史記 / 絳侯周勃世家
獨置大胾,無切肉,又不置櫡。條侯心不平,顧謂尚席取櫡。景帝視而笑曰:「此不足君所乎?」條侯免冠謝。上起,條侯因趨出。景帝以目送之,曰:「此怏怏者非少主臣也!」居無何,條侯子為父買工官尚方甲楯五百被可以葬者。取庸苦之,不予錢。庸知其盜買縣官器,怒而上變告子,事連汙條侯。書既聞上,上下吏。吏簿責條侯,條侯不對。景帝罵之曰:「吾不用也。」召詣廷尉。廷尉責曰:「君侯欲反邪?」亞夫曰:「臣所買器,乃葬器也,何謂反邪?」吏曰:「君侯縱不反地上,即欲反地下耳。」吏侵之益急。初,吏捕條侯,條侯欲自殺,夫人止之,以故不得死,遂入廷尉。因不食五日,嘔血而死。國除。絕一歲,景帝乃更封絳侯勃他子堅為平曲侯,續絳侯後。十九年卒,謚為共侯。子建德代侯,十三年,為太子太傅。坐酎金不善,元鼎五年,有罪,國除。條侯果餓死。死後,景帝乃封王信為蓋侯。太史公曰:絳侯周勃始為布衣時,鄙樸人也,才能不過凡庸。及從高祖定天下,在將相位,諸呂欲作亂,勃匡國家難,復之乎正。雖伊尹、周公,何以加哉!亞夫之用兵,持威重,執堅刃,穰苴曷有加焉!足己而不學,守節不遜,終以窮困。悲夫!
新字:独置大胾,無切肉,又不置櫡。条侯心不平,顧謂尚席取櫡。景帝視而笑曰:「此不足君所乎?」条侯免冠謝。上起,条侯因趨出。景帝以目送之,曰:「此怏怏者非少主臣也!」居無何,条侯子為父買工官尚方甲楯五百被可以葬者。取庸苦之,不予銭。庸知其盗買県官器,怒而上変告子,事連汚条侯。書既聞上,上下吏。吏簿責条侯,条侯不対。景帝罵之曰:「吾不用也。」召詣廷尉。廷尉責曰:「君侯欲反邪?」亜夫曰:「臣所買器,乃葬器也,何謂反邪?」吏曰:「君侯縦不反地上,即欲反地下耳。」吏侵之益急。初,吏捕条侯,条侯欲自殺,夫人止之,以故不得死,遂入廷尉。因不食五日,嘔血而死。国除。絶一歳,景帝乃更封絳侯勃他子堅為平曲侯,続絳侯後。十九年卒,謚為共侯。子建徳代侯,十三年,為太子太傅。坐酎金不善,元鼎五年,有罪,国除。条侯果餓死。死後,景帝乃封王信為蓋侯。太史公曰:絳侯周勃始為布衣時,鄙樸人也,才能不過凡庸。及従高祖定天下,在将相位,諸呂欲作乱,勃匡国家難,復之乎正。雖伊尹、周公,何以加哉!亜夫之用兵,持威重,執堅刃,穰苴曷有加焉!足己而不学,守節不遜,終以窮困。悲夫!
