史記 / 梁孝王世家
大臣不時正言其不可狀,阿意治小,私說意以受賞賜,非忠臣也。齊如魏其侯竇嬰之正言也,何以有後禍?景帝與王燕見,侍太后飲,景帝曰:「千秋萬歲之後傳王。」太后喜說。竇嬰在前,據地言曰:「漢法之約,傳子適孫,今帝何以得傳弟,擅亂高帝約乎!」於是景帝默然無聲。太后意不說。故成王與小弱弟立樹下,取一桐葉以與之,曰:「吾用封汝。」周公聞之,進見曰:「天王封弟,甚善。」成王曰:「吾直與戲耳。」周公曰:「人主無過舉,不當有戲言,言之必行之。」於是乃封小弟以應縣。是後成王沒齒不敢有戲言,言必行之。《孝經》曰:「非法不言,非道不行。」此聖人之法言也。今主上不宜出好言於梁王。梁王上有太后之重,驕蹇日久,數聞景帝好言,千秋萬世之後傳王,而實不行。又諸侯王朝見天子,漢法凡當四見耳。始到,入小見;到正月朔旦,奉皮薦璧玉賀正月,法見;後三日,為王置酒,賜金錢財物;後二日,復入小見,辭去。凡留長安不過二十日。小見者,燕見於禁門內,飲於省中,非士人所得入也。今梁王西朝,因留,且半歲。入與人主同輦,出與同車。示風以大言而實不與,令出怨言,謀畔逆,乃隨而憂之,不亦遠乎!非大賢人,不知退讓。
新字:大臣不時正言其不可状,阿意治小,私説意以受賞賜,非忠臣也。斉如魏其侯竇嬰之正言也,何以有後禍?景帝与王燕見,侍太后飲,景帝曰:「千秋万歳之後伝王。」太后喜説。竇嬰在前,拠地言曰:「漢法之約,伝子適孫,今帝何以得伝弟,擅乱高帝約乎!」於是景帝黙然無声。太后意不説。故成王与小弱弟立樹下,取一桐葉以与之,曰:「吾用封汝。」周公聞之,進見曰:「天王封弟,甚善。」成王曰:「吾直与戯耳。」周公曰:「人主無過舉,不当有戯言,言之必行之。」於是乃封小弟以応県。是後成王没歯不敢有戯言,言必行之。《孝経》曰:「非法不言,非道不行。」此聖人之法言也。今主上不宜出好言於梁王。梁王上有太后之重,驕蹇日久,数聞景帝好言,千秋万世之後伝王,而実不行。又諸侯王朝見天子,漢法凡当四見耳。始到,入小見;到正月朔旦,奉皮薦璧玉賀正月,法見;後三日,為王置酒,賜金銭財物;後二日,復入小見,辞去。凡留長安不過二十日。小見者,燕見於禁門内,飲於省中,非士人所得入也。今梁王西朝,因留,且半歳。入与人主同輦,出与同車。示風以大言而実不与,令出怨言,謀畔逆,乃随而憂之,不亦遠乎!非大賢人,不知退譲。
書き下し
大臣時に其の不可なる状を正言せず、意に阿りて小を治め、私かに意を説ばしめて以て賞賜を受く、忠臣に非ざるなり。斉しく魏其侯竇嬰の正言の如くんば、何を以て後禍有らんや。景帝王と燕見し、太后に侍して飲む、景帝曰く、「千秋万歳の後王に伝へん」と。太后喜説す。竇嬰前に在り、地に拠りて言ひて曰く、「漢法の約は、子適孫に伝ふ、今帝何を以て弟に伝ふるを得て、擅に高帝の約を乱さんや」と。是に於いて景帝黙然として声無し。太后の意説ばず。故に成王小弱の弟と樹下に立ち、一桐葉を取りて以て之に与へて、曰く、「吾用て汝を封ぜん」と。周公之を聞き、進み見えて曰く、「天王弟を封ずるは、甚だ善し」と。成王曰く、「吾直だ与に戯るるのみ」と。周公曰く、「人主は過挙無く、当に戯言有るべからず、之を言へば必ず之を行ふ」と。是に於いて乃ち小弟を封ずるに応県を以てす。是の後成王歯を没するまで敢へて戯言有らず、言へば必ず之を行ふ。孝経に曰く、「法に非ざれば言はず、道に非ざれば行はず」と。此れ聖人の法言なり。今主上宜しく好言を梁王に出だすべからず。梁王は上に太后の重き有り、驕蹇日久し、数々景帝の好言を聞く、千秋万世の後王に伝へんと、而して実は行はず。又諸侯王の天子に朝見するは、漢法凡そ当に四見すべきのみ。始めて到れば、入りて小見す。正月朔旦に到りて、皮薦璧玉を奉じて正月を賀す、法見なり。後三日、王の為に置酒し、金銭財物を賜ふ。後二日、復た入りて小見し、辞して去る。凡そ長安に留まること二十日に過ぎず。小見とは、禁門の内に燕見し、省中に飲む、士人の入るを得る所に非ざるなり。今梁王西のかた朝し、因りて留まること、且に半歳ならんとす。入りては人主と輦を同じくし、出でては与に車を同じくす。風を示すに大言を以てして実は与へず、怨言を出だし、畔逆を謀らしめ、乃ち随ひて之を憂ふ、亦遠からずや。大賢人に非ざれば、退譲を知らず。
現代語訳
(褚先生は続ける。)大臣たちはそのときに、それがいけない理由をはっきり正面から言わず、主君の意向におもねって小事ばかりを処理し、ひそかに主君を喜ばせて恩賞を受けていた。これは忠臣ではない。皆が魏其侯竇嬰(とうえい)のように正しく直言していれば、どうして後の災いがあっただろうか。景帝が梁王と内輪で会い、太后のそばで酒を飲んでいたとき、景帝は「わたしが死んだ後は、王に位を伝えよう」と言った。太后は喜んだ。竇嬰がその前にいて、地に手をついて言った。「漢の法の定めでは、位は子から嫡孫へと伝えるものだ。いま帝はどうして弟に伝えて、勝手に高帝の定めを乱すことができようか。」そこで景帝は黙り込んで声も出なかった。太后は不機嫌になった。