史記 / 梁孝王世家
今漢之儀法,朝見賀正月者,常一王與四侯俱朝見,十餘歲一至。今梁王常比年入朝見,久留。鄙語曰「驕子不孝」,非惡言也。故諸侯王當為置良師傅,相忠言之士,如汲黯、韓長孺等,敢直言極諫,安得有患害!蓋聞梁王西入朝,謁竇太后,燕見,與景帝俱侍坐於太后前,語言私說。太后謂帝曰:「吾聞殷道親親,周道尊尊,其義一也。安車大駕,用梁孝王為寄。」景帝跪席舉身曰:「諾。」罷酒出,帝召袁盎諸大臣通經術者曰:「太后言如是,何謂也?」皆對曰:「太后意欲立梁王為帝太子。」帝問其狀,袁盎等曰:「殷道親親者,立弟。周道尊尊者,立子。殷道質,質者法天,親其所親,故立弟。周道文,文者法地,尊者敬也,敬其本始,故立長子。周道,太子死,立適孫。殷道。太子死,立其弟。」帝曰:「於公何如?」皆對曰:「方今漢家法周,周道不得立弟,當立子。故春秋所以非宋宣公。宋宣公死,不立子而與弟。弟受國死,復反之與兄之子。弟之子爭之,以為我當代父後,即刺殺兄子。以故國亂,禍不絕。故春秋曰『君子大居正,宋之禍宣公為之』。臣請見太后白之。」袁盎等入見太后:「太后言欲立梁王,梁王即終,欲誰立?」太后曰:「吾復立帝子。」
新字:今漢之儀法,朝見賀正月者,常一王与四侯倶朝見,十余歳一至。今梁王常比年入朝見,久留。鄙語曰「驕子不孝」,非悪言也。故諸侯王当為置良師傅,相忠言之士,如汲黯、韓長孺等,敢直言極諫,安得有患害!蓋聞梁王西入朝,謁竇太后,燕見,与景帝倶侍坐於太后前,語言私説。太后謂帝曰:「吾聞殷道親親,周道尊尊,其義一也。安車大駕,用梁孝王為寄。」景帝跪席舉身曰:「諾。」罷酒出,帝召袁盎諸大臣通経術者曰:「太后言如是,何謂也?」皆対曰:「太后意欲立梁王為帝太子。」帝問其状,袁盎等曰:「殷道親親者,立弟。周道尊尊者,立子。殷道質,質者法天,親其所親,故立弟。周道文,文者法地,尊者敬也,敬其本始,故立長子。周道,太子死,立適孫。殷道。太子死,立其弟。」帝曰:「於公何如?」皆対曰:「方今漢家法周,周道不得立弟,当立子。故春秋所以非宋宣公。宋宣公死,不立子而与弟。弟受国死,復反之与兄之子。弟之子争之,以為我当代父後,即刺殺兄子。以故国乱,禍不絶。故春秋曰『君子大居正,宋之禍宣公為之』。臣請見太后白之。」袁盎等入見太后:「太后言欲立梁王,梁王即終,欲誰立?」太后曰:「吾復立帝子。」
書き下し
今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。
現代語訳
(褚先生は続ける。)いまの漢の儀礼の定めでは、朝見して新年を祝う者は、いつも王一人と侯四人がそろって朝見し、十数年に一度都に来るだけである。ところが梁王はいつも毎年のように入朝し、長く留まっていた。俗に「甘やかされた子は親孝行をしない」と言うが、これは悪口ではない。だから諸侯王には良い守り役を置き、宰相には忠言する士、たとえば汲黯(きゅうあん)や韓長孺(韓安国)のように、ためらわず直言して強く諫める者を置くべきである。そうすれば、どうして災いが起ころうか。聞くところでは、梁王が西へ来て入朝し、竇太后に拝謁して内々に会い、景帝とともに太后の前に座り、私的な話をしていた。太后が帝に言った。「殷の道は親族を親しみ、周の道は尊い者を尊ぶと聞いている。その意義は一つだ。わたしの亡き後は、梁の孝王をよろしく頼む。」景帝は席でひざまずいて身を起こし、「承知しました」と言った。酒宴が終わって出てくると、帝は袁盎ら経学に通じた大臣を呼んで言った。「太后はこのように言われたが、どういう意味か。」皆が答えた。「太后のお考えは、梁王を立てて帝の太子にしたいということだ。」帝がその理由を問うと、袁盎らは言った。「殷の道が親族を親しむとは、弟を立てることである。周の道が尊い者を尊ぶとは、子を立てることである。