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史記 / 五宗世家

景帝賜非將軍印,擊吳。吳已破,二歲,徙為江都王,治吳故國,以軍功賜天子旌旗。元光五年,匈奴大入漢為賊,非上書願擊匈奴,上不許。非好氣力,治宮觀,招四方豪桀,驕奢甚。立二十六年卒,子建立為王。七年自殺。淮南、衡山謀反時,建頗聞其謀。自以為國近淮南,恐一日發,為所并,即陰作兵器,而時佩其父所賜將軍印,載天子旗以出。易王死未葬,建有所說易王寵美人淖姬,夜使人迎與姦服舍中。及淮南事發,治黨與頗及江都王建。建恐,因使人多持金錢,事絕其獄。而又信巫祝,使人禱祠妄言。建又盡與其姊弟姦。事既聞,漢公卿請捕治建。天子不忍,使大臣即訊王。王服所犯,遂自殺。國除,地入于漢,為廣陵郡。膠西于王端,以孝景前三年吳楚七國反破後,端用皇子為膠西王。端為人賊戾,又陰痿,一近婦人,病之數月。而有愛幸少年為郎。為郎者頃之與後宮亂,端禽滅之,及殺其子母。數犯上法,漢公卿數請誅端,天子為兄弟之故不忍,而端所為滋甚。有司再請削其國,去太半。端心慍,遂為無訾省。府庫壞漏盡,腐財物以巨萬計,終不得收徙。令吏毋得收租賦。端皆去衛,封其宮門,從一門出游。數變名姓,為布衣,之他郡國。

新字:景帝賜非将軍印,撃呉。呉已破,二歳,徙為江都王,治呉故国,以軍功賜天子旌旗。元光五年,匈奴大入漢為賊,非上書願撃匈奴,上不許。非好気力,治宮観,招四方豪桀,驕奢甚。立二十六年卒,子建立為王。七年自殺。淮南、衡山謀反時,建頗聞其謀。自以為国近淮南,恐一日発,為所并,即陰作兵器,而時佩其父所賜将軍印,載天子旗以出。易王死未葬,建有所説易王寵美人淖姫,夜使人迎与姦服舎中。及淮南事発,治党与頗及江都王建。建恐,因使人多持金銭,事絶其獄。而又信巫祝,使人祷祠妄言。建又尽与其姊弟姦。事既聞,漢公卿請捕治建。天子不忍,使大臣即訊王。王服所犯,遂自殺。国除,地入于漢,為広陵郡。膠西于王端,以孝景前三年呉楚七国反破後,端用皇子為膠西王。端為人賊戻,又陰痿,一近婦人,病之数月。而有愛幸少年為郎。為郎者頃之与後宮乱,端禽滅之,及殺其子母。数犯上法,漢公卿数請誅端,天子為兄弟之故不忍,而端所為滋甚。有司再請削其国,去太半。端心慍,遂為無訾省。府庫壊漏尽,腐財物以巨万計,終不得収徙。令吏毋得収租賦。端皆去衛,封其宮門,従一門出游。数変名姓,為布衣,之他郡国。

書き下し

景帝非に将軍の印を賜ひ、呉を撃たしむ。呉已に破れ、二歳にして、徙りて江都王と為り、呉の故国を治め、軍功を以て天子の旌旗を賜はる。元光五年、匈奴大いに漢に入りて賊を為す、非上書して匈奴を撃たんことを願ふも、上許さず。非は気力を好み、宮観を治め、四方の豪桀を招き、驕奢甚だし。立つこと二十六年にして卒し、子建立ちて王と為る。七年にして自殺す。淮南・衡山謀反する時、建頗る其の謀を聞く。自ら以為へらく国淮南に近し、一日発せば、并はする所と為らんことを恐れ、即ち陰かに兵器を作り、而して時に其の父の賜はる所の将軍の印を佩び、天子の旗を載せて以て出づ。易王死して未だ葬らざるに、建易王の寵美人淖姫を説ぶ所有り、夜人をして迎へしめて服舎の中に姦す。淮南の事発するに及び、党与を治むること頗る江都王建に及ぶ。建恐れ、因りて人をして多く金銭を持たしめ、其の獄を事絶せしむ。而して又巫祝を信じ、人をして禱祠して妄言せしむ。建又尽く其の姊弟と姦す。事既に聞こゆ、漢の公卿建を捕へ治めんことを請ふ。天子忍びず、大臣をして即きて王を訊はしむ。王犯す所に服し、遂に自殺す。国除かれ、地は漢に入り、広陵郡と為る。膠西の于王端、孝景の前三年呉楚七国反して破れし後を以て、端皇子を用て膠西王と為る。端は人と為り賊戻にして、又陰痿なり、一たび婦人に近づけば、之を病むこと数月なり。而して愛幸する少年の郎為る有り。郎為る者頃之にして後宮と乱る、端禽へて之を滅し、及び其の子母を殺す。数々上法を犯す、漢の公卿数々端を誅せんことを請ふも、天子兄弟の故を為て忍びず、而して端の為す所滋々甚だし。有司再び其の国を削らんことを請ひ、太半を去る。端心に慍り、遂に無訾省を為す。府庫壊漏し尽く、財物を腐らすこと巨万を以て計ふるも、終に収め徙すを得ず。吏をして租賦を収むるを得る毋からしむ。端皆衛を去り、其の宮門を封じ、一門より出でて游ぶ。数々名姓を変じ、布衣と為り、他の郡国に之く。

