史記 / 梁孝王世家
公卿請廢襄為庶人。天子曰:「李太后有淫行,而梁王襄無良師傅,故陷不義。」乃削梁八城,梟任王后首于市。梁餘尚有十城。襄立三十九年卒,謚為平王。子無傷立為梁王也。濟川王明者,梁孝王子,以桓邑侯孝景中六年為濟川王。七歲,坐射殺其中尉,漢有司請誅,天子弗忍誅,廢明為庶人。遷房陵,地入于漢為郡。濟東王彭離者,梁孝王子,以孝景中六年為濟東王。二十九年,彭離驕悍,無人君禮,昏暮私與其奴、亡命少年數十人行剽殺人,取財物以為好。所殺發覺者百餘人,國皆知之,莫敢夜行。所殺者子上書言。漢有司請誅,上不忍,廢以為庶人,遷上庸,地入于漢,為大河郡。山陽哀王定者,梁孝王子,以孝景中六年為山陽王。九年卒,無子,國除,地入于漢,為山陽郡。濟陰哀王不識者,梁孝王子,以孝景中六年為濟陰王。一歲卒,無子,國除,地入于漢,為濟陰郡。太史公曰:梁孝王雖以親愛之故,王膏腴之地,然會漢家隆盛,百姓殷富,故能植其財貨,廣宮室,車服擬於天子。然亦僭矣。褚先生曰:臣為郎時,聞之於宮殿中老郎吏好事者稱道之也。竊以為令梁孝王怨望,欲為不善者,事從中生。今太后,女主也,以愛少子故,欲令梁王為太子。
新字:公卿請廃襄為庶人。天子曰:「李太后有淫行,而梁王襄無良師傅,故陥不義。」乃削梁八城,梟任王后首于市。梁余尚有十城。襄立三十九年卒,謚為平王。子無傷立為梁王也。済川王明者,梁孝王子,以桓邑侯孝景中六年為済川王。七歳,坐射殺其中尉,漢有司請誅,天子弗忍誅,廃明為庶人。遷房陵,地入于漢為郡。済東王彭離者,梁孝王子,以孝景中六年為済東王。二十九年,彭離驕悍,無人君礼,昏暮私与其奴、亡命少年数十人行剽殺人,取財物以為好。所殺発覚者百余人,国皆知之,莫敢夜行。所殺者子上書言。漢有司請誅,上不忍,廃以為庶人,遷上庸,地入于漢,為大河郡。山陽哀王定者,梁孝王子,以孝景中六年為山陽王。九年卒,無子,国除,地入于漢,為山陽郡。済陰哀王不識者,梁孝王子,以孝景中六年為済陰王。一歳卒,無子,国除,地入于漢,為済陰郡。太史公曰:梁孝王雖以親愛之故,王膏腴之地,然会漢家隆盛,百姓殷富,故能植其財貨,広宮室,車服擬於天子。然亦僭矣。褚先生曰:臣為郎時,聞之於宮殿中老郎吏好事者称道之也。窃以為令梁孝王怨望,欲為不善者,事従中生。今太后,女主也,以愛少子故,欲令梁王為太子。
書き下し
公卿襄を廃して庶人と為さんことを請ふ。天子曰く、「李太后淫行有り、而して梁王襄良き師傅無し、故に不義に陥る」と。乃ち梁の八城を削り、任王后の首を市に梟す。梁余りて尚ほ十城有り。襄立つこと三十九年にして卒し、謚して平王と為す。子無傷立ちて梁王と為るなり。済川王明は、梁の孝王の子なり、桓邑侯を以て孝景の中六年に済川王と為る。七歳にして、其の中尉を射殺するに坐し、漢の有司誅せんことを請ふも、天子誅するに忍びず、明を廃して庶人と為す。房陵に遷し、地は漢に入りて郡と為る。済東王彭離は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済東王と為る。二十九年、彭離驕悍にして、人君の礼無く、昏暮に私かに其の奴・亡命の少年数十人と剽を行ひて人を殺し、財物を取りて以て好みと為す。殺す所の発覚する者百余人、国皆之を知り、敢へて夜行く莫し。殺さるる者の子上書して言ふ。漢の有司誅せんことを請ふも、上忍びず、廃して以て庶人と為し、上庸に遷し、地は漢に入り、大河郡と為る。山陽の哀王定は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て山陽王と為る。