふ)其の次も女子にて、十九歳にでうせ給ひしなり。(おてい君、寛文十一年正月十七日にうせ給ひぬ。)我が妹一人ありしも、十八歳にてうせにき。(おまてといふ。延寶五年五月八日にうせたりき。)我生れし事は、父は五十七歳、母は四十二歳になり給ひし時の事なり。(明曆三年丁酉二月なり。)我が母にておはせし人は、いかなる人の子にておはしけるにや、さだかならず。あねいもと二人おはしたりき。我ものごゝろをわきまへしより折にふれて外祖の御事をとひまゐらせしかど、人の親の、わが子につゝむ事あるべしやは。しらせ參らすべき事ならねばこそ、あらはし聞え侍らね。昔のやむでとなき人も、すぢなきものゝ腹にやどり給ふためしはいにしへも今も多かるものを、母の父母の御事しり給はぬとも、なにかはづかしき事あるべき。されど、年たけ給ひしのちは、思ひあはせ給ふ事もあるべければ、よしなき身なれども申すなり。みづからがおやおほぢの御事は、世にはしり給はぬ人もあらじ、信長記といふ者にも、うづもれぬ名のみ殘り給へりしか。又母かたのおほぢの、高麗の城を攻めとられし事をも、ある人の語りしを、よそながら聞きし事もこそありつれと、なきくどき給ひし事ありき。丹羽の宰相のむすめの、よめいられし時に、小上臈といふものになされて、淺野の家にゆき給ひしが、後には長生院といふあまぜの、陸奥の二本松といふ所におはしけるが、そのもとに歸り住み給ひしを、我が父のもとにむかへられしと聞えし。かのあまぜは、宰相のいもうとにて、古田大膳大夫の後室にておはせし。我いとけなき比も、その世におはせしほどは、おとづれのたえずありしを覺えたりき。我が母の兄御のかき給ひしものを、うせ給ひし後に、人の得させしなりとて、秘藏せさせ給ひしふみに、みづからの名を、坂上とばかりしるされたり。今はめづらしきほどの手かきにておはせし。よく我が母のかゝせ給ひしものに似給へり。殊に秘藏せさせ給ひしものなれは、母のかきおかせ給ひしものどもとおなじく今もあるなり。
現代語訳
我が父が、母君を迎えられたのは、四十をはるかに過ぎたころのことであろう。初めに女子が二人おられたが、二人とも三歳にもならずに亡くなられた。(第一女はおまつ君、承応二年三月二十九日に亡くなり、第二女はおよね君、承応三年十二月二十三日に亡くなられた)その次も女子で、十九歳で亡くなられた。(おてい君、寛文十一年正月十七日に亡くなられた。)我が妹が一人いたのも、十八歳で亡くなった。(おまてという。延宝五年五月八日に亡くなった。)自分が生まれたのは、父が五十七歳、母が四十二歳になられたときのことである。(明暦三年丁酉二月である。)我が母であった人は、どのような人の子でいらっしゃったのか、はっきりしない。姉と妹の二人がいらした。自分が物心がついてから折にふれて外祖父のことを尋ね申し上げたが、人の親が、わが子に包み隠すことがあってよいものでしょうか。お知らせしてよいことではないからこそ、はっきりとは申し上げないのです、と(母は)おっしゃった。昔の高貴な人も、筋の定かでない者の腹にお宿りになった例は、昔も今も多いものを、母の父母のことをご存じなくとも、何の恥ずかしいことがあろうか。けれども、年を重ねた後は思い合わせられることもあるだろうから、取るに足りない身ではあるが申すのである。私の親や祖父のことは、世に知らない人もあるまい。信長記という書物にも、埋もれぬ名だけは残っておられる。また母方の祖父が、高麗の城を攻め取ったことをも、ある人が語ったのを、よそながら聞いたことがありました、と泣いて繰り返しおっしゃったことがあった。丹羽の宰相の娘が嫁入りされたとき、小上臈という者にされて浅野の家に行かれたが、のちには長生院という尼で、陸奥の二本松という所におられた方のもとに帰り住まわれたのを、我が父のもとに迎えられたと聞いている。その尼は宰相の妹で、古田大膳大夫の後室であられた。自分が幼いころも、その方が世におられた間は、便りが絶えずあったのを覚えている。我が母の兄君が書かれた物を、亡くなられた後に人が贈ってくれたといって秘蔵されていた書状に、自分の名を坂上とだけ記されていた。今では珍しいほどの能筆でいらした。よく我が母の書かれた物に似ておられる。とくに秘蔵されていた物なので、母の書き置かれた物どもと同じく、今もある。
解説

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