現代語訳

景帝は非に将軍の印を与え、呉を撃たせた。呉が破れて二年後、非は江都王に移って旧呉国の地を治め、軍功によって天子の旗を用いることを許された。元光五年、匈奴が大挙して漢に侵入し略奪したとき、非は上書して匈奴を撃ちたいと願ったが、帝は許さなかった。非は気力を好み、宮殿や楼観を造り、四方の豪傑を招き、ひどく驕り贅沢であった。王となって二十六年で亡くなり、子の建が立って王となった。建は七年目に自殺した。淮南王・衡山王が謀反を企てたとき、建はその計画をかなり聞き知っていた。自分の国は淮南に近いので、ある日事が起これば併合されてしまうと恐れ、ひそかに武器を作り、ときおり父が賜った将軍の印を帯び、天子の旗を車に立てて外出した。易王(非)が死んでまだ葬らないうちに、建は易王が寵愛した美人の淖姫(とうき)に心を寄せ、夜に人を遣わして迎えさせ、喪中の仮屋で密通した。淮南の事件が発覚すると、その仲間の取り調べが江都王建にまで及んだ。建は恐れ、人に大量の金銭を持たせて、その取り調べをもみ消させた。また巫祝(みこ)を信じ、人に祈祷させてでたらめを言わせた。建はさらに姉妹すべてと密通した。事が朝廷に知れると、漢の公卿は建を逮捕して取り調べるよう求めた。天子は忍びず、大臣を遣わして王のもとで尋問させた。王は罪を認め、ついに自殺した。国は廃され、領地は漢に編入されて広陵郡となった。膠西の于王端は、孝景帝の前元三年、呉楚七国の乱が鎮圧された後に、皇子として膠西王となった。端は人柄が残忍でひねくれており、そのうえ性的に不能で、一度女性に近づくと数か月も病みつくほどであった。寵愛する少年がいて郎官としていた。その郎官がやがて後宮の女性と密通すると、端はこれを捕らえて一族を滅ぼし、その子や母まで殺した。たびたび国の法を犯し、漢の公卿はたびたび端の誅殺を求めたが、天子は兄弟であるために忍びず、端の行いはますますひどくなった。担当官が再び封国の削減を求め、半分以上を削った。端は内心恨み、ついに一切を顧みなくなった。倉は壊れて雨漏りし、腐らせた財物は億単位に上ったが、最後まで収めて移させなかった。役人に租税を取り立てることを禁じた。端は護衛をすべて退け、宮殿の門を封じて一つの門からだけ出て遊び回った。たびたび名前を変えて庶民の身なりをし、他の郡や国へ出かけた。

解説

程姫の子、江都易王劉非と膠西于王劉端の話です。劉非は十五歳で呉楚七国の乱に志願して戦功を立てた武勇の人でしたが、その子の劉建は淮南王の謀反に怯えて武器を作り、父の寵姫や姉妹と密通し、巫祝に頼り、ついに自殺して国を失います。劉端は残忍で、寵臣の不始末に一族皆殺しで応じ、法を犯し続けても兄弟だからと処罰されず、国を削られると拗ねて倉が腐るのも放置し、身分を隠して遊び歩きました。司馬遷は皇族の醜聞を隠さず書き連ね、特権と甘い処分が人をどこまで堕落させるかを示しています。罰すべきときに罰しない情けが、かえって本人と周囲を不幸にする。組織の規律の運用として読める段です。

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