史記 / 五宗世家
相、二千石往者,奉漢法以治,端輒求其罪告之,無罪者詐藥殺之。所以設詐究變,彊足以距諫,智足以飾非。相、二千石從王治,則漢繩以法。故膠西小國,而所殺傷二千石甚眾。立四十七年,卒,竟無男代後,國除,地入于漢,為膠西郡。右三國本王皆程姬之子也。趙王彭祖,以孝景前二年用皇子為廣川王。趙王遂反破後,彭祖王廣川。四年,徙為趙王。十五年,孝景帝崩。彭祖為人巧佞卑諂,足恭而心刻深。好法律,持詭辯以中人。彭祖多內寵姬及子孫。相、二千石欲奉漢法以治,則害於王家。是以每相、二千石至,彭祖衣皁布衣,自行迎,除二千石舍,多設疑事以作動之,得二千石失言,中忌諱,輒書之。二千石欲治者,則以此迫劫;不聽,乃上書告,及汙以姦利事。彭祖立五十餘年,相、二千石無能滿二歲,輒以罪去,大者死,小者刑,以故二千石莫敢治。而趙王擅權,使使即縣為賈人榷會,入多於國經租稅。以是趙王家多金錢,然所賜姬諸子,亦盡之矣。彭祖取筆江都易王寵姬王建所盜與姦淖姬者為姬,甚愛之。彭祖不好治宮室、禨祥,好為吏事。上書願督國中盜賊。常夜從走卒行徼邯鄲中。諸使過客以彭祖險陂,莫敢留邯鄲。
新字:相、二千石往者,奉漢法以治,端輒求其罪告之,無罪者詐薬殺之。所以設詐究変,彊足以距諫,智足以飾非。相、二千石従王治,則漢縄以法。故膠西小国,而所殺傷二千石甚衆。立四十七年,卒,竟無男代後,国除,地入于漢,為膠西郡。右三国本王皆程姫之子也。趙王彭祖,以孝景前二年用皇子為広川王。趙王遂反破後,彭祖王広川。四年,徙為趙王。十五年,孝景帝崩。彭祖為人巧佞卑諂,足恭而心刻深。好法律,持詭弁以中人。彭祖多内寵姫及子孫。相、二千石欲奉漢法以治,則害於王家。是以毎相、二千石至,彭祖衣皁布衣,自行迎,除二千石舎,多設疑事以作動之,得二千石失言,中忌諱,輒書之。二千石欲治者,則以此迫劫;不聴,乃上書告,及汚以姦利事。彭祖立五十余年,相、二千石無能満二歳,輒以罪去,大者死,小者刑,以故二千石莫敢治。而趙王擅権,使使即県為賈人榷会,入多於国経租税。以是趙王家多金銭,然所賜姫諸子,亦尽之矣。彭祖取筆江都易王寵姫王建所盗与姦淖姫者為姫,甚愛之。彭祖不好治宮室、禨祥,好為吏事。上書願督国中盗賊。常夜従走卒行徼邯鄲中。諸使過客以彭祖険陂,莫敢留邯鄲。
書き下し
相・二千石の往く者、漢法を奉じて以て治むれば、端輒ち其の罪を求めて之を告ぐ、罪無き者は詐りて之を薬殺す。詐を設け変を究むる所以、彊は以て諫を距ぐに足り、智は以て非を飾るに足る。相・二千石王に従ひて治むれば、則ち漢法を以て縄す。故に膠西は小国なれども、殺傷する所の二千石甚だ衆し。立つこと四十七年にして、卒し、竟に男の後に代はる無く、国除かれ、地は漢に入り、膠西郡と為る。右の三国の本王は皆程姫の子なり。趙王彭祖、孝景の前二年を以て皇子を用て広川王と為る。趙王遂反して破れし後、彭祖広川に王たり。四年にして、徙りて趙王と為る。十五年、孝景帝崩ず。彭祖は人と為り巧佞卑諂、足恭にして心刻深なり。法律を好み、詭弁を持して以て人に中つ。彭祖内寵の姫及び子孫多し。相・二千石漢法を奉じて以て治めんと欲すれば、則ち王家に害あり。是を以て相・二千石の至る毎に、彭祖皁布の衣を衣て、自ら行きて迎へ、二千石の舎を除し、多く疑事を設けて以て之を作動し、二千石の失言して、忌諱に中るを得れば、輒ち之を書す。二千石治めんと欲する者は、則ち此を以て迫劫す。聴かざれば、乃ち上書して告げ、及び汚すに姦利の事を以てす。彭祖立つこと五十余年、相・二千石能く二歳に満つる無く、輒ち罪を以て去る、大なる者は死し、小なる者は刑せらる、故を以て二千石敢へて治むる莫し。而して趙王権を擅にし、使をして県に即きて賈人の榷会を為さしめ、入ること国の経の租税より多し。是を以て趙王の家金銭多し、然れども姫諸子に賜ふ所、亦之を尽くす。彭祖故の江都易王の寵姫にして王建の盗みて姦する所の淖姫なる者を取りて姫と為し、甚だ之を愛す。彭祖宮室・禨祥を治むるを好まず、吏事を為すを好む。上書して国中の盗賊を督せんことを願ふ。常に夜走卒に従ひて邯鄲の中を行徼す。諸使過客彭祖の険陂なるを以て、敢へて邯鄲に留まる莫し。
現代語訳