昔、周の成王が幼い弟と木の下に立っていたとき、桐の葉を一枚取って弟に与え、「これでおまえを諸侯に封じよう」と言った。周公がこれを聞き、進み出て言った。「天子が弟君を封じられるとは、まことに結構なことだ。」成王は「ただ戯れただけだ」と言った。周公は言った。「君主は誤った振る舞いをしてはならず、冗談を言ってもならない。口にしたことは必ず実行するものだ。」そこで弟を応県に封じた。それ以後、成王は生涯二度と戯れ言を口にせず、言ったことは必ず実行した。『孝経』に「法にかなわないことは言わず、道にかなわないことは行わない」とある。これは聖人の手本となる言葉である。いまの主上(景帝)は、梁王に甘い言葉をかけるべきではなかった。梁王は上に太后という重い後ろ盾があり、驕り高ぶるようになって久しい。そのうえ景帝から「死後は王に伝える」という甘い言葉をたびたび聞きながら、実際には実行されなかった。また諸侯王が天子に朝見するのは、漢の法では全部で四回だけである。まず到着すると宮中に入って小見(内々の拝謁)をする。正月元日の朝に、鹿皮の敷物に璧玉を載せて献じ、新年を祝う。これが法見(正式の拝謁)である。三日後、王のために酒宴を設け、金銭や財物を賜る。その二日後、再び宮中に入って小見し、暇乞いをして去る。長安に留まるのは合わせて二十日を超えない。小見とは、禁門の内側で内々に会い、宮中で酒を飲むことで、一般の士人の入れる場所ではない。ところが梁王は西へ来て朝見したまま留まり、半年にもなろうとしていた。宮中では君主と同じ輦に乗り、外に出れば同じ車に乗った。大げさな言葉でほのめかしながら実際には与えず、そのために恨み言を言わせ、反逆を企てさせてから、それを心配するというのは、あまりに見通しが甘いではないか。よほどの賢人でなければ、身を引き譲ることなど知らないものなのだ。
解説
関連する章句
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史記 梁孝王世家今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。
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史記 梁孝王世家明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
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史記 梁孝王世家是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
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史記 魏其武安侯列伝魏其侯竇嬰は、孝文后の従兄の子なり。父の世は観津の人なり。賓客を喜む。孝文の時、嬰呉の相と為り、病みて免ぜらる。孝景初めて即位し、詹事と為る。梁の孝王は、孝景の弟なり。其の母竇太后之を愛す。梁の孝王朝し、因りて昆弟燕飲す。是の時上未だ太子を立てず。酒酣にして、従容として言ひて曰く、「千秋の後は梁王に伝へん」と。太后驩ぶ。竇嬰卮酒を引きて上に進めて曰く、「天下は、高祖の天下なり。父子相伝ふるは、此れ漢の約なり。上何を以てか擅に梁王に伝ふるを得ん」と。太后此に由りて竇嬰を憎む。竇嬰も亦其の官を薄んじ、病に因りて免ぜらる。太后竇嬰の門籍を除き、朝請に入るを得ざらしむ。孝景三年、呉楚反す。上宗室の諸竇を察するに、竇嬰の賢に如くは毋し。乃ち嬰を召す。嬰入りて見え、固辞して病みて任ずるに足らずと謝す。太后も亦慚づ。是に於て上曰く、「天下方に急有り。王孫寧ぞ以て譲るべけんや」と。乃ち嬰を拝して大将軍と為し、金千斤を賜ふ。嬰乃ち袁盎・欒布諸々の名将賢士の家に在る者を言ひて之を進む。賜ふ所の金は、之を廊廡の下に陳ね、軍吏過ぐれば、輒ち財り取りて用と為さしむ。金家に入る者無し。竇嬰滎陽を守り、斉趙の兵を監す。七国の兵已に尽く破れ、嬰を封じて魏其侯と為す。諸々の游士賓客争ひて魏其侯に帰す。孝景の時毎に大事を朝議するに、条侯・魏其侯、諸列侯敢へて与に礼を亢しくする莫し。孝景四年、栗太子を立て、魏其侯をして太子の傅と為さしむ。孝景七年、栗太子廃せらる。魏其数々争ふも得る能はず。魏其病と謝し、藍田の南山の下に屏居すること数月、諸々の賓客弁士之に説くも、能く来たらしむる莫し。梁人高遂乃ち魏其に説きて曰く、「能く将軍を富貴にする者は、上なり。能く将軍を親しむ者は、太后なり。今将軍太子に傅たり。太子廃せられて争ふ能はず。争ひて得る能はず、又死する能はず。自ら引きて病と謝し、趙女を擁し、閒処に屏して朝せず。相提へて論ずれば、是れ自ら主上の過を明揚するなり。如し両宮将軍を螫すこと有らば、則ち妻子類毋からん」と。魏其侯之を然りとし、乃ち遂に起ち、朝請すること故の如し。
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