書き下し
独り大胾を置き、切肉無く、又櫡を置かず。条侯心平らかならず、顧みて尚席に謂ひて櫡を取らしむ。景帝視て笑ひて曰く、「此れ君の所を足らざるか」と。条侯冠を免ぎて謝す。上起つ、条侯因りて趨りて出づ。景帝目を以て之を送りて、曰く、「此の怏怏たる者は少主の臣に非ざるなり」と。居ること何も無くして、条侯の子父の為に工官尚方の甲楯五百被の以て葬るべき者を買ふ。庸を取りて之を苦しめ、銭を予へず。庸其の県官の器を盗み買ふを知り、怒りて上変して子を告ぐ、事連なりて条侯を汚す。書既に上に聞こゆ、上吏に下す。吏条侯を簿責するも、条侯対へず。景帝之を罵りて曰く、「吾用ひざるなり」と。召して廷尉に詣らしむ。廷尉責めて曰く、「君侯反せんと欲するか」と。亜夫曰く、「臣の買ふ所の器は、乃ち葬器なり、何ぞ反と謂ふや」と。吏曰く、「君侯縦ひ地上に反せずとも、即ち地下に反せんと欲するのみ」と。吏之を侵すこと益々急なり。初め、吏条侯を捕ふるに、条侯自殺せんと欲す、夫人之を止む、故を以て死するを得ず、遂に廷尉に入る。因りて食はざること五日、血を嘔きて死す。国除かる。絶ゆること一歳、景帝乃ち更めて絳侯勃の他の子堅を封じて平曲侯と為し、絳侯の後を続がしむ。十九年にして卒し、謚して共侯と為す。子建徳代はりて侯たり、十三年にして、太子太傅と為る。酎金善からざるに坐し、元鼎五年、罪有りて、国除かる。条侯果たして餓死す。死後、景帝乃ち王信を封じて蓋侯と為す。太史公曰く、絳侯周勃始め布衣たりし時、鄙樸の人なり、才能凡庸に過ぎず。高祖に従ひて天下を定むるに及び、将相の位に在り、諸呂乱を作さんと欲するに、勃国家の難を匡し、之を正に復す。伊尹・周公と雖も、何を以て加へんや。亜夫の兵を用ふる、威重を持し、堅刃を執る、穣苴も曷ぞ加ふること有らん。己に足りて学ばず、節を守りて遜らず、終に以て窮困す。悲しいかな。
現代語訳
(景帝は)条侯の前にだけ大きな肉の塊を置き、切った肉はなく、箸も置かなかった。条侯は内心おもしろくなく、振り返って給仕係に箸を持ってこさせた。景帝はそれを見て笑って言った。「これではあなたには物足りないのか。」条侯は冠を脱いで詫びた。帝が立ち上がると、条侯はそのまま小走りに退出した。景帝は目でその後ろ姿を見送りながら言った。「この不満げな男は、幼い君主に仕える臣ではない。」まもなく、条侯の子が父のために、宮中の工房で作られた副葬用の鎧と盾五百組を買い入れた。運搬に人夫を雇ってこき使い、賃金を払わなかった。人夫は彼が官の器物を不正に買ったことを知っていたので、怒って変事を上書し、子を訴えた。事件は条侯にまで及んだ。上書が帝に届くと、帝は役人に取り調べを命じた。役人が罪状を並べて条侯を問い詰めたが、条侯は答えなかった。景帝は「もうあの男は用いない」と罵り、廷尉のもとへ出頭させた。廷尉が責めて言った。「君侯は謀反を企てたのか。」亜夫は言った。「わたしが買った器物は副葬品だ。どうして謀反などと言うのか。」役人は言った。「君侯は地上で謀反しないとしても、地下で謀反するつもりなのだろう。」役人の責め立てはいよいよ厳しくなった。これより先、役人が条侯を捕らえに来たとき、条侯は自殺しようとしたが、夫人に止められたので死ねず、そのまま廷尉の獄に入った。そこで五日間食を断ち、血を吐いて死んだ。国は取り潰された。一年絶えたのち、景帝は改めて絳侯勃の別の子の堅を平曲侯に封じ、絳侯の家を継がせた。堅は十九年後に亡くなり、共侯と諡された。子の建徳が跡を継いで侯となり、十三年後に太子太傅となった。酎金(宗廟の祭祀に献じる黄金)の品質が悪かった罪に問われ、元鼎五年に罪を得て国は取り潰された。条侯は果たして餓死したのである。その死後、景帝は王信を蓋侯に封じた。太史公は言う。