九年にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、山陽郡と為る。済陰の哀王不識は、梁の孝王の子なり、孝景の中六年を以て済陰王と為る。一歳にして卒し、子無く、国除かれ、地は漢に入り、済陰郡と為る。太史公曰く、梁の孝王親愛の故を以て、膏腴の地に王たりと雖も、然れども漢家の隆盛、百姓の殷富に会ふ、故に能く其の財貨を植やし、宮室を広め、車服天子に擬す。然れども亦僭なり。褚先生曰く、臣郎たりし時、之を宮殿中の老郎吏の事を好む者の称道するに聞けり。竊かに以為へらく梁の孝王をして怨望し、不善を為さんと欲せしむる者は、事中より生ず。今太后は、女主なり、少子を愛するの故を以て、梁王をして太子と為さしめんと欲す。
現代語訳
公卿たちは襄を廃して庶人とするよう願い出た。天子は言った。「李太后に不行跡があり、しかも梁王襄にはよい守り役がいなかった。それゆえ不義に陥ったのだ。」そこで梁から八つの城を削り、任王后の首を斬って市場にさらした。梁にはなお十の城が残った。襄は王となって三十九年で亡くなり、平王と諡された。子の無傷が立って梁王となった。済川王の明は梁の孝王の子で、桓邑侯から孝景帝の中元六年に済川王となった。七年目に、自分の中尉を射殺した罪に問われ、漢の担当官は誅殺を求めたが、天子は忍びず、明を廃して庶人とした。房陵に移し、領地は漢に編入されて郡となった。済東王の彭離は梁の孝王の子で、孝景帝の中元六年に済東王となった。二十九年目、彭離は驕り高ぶって乱暴で、君主としての礼がなく、夕暮れになるとひそかに奴僕や亡命者の若者数十人と追い剥ぎをして人を殺し、財物を奪うことを楽しみとした。殺したことが発覚した者だけで百人余りに及び、国中の人がこれを知っていて、夜に出歩く者はいなかった。殺された者の子が上書して訴えた。漢の担当官は誅殺を求めたが、帝は忍びず、廃して庶人とし、上庸に移し、領地は漢に編入されて大河郡となった。山陽の哀王定は梁の孝王の子で、孝景帝の中元六年に山陽王となった。九年で亡くなり、子がなかったので国は廃され、領地は漢に編入されて山陽郡となった。済陰の哀王不識は梁の孝王の子で、孝景帝の中元六年に済陰王となった。一年で亡くなり、子がなかったので国は廃され、領地は漢に編入されて済陰郡となった。太史公は言う。梁の孝王は、母に愛された縁で肥沃な土地の王となったうえ、漢の隆盛と民の豊かさに恵まれたので、財貨を増やし、宮殿を広げ、車や衣服を天子になぞらえることができた。しかしそれはやはり分を越えたふるまいであった。褚先生は言う。わたしが郎官であったとき、宮中の年老いた郎吏で故事に詳しい者がこの話をするのを聞いた。ひそかに思うに、梁の孝王に恨みを抱かせ、よからぬことを企てさせた原因は、宮中から生じたのである。当時の太后は女性の君主であり、末子をかわいがるあまり、梁王を太子にしようとした。
解説
関連する章句
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史記 梁孝王世家是に於いて天子梁王を意ひ、賊を逐ふに、果たして梁之を使はす。乃ち使を遣はして冠蓋道に相望み、梁を覆按し、公孫詭・羊勝を捕へしむ。公孫詭・羊勝王の後宮に匿る。使者二千石を責むること急なり、梁の相軒丘豹及び内史韓安国王を進諫し、王乃ち勝・詭をして皆自殺せしめ、之を出だす。上此に由りて梁王を怨望す。梁王恐れ、乃ち韓安国をして長公主に因りて罪を太后に謝せしめ、然る後に釈さるるを得たり。上の怒り稍く解け、因りて上書して朝せんことを請ふ。既に関に至るや、茅蘭王に説き、布車に乗り、両騎を従へて入り、長公主の園に匿れしむ。