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史記 / 絳侯周勃世家

已而其精兵果奔西北,不得入。吳兵既餓,乃引而去。太尉出精兵追擊,大破之。吳王濞棄其軍,而與壯士數千人亡走,保於江南丹徒。漢兵因乘勝,遂盡虜之,降其兵,購吳王千金。月餘,越人斬吳王頭以告。凡相攻守三月,而吳楚破平。於是諸將乃以太尉計謀為是。由此梁孝王與太尉有卻。歸,復置太尉官。五歲,遷為丞相,景帝甚重之。景帝廢栗太子,丞相固爭之,不得。景帝由此疏之。而梁孝王每朝,常與太后言條侯之短。竇太后曰:「皇后兄王信可侯也。」景帝讓曰:「始南皮、章武侯先帝不侯,及臣即位乃侯之。信未得封也。」竇太后曰:「人主各以時行耳。自竇長君在時,竟不得侯,死後乃封其子彭祖顧得侯。吾甚恨之。帝趣侯信也!」景帝曰:「請得與丞相議之。」丞相議之,亞夫曰:「高皇帝約『非劉氏不得王,非有功不得侯。不如約,天下共擊之』。今信雖皇后兄,無功,侯之,非約也。」景帝默然而止。其後匈奴王唯徐盧等五人降,景帝欲侯之以勸後。丞相亞夫曰:「彼背其主降陛下,陛下侯之,則何以責人臣不守節者乎?」景帝曰:「丞相議不可用。」乃悉封唯徐盧等為列侯。亞夫因謝病。景帝中三年,以病免相。頃之,景帝居禁中,召條侯,賜食。

新字:已而其精兵果奔西北,不得入。呉兵既餓,乃引而去。太尉出精兵追撃,大破之。呉王濞棄其軍,而与壮士数千人亡走,保於江南丹徒。漢兵因乗勝,遂尽虜之,降其兵,購呉王千金。月余,越人斬呉王頭以告。凡相攻守三月,而呉楚破平。於是諸将乃以太尉計謀為是。由此梁孝王与太尉有却。帰,復置太尉官。五歳,遷為丞相,景帝甚重之。景帝廃栗太子,丞相固争之,不得。景帝由此疏之。而梁孝王毎朝,常与太后言条侯之短。竇太后曰:「皇后兄王信可侯也。」景帝譲曰:「始南皮、章武侯先帝不侯,及臣即位乃侯之。信未得封也。」竇太后曰:「人主各以時行耳。自竇長君在時,竟不得侯,死後乃封其子彭祖顧得侯。吾甚恨之。帝趣侯信也!」景帝曰:「請得与丞相議之。」丞相議之,亜夫曰:「高皇帝約『非劉氏不得王,非有功不得侯。不如約,天下共撃之』。今信雖皇后兄,無功,侯之,非約也。」景帝黙然而止。其後匈奴王唯徐盧等五人降,景帝欲侯之以勧後。丞相亜夫曰:「彼背其主降陛下,陛下侯之,則何以責人臣不守節者乎?」景帝曰:「丞相議不可用。」乃悉封唯徐盧等為列侯。亜夫因謝病。景帝中三年,以病免相。頃之,景帝居禁中,召条侯,賜食。

書き下し

已にして其の精兵果たして西北に奔るも、入るを得ず。呉兵既に餓ゑ、乃ち引きて去る。太尉精兵を出だして追撃し、大いに之を破る。呉王濞其の軍を棄てて、壮士数千人と亡げ走り、江南の丹徒に保つ。漢兵因りて勝ちに乗じ、遂に尽く之を虜にし、其の兵を降し、呉王を購ふこと千金。月余にして、越人呉王の頭を斬りて以て告ぐ。凡そ相攻守すること三月にして、呉楚破れ平らぐ。是に於いて諸将乃ち太尉の計謀を以て是と為す。此に由りて梁孝王太尉と卻有り。帰りて、復た太尉の官を置く。五歳にして、遷りて丞相と為り、景帝甚だ之を重んず。景帝栗太子を廃するに、丞相固く之を争ふも、得ず。景帝此に由りて之を疏んず。而して梁孝王朝する毎に、常に太后と条侯の短を言ふ。竇太后曰く、「皇后の兄王信侯とすべきなり」と。景帝譲りて曰く、「始め南皮・章武侯は先帝侯とせず、臣即位するに及びて乃ち之を侯とす。信は未だ封ずるを得ざるなり」と。竇太后曰く、「人主は各々時を以て行ふのみ。竇長君在りし時より、竟に侯たるを得ず、死後乃ち其の子彭祖を封じて顧つて侯たるを得しむ。吾甚だ之を恨む。帝趣やかに信を侯とせよ」と。景帝曰く、「請ふ丞相と之を議するを得ん」と。丞相之を議するに、亜夫曰く、「高皇帝約すらく『劉氏に非ざれば王たるを得ず、功有るに非ざれば侯たるを得ず。約の如くならずんば、天下共に之を撃て』と。今信皇后の兄なりと雖も、功無し、之を侯とするは、約に非ざるなり」と。景帝黙然として止む。其の後匈奴王唯徐盧等五人降る、景帝之を侯として以て後を勧めんと欲す。丞相亜夫曰く、「彼其の主に背きて陛下に降る、陛下之を侯とせば、則ち何を以て人臣の節を守らざる者を責めんや」と。景帝曰く、「丞相の議用ふべからず」と。乃ち悉く唯徐盧等を封じて列侯と為す。亜夫因りて病と謝す。景帝の中三年、病を以て相を免ぜらる。頃之にして、景帝禁中に居り、条侯を召して、食を賜ふ。