(膠西国に)宰相や二千石の官として赴任した者が漢の法に従って治めようとすると、端はそのたびに彼らの罪を探して告発し、罪のない者は偽って毒殺した。策略を設けて相手の出方を探り尽くし、その強さは諫言をはね返すのに十分で、その知恵は過ちを取り繕うのに十分であった。宰相や二千石が王の言うとおりに治めれば、今度は漢が法でこれを裁いた。そのため膠西は小国であったが、殺されたり傷つけられたりした二千石の官はきわめて多かった。端は王となって四十七年で亡くなり、ついに跡を継ぐ男子がなく、国は廃され、領地は漢に編入されて膠西郡となった。以上の三国の初代の王はみな程姫の子である。趙王彭祖は、孝景帝の前元二年に皇子として広川王となった。趙王遂が反乱して敗れた後、彭祖は広川の王であったが、四年目に趙王に移った。十五年目に孝景帝が崩じた。彭祖は口先がうまく、へつらって卑屈で、うわべは極端に丁寧だが、心は冷酷で執念深かった。法律を好み、詭弁を用いて人を陥れた。彭祖には寵愛する姫や子孫が多かった。宰相や二千石が漢の法に従って治めようとすれば、王家に不都合が生じた。そこで宰相や二千石が赴任してくるたびに、彭祖は黒い粗末な服を着て自ら出迎え、二千石の宿舎を掃き清め、紛らわしい話を持ちかけて相手を揺さぶり、二千石が失言してタブーに触れるようなことを言えば、すぐに書き留めた。二千石で本気で治めようとする者がいれば、これを使って脅した。言うことを聞かなければ上書して告発し、さらに不正な利得の罪をかぶせた。彭祖が王となって五十余年、宰相や二千石で二年を全うできた者はなく、いつも罪を得て去り、重い者は死刑、軽い者は刑罰を受けた。そのため二千石で本気で治めようとする者はいなくなった。そして趙王は権力をほしいままにし、使者を県に送って商人に専売の取引をさせ、その収入は国の正規の租税よりも多かった。こうして趙王の家には金銭が多かったが、姫や子どもたちに与えて使い尽くしてしまった。彭祖は、かつて江都易王の寵姫で、王建が盗んで密通した淖姫を自分の姫とし、非常に愛した。彭祖は宮殿の造営や吉凶の祭りを好まず、役人の仕事をするのを好んだ。上書して国内の盗賊の取り締まりを任せてほしいと願い出た。いつも夜になると走卒を連れて邯鄲の町を巡回した。使者や旅人たちは、彭祖が陰険でひねくれているので、邯鄲に留まろうとする者はいなかった。
解説
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史記 五宗世家景帝非に将軍の印を賜ひ、呉を撃たしむ。呉已に破れ、二歳にして、徙りて江都王と為り、呉の故国を治め、軍功を以て天子の旌旗を賜はる。元光五年、匈奴大いに漢に入りて賊を為す、非上書して匈奴を撃たんことを願ふも、上許さず。非は気力を好み、宮観を治め、四方の豪桀を招き、驕奢甚だし。立つこと二十六年にして卒し、子建立ちて王と為る。七年にして自殺す。淮南・衡山謀反する時、建頗る其の謀を聞く。自ら以為へらく国淮南に近し、一日発せば、并はする所と為らんことを恐れ、即ち陰かに兵器を作り、而して時に其の父の賜はる所の将軍の印を佩び、天子の旗を載せて以て出づ。易王死して未だ葬らざるに、建易王の寵美人淖姫を説ぶ所有り、夜人をして迎へしめて服舎の中に姦す。淮南の事発するに及び、党与を治むること頗る江都王建に及ぶ。建恐れ、因りて人をして多く金銭を持たしめ、其の獄を事絶せしむ。而して又巫祝を信じ、人をして禱祠して妄言せしむ。建又尽く其の姊弟と姦す。事既に聞こゆ、漢の公卿建を捕へ治めんことを請ふ。天子忍びず、大臣をして即きて王を訊はしむ。王犯す所に服し、遂に自殺す。国除かれ、地は漢に入り、広陵郡と為る。膠西の于王端、孝景の前三年呉楚七国反して破れし後を以て、端皇子を用て膠西王と為る。端は人と為り賊戻にして、又陰痿なり、一たび婦人に近づけば、之を病むこと数月なり。而して愛幸する少年の郎為る有り。郎為る者頃之にして後宮と乱る、端禽へて之を滅し、及び其の子母を殺す。数々上法を犯す、漢の公卿数々端を誅せんことを請ふも、天子兄弟の故を為て忍びず、而して端の為す所滋々甚だし。有司再び其の国を削らんことを請ひ、太半を去る。端心に慍り、遂に無訾省を為す。府庫壊漏し尽く、財物を腐らすこと巨万を以て計ふるも、終に収め徙すを得ず。吏をして租賦を収むるを得る毋からしむ。端皆衛を去り、其の宮門を封じ、一門より出でて游ぶ。数々名姓を変じ、布衣と為り、他の郡国に之く。