漢使をして王を迎へしむるに、王已に関に入り、車騎尽く外に居り、王の処を知らず。太后泣きて曰く、「帝吾が子を殺せり」と。景帝憂へ恐る。是に於いて梁王斧質を闕下に伏して、罪を謝す、然る後に太后・景帝大いに喜び、相泣き、復た故の如し。悉く王の従官を召して関に入れしむ。然れども景帝益々王を疏んじ、車輦を同じくせず。三十五年の冬、復た朝す。上疏して留まらんと欲するも、上許さず。国に帰り、意忽忽として楽しまず。北のかた良山に猟するに、牛を献ずる有り、足背上に出づ、孝王之を悪む。六月中、熱を病み、六日にして卒し、謚して孝王と曰ふ。孝王は慈孝にして、太后の病むを聞く毎に、口食ふ能はず、居りて安く寝ねず、常に長安に留まりて太后に侍せんと欲す。太后も亦之を愛す。梁王の薨ずるを聞くに及び、竇太后哭して哀しみを極め、食はずして、曰く、「帝果たして吾が子を殺せり」と。景帝哀しみ懼れ、為す所を知らず。長公主と之を計り、乃ち梁を分かちて五国と為し、尽く孝王の男五人を立てて王と為し、女五人は皆湯沐邑を食ましむ。是に於いて之を太后に奏す、太后乃ち説び、帝の為に壱湌を加ふ。梁の孝王の長子買梁王と為る、是れ共王為り。子明は済川王と為り、子彭離は済東王と為り、子定は山陽王と為り、子不識は済陰王と為る。
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史記 梁孝王世家明年、漢太子を立つ。其の後梁最も親しく、功有り、又大国為り、天下の膏腴の地に居る。地は北泰山を界とし、西高陽に至る、四十余城、皆大県多し。孝王は、竇太后の少子なり、之を愛し、賞賜勝げて道ふべからず。是に於いて孝王東苑を築く、方三百余里。睢陽城を広ぐること七十里。大いに宮室を治め、複道を為り、宮より平台に連属すること三十余里。天子の旌旗を賜はるを得、出づるに千乗万騎を従ふ。東西に馳猟し、天子に擬す。出づるには蹕と言ひ、入るには警と言ふ。四方の豪桀を招延し、山より以東の游説の士、畢く至らざるは莫し、斉人羊勝・公孫詭・鄒陽の属なり。公孫詭奇邪の計多く、初めて王に見ゆるに、千金を賜はり、官中尉に至り、梁之を号して公孫将軍と曰ふ、梁多く兵器弩弓矛数十万を作り、而して府庫の金銭且に百巨万ならんとし、珠玉宝器京師より多し。二十九年十月、梁の孝王入朝す。景帝使をして節を持ち輿駟馬に乗りて、梁王を関下に迎へしむ。既に朝し、上疏して因りて留まる、太后の親しむを以ての故なり。王入れば則ち景帝に侍して輦を同じくし、出づれば則ち車を同じくして游猟し、禽獣を上林の中に射る。梁の侍中・郎・謁者籍を著けて天子の殿門に引きて出入し、漢の宦官と異なる無し。十一月、上栗太子を廃し、竇太后心に孝王を以て後嗣と為さんと欲す。大臣及び袁盎等景帝に関説する所有り、竇太后の義格まり、亦遂に復た梁王を以て嗣と為すの事を言はず此に由る。事秘なるを以て、世知る莫し。乃ち辞して国に帰る。其の夏四月、上膠東王を立てて太子と為す。梁王袁盎及び議臣を怨み、乃ち羊勝・公孫詭の属と陰かに人をして袁盎及び他の議臣十余人を刺殺せしむ。其の賊を逐ふも、未だ得ざるなり。