現代語訳

やがて呉の精兵は案の定西北に殺到したが、入ることはできなかった。呉の兵は飢えきって、ついに退却した。太尉は精兵を出して追撃し、大いに破った。呉王劉濞(りゅうひ)は軍を捨て、壮士数千人とともに逃げ、江南の丹徒に立てこもった。漢軍は勝ちに乗じてことごとく捕らえ、その兵を降伏させ、呉王の首に千金の懸賞をかけた。ひと月あまりして、越の人が呉王の首を斬って届け出た。攻防は合わせて三か月で、呉・楚は平定された。こうして諸将は、太尉の作戦が正しかったと認めた。しかしこのことから、梁孝王と太尉の間に溝ができた。都に帰ると、再び太尉の官が置かれた。五年後、亜夫は昇進して丞相となり、景帝は彼を非常に重んじた。景帝が栗太子(劉栄)を廃そうとしたとき、丞相は強く反対したが、聞き入れられなかった。景帝はこれ以来亜夫を疎んじるようになった。そのうえ梁孝王は朝見のたびに、いつも竇太后に条侯の欠点を吹き込んだ。竇太后が言った。「皇后の兄の王信を侯にするべきでしょう。」景帝は辞退して言った。「かつて南皮侯・章武侯(竇太后の甥と弟)も先帝は侯にせず、わたしが即位してから侯にしたのだ。王信はまだ封じることができません。」竇太后は言った。「君主はそれぞれ時に応じて行うものでしょう。竇長君(太后の兄)は生きているうちはついに侯になれず、死んでからその子の彭祖がかえって侯になった。わたしはそれがとても悔しくてならない。帝よ、早く王信を侯にしなさい。」景帝は「丞相と相談させてください」と言った。丞相が議したところ、亜夫は言った。「高皇帝は『劉氏でない者は王になれない。功のない者は侯になれない。この約束に背く者があれば、天下がともにこれを討て』と約されました。いま王信は皇后の兄ではありますが、功がありません。これを侯にするのは約束に反しましょう。」景帝は黙ってこの話をやめた。その後、匈奴の王唯徐盧ら五人が降ってくると、景帝は彼らを侯にして後に続く者を励まそうとした。丞相亜夫は言った。「彼らは自分の主君に背いて陛下に降った者どもだ。陛下が彼らを侯にすれば、臣下で節を守らない者をどうして責められましょう。」景帝は「丞相の意見は採用できない」と言い、唯徐盧らをすべて列侯に封じた。亜夫はこれを機に病気を理由に辞任を願った。景帝の中元三年、病気のため丞相を免じられた。しばらくして、景帝は宮中にいて条侯を呼び、食事を賜った。

解説

呉楚七国の乱を三か月で平定した周亜夫が、その後、正論を重ねるたびに景帝の心を失っていく過程です。栗太子の廃立への反対、皇后の兄王信を侯にすることへの反対、匈奴の降将を侯にすることへの反対。いずれも高祖の約束や臣下の節義という筋の通った理由がありますが、景帝から見れば、ことごとく自分の意向に逆らう丞相でした。加えて、梁救援を拒まれた梁孝王が竇太后に悪口を吹き込み続けます。司馬遷は亜夫の言葉に理があることを示しつつ、理だけでは君主との関係を保てない現実を描いています。正しいことを言い続ける人が、なぜ組織の中で孤立していくのか。伝え方や時機、相手の面子への配慮を考えさせる段です。

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