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史記 楚元王世家王純立ち、地節二年、中人上書して楚王の謀反を告ぐ、王自殺し、国除かれ、漢に入りて彭城郡と為る。趙王劉遂は、其の父は高祖の中子、名は友、謚して「幽」と曰ふ。幽王憂ひを以て死す、故に「幽」と為す。高后呂禄を趙に王とす、一歳にして高后崩ず。大臣諸呂呂禄等を誅し、乃ち幽王の子遂を立てて趙王と為す。孝文帝即位して二年、遂の弟辟彊を立て、趙の河間郡を取りて河間王と為す、[是れ]を文王と為す。立ちて十三年にして卒し、子哀王福立つ。一年にして卒し、子無く、後を絶ち、国除かれ、漢に入る。遂既に趙に王たること二十六年、孝景帝の時晁錯に坐して適を以て趙王の常山の郡を削らる。呉楚反き、趙王遂与に合謀して兵を起こす。其の相建徳・内史王悍諫む、聴かず。遂建徳・王悍を焼殺し、兵を発して其の西界に屯し、呉と倶に西せんことを待たんと欲す。北のかた匈奴に使ひし、与に連和して漢を攻む。漢、曲周侯酈寄をして之を撃たしむ。趙王遂還り、邯鄲に城守し、相距ぐこと七月。呉楚梁に敗れ、西する能はず。匈奴之を聞き、亦た止みて、肯へて漢の辺に入らず。欒布斉を破りて還り、乃ち兵を并せ水を引きて趙の城に灌ぐ。趙の城壊れ、趙王自殺し、邯鄲遂に降る。趙の幽王後を絶つ。太史公曰く、国の将に興らんとするや、必ず禎祥有り、君子用ひられて小人退く。国の将に亡びんとするや、賢人隠れ、乱臣貴し。楚王戊をして申公を刑すること毋く、其の言に遵はしめ、趙をして防与先生に任ぜしめば、豈に簒殺の謀有りて、天下の僇と為らんや。賢人か、賢人か。質其の内に有るに非ずんば、悪んぞ能く之を用ひんや。甚だしいかな、「安危は令を出だすに在り、存亡は任ずる所に在り」と、誠なるかな是の言や。
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史記 五宗世家淮南王謀反する時、寄微かに其の事を聞き、私かに楼車鏃矢戦守の備へを作り、淮南の起こるを候ふ。吏淮南の事を治むるに及び、辞之を出だす。寄上に於いて最も親しく、意之を傷み、病を発して死す、敢へて後を置かず、是に於いて上聞く。寄に長子なる者有り名は賢、母寵無し。少子は名を慶、母愛幸せらる、寄常に之を立てんと欲するも、不次為り、過有るに因りて、遂に言ふ無し。上之を憐れみ、乃ち賢を以て膠東王と為して康王の嗣を奉ぜしめ、而して慶を故の衡山の地に封じ、六安王と為す。膠東王賢立つこと十四年にして卒し、謚して哀王と為す。子慶王と為る。六安王慶、元狩二年を以て膠東の康王の子を用て六安王と為る。清河の哀王乗、孝景の中三年を以て皇子を用て清河王と為る。十二年にして卒し、後無く、国除かれ、地は漢に入り、清河郡と為る。常山の憲王舜、孝景の中五年を以て皇子を用て常山王と為る。舜最も親しく、景帝の少子にして、驕怠多淫、数々禁を犯す、上常に寛く之を釈す。立つこと三十二年にして卒し、太子勃代はりて立ちて王と為る。初め、憲王舜に愛せざる所の姫有りて長男梲を生む。梲母の寵無きを以ての故に、亦王に幸せらるるを得ず。王后脩太子勃を生む。王の内多く、幸する所の姫子平・子商を生む、王后希に幸せらるるを得。憲王の病甚だしきに及び、諸幸姫常に病に侍す、故に王后も亦妒媢を以て常には病に侍せず、輒ち舎に帰る。医薬を進むるに、太子勃自ら薬を嘗めず、又宿留して病に侍せず。王薨ずるに及びて、王后・太子乃ち至る。憲王雅より長子梲を以て人数と為さず、薨ずるに及び、又財物を分与せず。郎或ひと太子・王后に説き、諸子をして長子梲と共に財物を分かたしめんとするも、太子・王后聴かず。太子代はりて立ち、又梲を収恤せず。梲王后・太子を怨む。
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