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史記 梁孝王世家孝王未だ死せざる時、財は巨万を以て計へ、勝げて数ふべからず。死するに及びて、蔵府の余りの黄金尚ほ四十余万斤、他の財物も是に称ふ。梁の共王の三年、景帝崩ず。共王立つこと七年にして卒し、子襄立つ、是れ平王為り。梁の平王襄の十四年、母を陳太后と曰ふ。共王の母を李太后と曰ふ。李太后は、親しく平王の大母なり。而して平王の后は姓任、任王后と曰ふ。任王后甚だ平王襄に寵有り。初め、孝王在りし時、罍樽有り、直千金なり。孝王後世を誡めて、善く罍樽を保ち、以て人に与ふることを得る無からしむ。任王后聞きて罍樽を得んと欲す。平王の大母李太后曰く、「先王命有り、罍樽を以て人に与ふることを得る無かれと。他物は百巨万と雖も、猶ほ自ら恣にせよ」と。任王后絶だ之を得んと欲す。平王襄直ちに人をして府を開きて罍樽を取らしめ、任王后に賜ふ。李太后大いに怒り、漢の使者来たるに、自ら言はんと欲す、平王襄及び任王后遮り止め、門を閉づ、李太后門を争ひ、指を措み、遂に漢の使者に見ゆるを得ず。李太后も亦私かに食官長及び郎中尹霸等の士と通乱す、而して王と任王后と此を以て人をして李太后を風止せしむ、李太后内に淫行有り、亦已む。後病みて薨ず。病む時、任后未だ嘗て病を請はず、薨ずるに、又喪を持せず。元朔中、睢陽の人類犴反なる者、人其の父を辱むる有り、而して淮陽の太守の客と出でて車を同じくす。太守の客出でて車を下るに、類犴反其の仇を車上に殺して去る。淮陽の太守怒り、以て梁の二千石を譲む。二千石以下反を求むること甚だ急にして、反の親戚を執ふ。反国の陰事を知り、乃ち変事を上り、具に王と大母と樽を争ふ状を告知す。時に丞相以下見て之を知り、以て梁の長吏を傷つけんと欲し、其の書天子に聞こゆ。天子吏に下して験問せしむるに、之有り。
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史記 梁孝王世家梁の孝王武は、孝文皇帝の子なり、而して孝景帝と母を同じくす。母は、竇太后なり。孝文帝凡そ四男あり。長子を太子と曰ふ、是れ孝景帝為り。次子は武、次子は参、次子は勝。孝文帝即位の二年、武を以て代王と為し、参を以て太原王と為し、勝を以て梁王と為す。二歳にして、代王を徙して淮陽王と為す。代を以て尽く太原王に与へ、号して代王と曰ふ。参立つこと十七年、孝文の後二年卒し、謚して孝王と為す。子登嗣ぎて立つ、是れ代の共王為り。立つこと二十九年、元光二年卒す。子義立つ、是れ代王為り。十九年にして、漢関を広げ、常山を以て限りと為し、而して代王を徙して清河に王たらしむ。清河王の徙るは元鼎三年を以てなり。初め、武淮陽王たること十年にして、梁王勝卒し、謚して梁の懐王と為す。懐王最も少子にして、愛幸他子に異なれり。其の明年、淮陽王武を徙して梁王と為す。梁王の初めて梁に王たるは、孝文帝の十二年なり。梁王初めて王たりしより通歴已に十一年なり。梁王の十四年、入朝す。十七年、十八年、比年入朝し、留まり、其の明年、乃ち国に之く。二十一年、入朝す。二十二年、孝文帝崩ず。二十四年、入朝す。二十五年、復た入朝す。是の時上未だ太子を置かざるなり。上梁王と燕飲し、嘗て従容として言ひて曰く、「千秋万歳の後王に伝へん」と。王辞謝す。至言に非ざるを知ると雖も、然れども心内に喜ぶ。太后も亦然り。其の春、呉楚斉趙の七国反す。呉楚先づ梁の棘壁を撃ち、数万人を殺す。梁の孝王睢陽に城守し、而して韓安国・張羽等をして大将軍と為し、以て呉楚を距がしむ。呉楚梁を以て限りと為し、敢へて過ぎて西せず、太尉亜夫等と相距ぐこと三月。呉楚破れ、而して梁の破殺虜略する所漢と中分す。
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史記 梁孝王世家今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。
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