絳侯周勃は、はじめ無位無官の庶民であったころは、田舎の素朴な人で、才能も凡庸にすぎなかった。高祖に従って天下を平定し、将軍・宰相の位に就き、呂氏一族が乱を起こそうとしたとき、国家の危難を正し、正しい道に戻した。伊尹や周公であっても、これ以上のことはできなかっただろう。亜夫の用兵は、威厳と重みを保ち、堅固で鋭い軍を率いた。司馬穣苴(じょうしょ)であっても、これを上回ることはなかっただろう。しかし自分に満足して学ばず、節を守って謙遜しなかったので、ついに窮地に陥った。悲しいことである。
解説
関連する章句
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史記 絳侯周勃世家文帝朝するに、太后冒絮を以て文帝に提げて、曰く、「絳侯皇帝の璽を綰ね、兵を北軍に将ゐしとき、此の時を以て反せず、今一小県に居りて、顧つて反せんと欲するか」と。文帝既に絳侯の獄辞を見て、乃ち謝して曰く、「吏事方に験して之を出ださん」と。是に於いて使をして節を持ちて絳侯を赦さしめ、爵邑を復す。絳侯既に出でて、曰く、「吾嘗て百万の軍を将ゐたり、然れども安くんぞ獄吏の貴きを知らんや」と。絳侯復た国に就く。孝文帝の十一年卒し、謚して武侯と為す。子勝之代はりて侯たり。六歳にして、公主を尚りて、相中らず、人を殺すに坐して、国除かる。絶ゆること一歳、文帝乃ち絳侯勃の子の賢なる者河内の守亜夫を択び、封じて条侯と為し、絳侯の後を続がしむ。条侯亜夫未だ侯たらずして河内の守たりし時より、許負之を相して、曰く、「君後三歳にして侯たらん。侯たること八歳にして将相と為り、国の秉を持し、貴重なること、人臣に於いて両つ無からん。其の後九歳にして君餓死せん」と。亜夫笑ひて曰く、「臣の兄已に父に代はりて侯たり、如し卒すること有らば、子当に代はるべし、亜夫何ぞ侯を説かんや。然れども既已に貴きこと負の言の如くんば、又何ぞ餓死を説かんや。我に指し示せ」と。許負其の口を指して曰く、「従理の口に入る有り、此れ餓死の法なり」と。居ること三歳にして、其の兄絳侯勝之罪有り、孝文帝絳侯の子の賢なる者を択ぶに、皆亜夫を推す、乃ち亜夫を封じて条侯と為し、絳侯の後を続がしむ。文帝の後六年、匈奴大いに辺に入る。乃ち宗正劉礼を以て将軍と為し、霸上に軍せしめ、祝茲侯徐厲を将軍と為し、棘門に軍せしめ、河内の守亜夫を以て将軍と為し、細柳に軍せしめ、以て胡に備ふ。上自ら軍を労ふ。霸上及び棘門の軍に至るや、直ちに馳せ入り、将以下騎して送迎す。已にして細柳の軍に之くに、軍士吏甲を被り、兵刃を鋭くし、弓弩を彀き、満を持す。天子の先駆至るも、入るを得ず。先駆曰く、「天子且に至らんとす」と。
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史記 絳侯周勃世家已にして其の精兵果たして西北に奔るも、入るを得ず。呉兵既に餓ゑ、乃ち引きて去る。太尉精兵を出だして追撃し、大いに之を破る。呉王濞其の軍を棄てて、壮士数千人と亡げ走り、江南の丹徒に保つ。漢兵因りて勝ちに乗じ、遂に尽く之を虜にし、其の兵を降し、呉王を購ふこと千金。月余にして、越人呉王の頭を斬りて以て告ぐ。凡そ相攻守すること三月にして、呉楚破れ平らぐ。是に於いて諸将乃ち太尉の計謀を以て是と為す。此に由りて梁孝王太尉と卻有り。帰りて、復た太尉の官を置く。五歳にして、遷りて丞相と為り、景帝甚だ之を重んず。景帝栗太子を廃するに、丞相固く之を争ふも、得ず。景帝此に由りて之を疏んず。而して梁孝王朝する毎に、常に太后と条侯の短を言ふ。竇太后曰く、「皇后の兄王信侯とすべきなり」と。景帝譲りて曰く、「始め南皮・章武侯は先帝侯とせず、臣即位するに及びて乃ち之を侯とす。