殷の道は質朴で、質朴は天にのっとり、親しい者を親しむので弟を立てる。周の道は文飾を重んじ、文は地にのっとる。尊ぶとは敬うことで、その根本と始まりを敬うので長子を立てる。周の道では、太子が死ねば嫡孫を立てる。殷の道では、太子が死ねばその弟を立てる。」帝が「あなた方はどう考えるか」と問うと、皆が答えた。「いま漢は周にのっとっている。周の道では弟を立てることはできず、子を立てるべきである。だから『春秋』は宋の宣公を非難したのだ。宋の宣公は死に臨んで子を立てず、弟に国を与えた。弟は国を受けて死ぬと、また国を兄の子に返した。弟の子はこれに異を唱え、自分こそ父の跡を継ぐべきだと考えて、兄の子を刺し殺した。そのため国は乱れ、災いが絶えなかった。それゆえ『春秋』に『君子は正しい筋道に立つことを重んじる。宋の災いは宣公が招いたものだ』とある。わたくしどもが太后にお目にかかって申し上げたい。」袁盎らは太后に会って言った。「太后は梁王を立てたいとおっしゃる。では梁王が亡くなったら、誰を立てるおつもりか。」太后は「また帝の子を立てる」と答えた。
解説
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史記 梁孝王世家大臣時に其の不可なる状を正言せず、意に阿りて小を治め、私かに意を説ばしめて以て賞賜を受く、忠臣に非ざるなり。斉しく魏其侯竇嬰の正言の如くんば、何を以て後禍有らんや。景帝王と燕見し、太后に侍して飲む、景帝曰く、「千秋万歳の後王に伝へん」と。太后喜説す。竇嬰前に在り、地に拠りて言ひて曰く、「漢法の約は、子適孫に伝ふ、今帝何を以て弟に伝ふるを得て、擅に高帝の約を乱さんや」と。是に於いて景帝黙然として声無し。太后の意説ばず。故に成王小弱の弟と樹下に立ち、一桐葉を取りて以て之に与へて、曰く、「吾用て汝を封ぜん」と。周公之を聞き、進み見えて曰く、「天王弟を封ずるは、甚だ善し」と。成王曰く、「吾直だ与に戯るるのみ」と。周公曰く、「人主は過挙無く、当に戯言有るべからず、之を言へば必ず之を行ふ」と。是に於いて乃ち小弟を封ずるに応県を以てす。是の後成王歯を没するまで敢へて戯言有らず、言へば必ず之を行ふ。孝経に曰く、「法に非ざれば言はず、道に非ざれば行はず」と。此れ聖人の法言なり。今主上宜しく好言を梁王に出だすべからず。梁王は上に太后の重き有り、驕蹇日久し、数々景帝の好言を聞く、千秋万世の後王に伝へんと、而して実は行はず。又諸侯王の天子に朝見するは、漢法凡そ当に四見すべきのみ。始めて到れば、入りて小見す。正月朔旦に到りて、皮薦璧玉を奉じて正月を賀す、法見なり。後三日、王の為に置酒し、金銭財物を賜ふ。後二日、復た入りて小見し、辞して去る。凡そ長安に留まること二十日に過ぎず。小見とは、禁門の内に燕見し、省中に飲む、士人の入るを得る所に非ざるなり。今梁王西のかた朝し、因りて留まること、且に半歳ならんとす。入りては人主と輦を同じくし、出でては与に車を同じくす。風を示すに大言を以てして実は与へず、怨言を出だし、畔逆を謀らしめ、乃ち随ひて之を憂ふ、亦遠からずや。大賢人に非ざれば、退譲を知らず。
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史記 梁孝王世家明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
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史記 梁孝王世家是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
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