信は未だ封ずるを得ざるなり」と。竇太后曰く、「人主は各々時を以て行ふのみ。竇長君在りし時より、竟に侯たるを得ず、死後乃ち其の子彭祖を封じて顧つて侯たるを得しむ。吾甚だ之を恨む。帝趣やかに信を侯とせよ」と。景帝曰く、「請ふ丞相と之を議するを得ん」と。丞相之を議するに、亜夫曰く、「高皇帝約すらく『劉氏に非ざれば王たるを得ず、功有るに非ざれば侯たるを得ず。約の如くならずんば、天下共に之を撃て』と。今信皇后の兄なりと雖も、功無し、之を侯とするは、約に非ざるなり」と。景帝黙然として止む。其の後匈奴王唯徐盧等五人降る、景帝之を侯として以て後を勧めんと欲す。丞相亜夫曰く、「彼其の主に背きて陛下に降る、陛下之を侯とせば、則ち何を以て人臣の節を守らざる者を責めんや」と。景帝曰く、「丞相の議用ふべからず」と。乃ち悉く唯徐盧等を封じて列侯と為す。亜夫因りて病と謝す。景帝の中三年、病を以て相を免ぜらる。頃之にして、景帝禁中に居り、条侯を召して、食を賜ふ。
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史記 絳侯周勃世家勃は人と為り木彊敦厚にして、高帝以為へらく大事を属すべしと。勃は文学を好まず、諸生説士を召す毎に、東郷して坐して之を責む、「趣やかに我が為に語れ」と。其の椎にして文少なきこと此くの如し。勃既に燕を定めて帰るに、高祖已に崩ぜり、列侯を以て孝恵帝に事ふ。孝恵帝の六年、太尉の官を置き、勃を以て太尉と為す。十歳にして、高后崩ず。呂禄趙王を以て漢の上将軍と為り、呂産呂王を以て漢の相国と為り、漢の権を秉り、劉氏を危うくせんと欲す。勃太尉たれども、軍門に入るを得ず。陳平丞相たれども、事に任ずるを得ず。是に於いて勃平と謀り、卒に諸呂を誅して孝文皇帝を立つ。其の語は呂后・孝文の事の中に在り。文帝既に立ち、勃を以て右丞相と為し、金五千斤を賜ひ、食邑万戸なり。居ること月余、人或ひと勃に説きて曰く、「君既に諸呂を誅し、代王を立て、威天下を震はす、而して君厚賞を受け、尊位に処り、寵を以てす、之を久しくせば即ち禍身に及ばん」と。勃懼れ、亦自ら危ぶみ、乃ち謝して相印を帰さんことを請ふ。上之を許す。歳余にして、丞相平卒し、上復た勃を以て丞相と為す。十余月にして、上曰く、「前日吾列侯に詔して国に就かしむるに、或いは未だ行く能はず、丞相は吾が重んずる所なり、其れ之に率先せよ」と。乃ち相を免ぜられて国に就く。歳余、河東の守尉県を行りて絳に至る毎に、絳侯勃自ら誅せらるるを畏れ恐れ、常に甲を被り、家人をして兵を持たしめて以て之に見ゆ。其の後人上書して勃反せんと欲すと告ぐる有り、廷尉に下す。廷尉其の事を長安に下し、勃を逮捕して之を治む。勃恐れ、辞を置くを知らず。吏稍く之を侵辱す。勃千金を以て獄吏に与ふ、獄吏乃ち牘の背に書して之に示して曰く、「公主を以て証と為せ」と。公主は、孝文帝の女なり、勃の太子勝之之を尚る、故に獄吏引きて証と為さしむ。勃の益封受賜は、尽く以て薄昭に予ふ。係ること急なるに及び、薄昭為に薄太后に言ひ、太后も亦以為へらく反事無しと。
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史記 絳侯周勃世家軍門の都尉曰く、「将軍令して曰く『軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず』と」。居ること何も無くして、上至るも、又入るを得ず。是に於いて上乃ち使をして節を持ちて将軍に詔せしむ、「吾入りて軍を労はんと欲す」と。亜夫乃ち言を伝へて壁門を開かしむ。壁門の士吏従属の車騎に謂ひて曰く、「将軍約す、軍中は駆馳するを得ず」と。是に於いて天子乃ち轡を按じて徐ろに行く。営に至るや、将軍亜夫兵を持ちて揖して曰く、「介冑の士は拝せず、請ふ軍礼を以て見えん」と。天子為に動き、容を改めて車に式す。人をして称謝せしむ、「皇帝敬みて将軍を労ふ」と。礼を成して去る。既に軍門を出づるや、群臣皆驚く。文帝曰く、「嗟乎、此れ真の将軍なり。曩者の霸上・棘門の軍は、児戯の若きのみ、其の将固より襲ひて虜にすべきなり。亜夫に至りては、得て犯すべけんや」と。善と称すること之を久しくす。月余にして、三軍皆罷む。乃ち亜夫を拝して中尉と為す。孝文且に崩ぜんとする時、太子を誡めて曰く、「即し緩急有らば、周亜夫真に兵を将ゐるに任ずべし」と。文帝崩じ、亜夫を拝して車騎将軍と為す。孝景の三年、呉楚反す。亜夫中尉を以て太尉と為り、東のかた呉楚を撃つ。因りて自ら上に請ひて曰く、「楚兵は剽軽にして、与に鋒を争ひ難し。願はくは梁を以て之に委ね、其の糧道を絶たば、乃ち制すべし」と。上之を許す。太尉既に兵を滎陽に会するに、呉方に梁を攻め、梁急にして、救ひを請ふ。太尉兵を引きて東北のかた昌邑に走り、壁を深くして守る。梁日に使をして太尉に請はしむるも、太尉便宜を守り、往くを肯んぜず。梁上書して景帝に言ひ、景帝使をして詔して梁を救はしむ。太尉詔を奉ぜず、壁を堅くして出でず、而して軽騎兵弓高侯等をして呉楚の兵の後の食道を絶たしむ。呉兵糧に乏しく、饑ゑ、数々挑戦せんと欲するも、終に出でず。夜、軍中驚き、内に相攻撃して擾乱し、太尉の帳下に至る。太尉終に臥して起きず。頃之にして、復た定まる。後に呉壁の東南の陬に奔る、太尉西北に備へしむ。
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史記 絳侯周勃世家絳侯周勃は、沛の人なり。其の先は巻の人にして、沛に徙る。勃は薄曲を織るを以て生と為し、常に人の為に簫を吹きて喪事に給し、材官の引彊たり。高祖の沛公と為りて初めて起こるや、勃は中涓を以て従ひて胡陵を攻め、方与を下す。方与反し、与に戦ひ、適を卻く。豊を攻む。秦軍を碭の東に撃つ。軍を留及び蕭に還す。復た碭を攻め、之を破る。下邑を下し、先登す。爵五大夫を賜はる。蒙・虞を攻め、之を取る。章邯の車騎を撃ち、殿す。魏の地を定む。爰戚・東緡を攻め、以て往きて栗に至り、之を取る。齧桑を攻め、先登す。秦軍を阿の下に撃ち、之を破る。追ひて濮陽に至り、甄城を下す。都関・定陶を攻め、宛朐を襲ひ取り、単父の令を得。夜に臨済を襲ひ取り、張を攻め、以て前みて巻に至り、之を破る。李由の軍を雍丘の下に撃つ。開封を攻め、先づ城下に至ること多しと為す。後に章邯項梁を破り殺し、沛公と項羽と兵を引きて東のかた碭に如く。初め沛に起こりてより還りて碭に至るまで、一歳二月なり。楚の懐王沛公を封じて安武侯と号し、碭郡の長と為す。沛公勃を拝して虎賁の令と為し、令を以て沛公に従ひて魏の地を定む。東郡の尉を城武に攻め、之を破る。王離の軍を撃ち、之を破る。長社を攻め、先登す。潁陽・緱氏を攻め、河津を絶つ。趙賁の軍を尸の北に撃つ。南のかた南陽の守齮を攻め、武関・嶢関を破る。秦軍を藍田に破り、咸陽に至り、秦を滅ぼす。項羽至り、沛公を以て漢王と為す。漢王勃に爵を賜ひて威武侯と為す。従ひて漢中に入り、拝して将軍と為る。還りて三秦を定め、秦に至り、食邑懐徳を賜はる。槐裏・好畤を攻め、最たり。趙賁・内史保を咸陽に撃ち、最たり。北のかた漆を攻む。章平・姚卬の軍を撃つ。西のかた汧を定む。還りて郿・頻陽を下す。章邯を廃丘に囲む。西丞を破る。盗巴の軍を撃ち、之を破る。上邽を攻む。東のかた嶢関を守る。転じて項籍を撃つ。曲逆を攻め、最たり。還りて敖倉を守り、項籍を追ふ。
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